賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

甲武国境の山村・西原の「食」を訪ねて(その6)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

西原の民宿「中川園」の食事

 私は火の見櫓を降りると、今晩の宿となる民宿「中川園」を訪ねた。今では残り少なくなった茅葺屋根の家で、ご主人の中川勇さんは温厚な方。やさしそうな笑みを目尻にたたえている。小柄な中川さんだが、明治44年生まれには見えない元気さで、毎日、畑仕事に精を出している。

 西原ではめっきり少なくなった麦類だが、中川さんはまだ、オオムギとコムギを作っている。昼食の前に麦畑を見せてもらった。オオムギの穂はかなり伸びていたが、コムギはやっと穂が出たはじめたばかり。西原に来る途中で見たゆずり原のコムギと比べると、ずいぶんと生育が遅いようだ。

 原あたりの標高は500メートルから600メートル。標高350メートル前後のゆずり原よりもかなり高い。その200メートルあまりの高度差のために、西原とゆずり原では、コムギの生育ひとつをとってみても半月近いズレがあるという。また同じ麦類でも、オオムギとコムギではやはり半月ほどのズレがあり、同じ時期に種を播いてもオオムギは6月中旬に収穫できるが、コムギになると6月下旬から7月上旬の収穫になるという。昼食には中川さんの奥さんが「アワ飯」を炊いてくれた。アワ飯やヒエ飯などの雑穀飯はかつての西原での主食であった。

 とはいっても奥さんの炊いてくれたアワ飯は米6合にアワ1合の割合。米だけの飯に比べたらはるかに風味があり、白米の白さにアワの黄色が混ざって、見た目にもきれいなので食が進む。

 ところでアワ飯だが、それを毎日のように食べていたころは、米とアワの比率はまったく逆で、アワの中にパラパラッと米が混ざっているような飯だった。米のひと粒も入らないようなアワ飯やヒエ飯もあたりまえだったという。

 昼食のおかずは山で採ってきたばかりのフキの煮物と、フキを醤油で煮しめたキャラブキ、サンショの若芽を醤油で煮しめた佃煮、焼きシイタケ、塩ザケ。それと豆腐、油揚、冬菜の入った味噌汁。山里の味覚を十二分に堪能させてくれた昼餉の膳だった。

 塩ザケとアワ飯の米を除けば(厳密にいえば塩と醤油も)、昼食の膳に出たもののすべては、中川さん宅の自家製のもの、自給のものである。

 サンショは家まわりに植えられているし、シイタケは竹やぶに隣合った一角で栽培されている。味噌も自家製。このような自給自足の色彩の強い食生活はなにも中川家にかぎったものではなく、西原ではかなり一般的なものである。

 また、米を別にして、塩ザケが唯一、外から入ってきたもの。海から遠く離れた西原ではかつては塩イワシや目刺しがご馳走であった。もちろん塩ザケもそうである。客である私の膳に塩ザケがついたのも、その名残りといえるだろう。