賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その5)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

西原を見下ろす風景

 終点の飯尾で折り返し、原の停留所でバスを降りる。

 私の目の前には、甲武国境の山脈に向かって緩くせりあがっていく傾斜地の畑が一面に広がっている。

 クワ畑が目立って多い。若芽を伸ばしはじめたクワに混じって、茎の赤いナツソバが数センチほどになっている。雑穀類も芽を出している。コンニャクも芽を出している。オオムギやコムギは穂を伸ばしている。狭い畑をさらに細分化して、様々な作物が植えられている。

 オカボ(陸稲)も見える。だが、どこを見渡しても水田はない。原にかぎったことではなく、西原全体を見ても、水田は無いに等しいといえるほどなのである。

 西原の1戸あたりの畑は狭い。たんに狭いだけでなく、所有権が入り組んでいるので、ここの畑、あそこの畑、山の畑というように、1軒の家の畑が飛び飛びになっている。それらの畑を合わせた1戸当りの平均は3反(約3000平方メートル)程度でしかない。その狭い畑を1年中休ませることなく、倍の6反にも、1町歩(約1ヘクタール)分にも使い、雑穀類や麦類、芋類などの畑作物をつくってきた。

 狭い畑を休みなく使うために、西原の人たちは人一倍、よく働く。腰の曲がった老婆は堆肥の入った大きな背負籠を背負って畑に向かっていく。反対に山からは柴を背負ったこれまた老婆が降りてくる。耕運機を押したり、鍬を振って畑を耕しているのも年寄りだ。

 若い人たちの姿はまず見かけない。男たちは自家用車を走らせ、上野原や東京の高尾とか八王子、立川方面の勤めに出ている。女たちもマイクロバスが迎えにくるパートの仕事に出ている。そのため畑は残された年寄りたちの仕事場ということになる。

 原の火の見櫓に登った。

 原と郷原の集落が一望のもとに見渡せる。樹齢数百年の大杉がこんもり茂る一宮神社の森が見える。ひときわ目立つ大屋根は、臨済宗の宝珠寺。寺ほどではないにしても、大屋根の家が多い。20年ほど前までは、そのほとんどが茅葺だった。今でもまだ茅葺の家は残っているが、大半の家は造りをそのままにして、上からトタンをかぶせている。入母屋形式の屋根の破風が兜に似た形をした、山梨県に多く見られる兜造りの家も見られる。

 西原では中二階の家が圧倒的に多い。このような中二階の家が多いのは、養蚕と密接な関係がある。養蚕は炭焼きとともに西原に現金収入をもたらす二大生業だった。それが近年、ともに急速に衰退し、今では養蚕農家は全戸の1割にも満たないほど。それもまだクワ畑はいたるところにあり、春蚕(はるご)、夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご)と年3回、養蚕をやっている。

 まもなく春蚕がはじまろうとしていた。