賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その11)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号 所収)

「白芳館」の食事

 さて、西原の「白芳館」の家まわりの畑だが、石垣の下には菜の花畑とイチゴ畑。茶の植えられた比較的、大きな畑には雑穀のキビとウグイス菜、シュンギク、コカブ、レタス、ラッキョウなどが植えられている。納屋の脇の畑には夏ダイコンやキューリ、カボチャが植えられている。

 ひととおり畑を見せてもらったところで、「酒まんじゅう」を出してもらった。「白芳館」の奥さん、白鳥定子さんは料理上手。とくに「酒まんじゅう」づくりにかけては天下一品。茶菓子がわりに出してくれた酒まんじゅうだが、お茶をすすりながら食べていると、「あー、また西原にやって来た!」という気分にさせてくれる。

 酒まんじゅうのほのかな発酵の香り、餡のおさえた甘さ…。酒まんじゅうはオオムギの麹でつくった甘酒で小麦粉をこね、夏だと数時間、春や秋だとひと晩寝かせて発酵させ、それを丸め、中に餡を入れて蒸籠で蒸したものである。

 このように手間をかけてつくるものなので、ふだんではなかなか食べられるものではなかった。ハレの日、とくに盆の14日には酒まんじゅうをつくって盆棚に供えた。その際、酒まんじゅうは葛の葉にのせた。

 夕暮れの西原をプラプラ歩き、「白芳館」に戻ると夕食だ。その日のメニューはキビ飯、うどん、コンニャクの刺身、精進揚げ、焼きシイタケ、フキの煮物、ヤマメの塩焼き、サラダ、青菜の漬物というものだった。

 キビ飯は「中川園」のアワ飯同様、米が主で、その中にひと握りのキビを混ぜて炊いたもの。うどんは小麦粉にそば粉を混ぜ、さらに粘り気を出すためにネネンボウ(ヤマゴボウ)の葉を混ぜてある。ゆであげたうどんをウグイス菜と西原の周辺でとれるツツイ(ナラタケ)の入った醤油味の汁に入れて食べる。ヨモギに似たネネンボウの香が快く口の中に残った。

 ところで煮込みは日常の食べものだが、それに対してうどんはハレの日の食べものである。とくに盆には欠かせないものだった。盆中には盆礼といって、実家の盆棚に参った。その際、干しうどん(乾麺)を供えた。東京・五日市の「丸す印」のものが多かった。また新盆(あらぼん)の家に参るときは、必ず干しうどんを持っていった。

 盆の14日には、墓参りをする。線香をあげ、盆花を飾り、同じく干しうどんを供えた。さらに14日、15日、16日の盆の間は、うどんを食べることが多かった。盆のご馳走というと「うどん」であった。

 夕食のコンニャクの刺身だが、きれいに皿に盛られ、一見すると海魚の刺身と見間違えるほど。透き通った切り身をワサビ醤油につけて食べるのだが、さっぱりしていてクセがない。フグ刺しに似た味わいがある。ワサビは西原の沢で栽培されているもの。それをすりおろして使う。

 コンニャクの刺身もハレの日の食べものだ。

 コンニャクといえば、かつては西原を代表する換金作物だった。それが病気が大発生したり、輸入ものが入るようになって価格が暴落したり、相場が猫の目のように変わって不安定だったり…と、いくつかの理由が重なり、一時ほどはつくられていない。「白芳館」のご主人、白鳥太郎さんはコンニャクの仲買もやっているが、「コンニャクはもう、商売にはなりません…」といって嘆いていた。