海を渡った伊万里焼を追って(2)
(『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい、所収)
日本とマカオの結びつきは深く、なおかつ古い。種子島に鉄砲を伝えたポルトガル船も、日本ではじめてキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルも、マカオを中継してやってきた。近世の初期、日本から南方の諸港に渡った朱印船も、マカオに寄港した。日本とマカオの間には、そのような歴史がある。
香港島の澳門(マカオ)埠頭から水中翼船に乗ると、1時間あまりでマカオに着いてしまう。あまりにも近い香港とマカオの距離には、驚かされてしまうほどである。
船がマカオに近づくと、海の色が変化し、黄土色に変わってくる。地図を見れば一目瞭然だが、マカオは大河、珠江河口の町。そのことを海の色が教えてくれた。
中国・広東省中山県と細い廻廊でつながっている小半島のマカオは、16世紀の大航海時代に世界を制覇したポルトガルの東洋進出の拠点になった。それはちょうど、オランダがバタビアを拠点にして東洋進出を図ったのと同じと考えてよい。ただしマカオはポルトガルの東洋進出の拠点になったものの、ポルトガル領になったのはずっとあとの1887年のことである。
小高い七つの丘に囲まれた街並み、石畳の坂道、セント・ポール寺院跡、錆びついた大砲が海を見下ろすモンテ砦…と、アジア特有の雑然とした空気の中に、いまもポルトガルの匂いが漂っている。
「イマリ」を探し求めて、マカオの町を歩きはじめた。まずはカモンエス公園の一角にある「カモエンス博物館」を見学した。
カモエンス博物館の250点余りの展示品のうち、3分の1以上は陶磁器類。しかし、それらのコレクションは漢、唐、宋、元、明、清の中国陶磁と19世紀のポルトガルの陶器で、イマリは意外にも1点も見られなかった。
それではと、繁華街のアルメイダ・リベイロ通りや、セント・ポール寺院跡に続く石畳の坂道の両側にある骨董屋を1軒残らず見てまわった。売られているのは大半が焼ものだたが、その大半は明末から清代にかけての中国陶磁で、ここでもイマリはほとんど見られなかった。
全部で20軒以上の骨董屋をのぞいたが、イマリを置いてあったのはほんの数軒でしかなかった。色絵の大皿と円筒形の三段重ねの鉢などが目についたにすぎなかった…。