賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

海を渡った伊万里焼を追って(1)

(『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい、所収)

 

 江戸時代、日本の伊万里焼(有田焼のこと)は長崎からバタビア(現在のジャカルタ)、アフリカ南端のケープタウン経由でオランダへ、さらにはヨーロッパ各国へと送られた。それは「イマリ・ロード」といってもいいほどで、伊万里焼は鎖国・日本の花形的な輸出品であった。

 

 それとは別に、長崎→中国→東南アジア→インド→ペルシャ→アラビア→トルコというもう1本、別な「イマリ・ロード」があった。1985年、そのもう1本、別な「イマリ・ロード」を追ってみた。日本の有田からトルコのイスタンブールへ…。まず最初に、本来ならば中国の広州(広東)に行くべきであったかもしれない。

 

 なぜならば17世紀後半に鎖国を解いた清朝は、1684年にまず上海、寧波、チャンチョウ、マカオの4港を開き、海関(税関)を置き、外国貿易を再開した。それら4港にひきつづいて1724年には広東が開港された。

 

 それが1757年になると、外国貿易は広東1港にまとめられ、中国陶磁はすべて広東港から外国へ出ていった。それよりのち、西方諸国に送られた日本の「イマリ」も、この港で中国船(長崎から広東に入った中国船)からイギリス船などに積みかえられることが多かった。

 

 しかし、ここで考えなくてはならないのは、広東がただ単に積みかえ港であったのだろうか…、ということである。私は相当量のイマリがこの港にも陸揚げされたのではないかと推測している。

「世界最大の磁器生産国が、日本のイマリを輸入するはずがないではないか」

 といった反論の声が聞こえてきそうだが、それに対しては次のようにいえないだろうか。

 

 17世紀以降というもの、清の磁器生産では、初期イマリが盛んに「明」の写しを行なったのと同じように、精巧な「イマリ」の写しを行い輸出した。それはまた、後述するインド、ボンベイのプリンス・オブ・ウェールズ博物館の清代中国磁器のなかに、何点ものイマリ写しが見られることでもわかる。東南アジア各地に残る同期の中国磁器のコレクションを見ても同様のことがいえる。

 

 明末清初の一時期、輸出を中断した中国では、磁器の生産技術の衰えもあり、輸出の再開がイマリの写しからはじまったのも当然のことであった。それはイマリの輸出のはじめは、明朝磁器の「芙蓉手」の写しであったことと同様なことである。

 

 そのことについて、私は江戸期に海を渡っていったイマリと、現代の花形輸出品の自動車との類似性を強く感じる。昭和30年代、日本がイギリスのヒルマンやオースチン、フランスのルノーなどのコピー車を作っていた時代があった。そして同時に欧米車を輸入していた。

 

 その後、日本の自動車産業は急速な発展を遂げ、いまや世界一、二の自動車生産国になった。それと同時に日本は世界でも有数の自動車輸入国でもある。同じようなことは他の自動車先進国でもいえるのである。

 

 そうしたことから広州を中心にして、伊万里焼の残存例を調べてみたかったが、さまざまな制約があって実現できなかった。そのかわり、制約のない、自由なマカオに行くことにした。