賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その9)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

馬方の時代

 5月とはいえ、高地の西原では、日が落ちると寒さをおぼえるほどである。

 夕食後、掘りごたつに足をつっこみ、お茶を飲みながら、中川さんの話を聞いた。

 

 中川さんは戦前、畑仕事の合間に馬方をやっていた。今でいうころのトラックを使っての運送業だ。当時、西原から上野原に、さかんに炭や材木を出していた。それら荷物を運ぶ馬方が、西原だけでも30人以上いたという。

 西原方面から見ると、上野原の市街地の入口にあたる新井に、荷受所の炭問屋や材木問屋があった。中川さんは当時、毎日のように西原と新井の4里(約16キロ)の道のりを往復していた。馬は自分の持ち馬で、中川さんは自営の運送業ということになる。険しい山道を行き来するので、1人の馬方が1頭の馬しか引けなかった。

 なお馬は西原の馬喰から買った。西原には昭和20年代まで3人の馬喰がいた。

 炭を運ぶときは馬の背に片側4俵づつ、計8俵の炭俵を積むのが普通だった。1俵の重さが4貫(約15キロ)で、強い馬だと10俵を積んだ。

 木材は丸太の場合もあり、製材した板の場合もあった。西原には2ヵ所に製材所があった。直径1尺(約30センチ)、長さ13尺(約4メートル)という太い丸太を積んだこともあった。

 西原と上野原の間を毎日2、30頭の馬が行き来していた。そのため狭い山道でのすれ違いは骨の折れるもので、向こうから来る馬の姿をみつけると、かなり手前で待たざるをえなかった。

 その話を聞いて、私は現在の道路状況を思わずにはいられなかった。というのは馬から車に変わっただけで、昔も今も、同じことをやっているからである。上野原から西原への自動車道は、冒頭でもふれたとおり、曲がりくねった山道で道幅が狭い。そのため、車のすれ違いは容易ではない。バスは対向車とすれ違うたびに停まるし、すれ違えなくてバックすることもある。見通しの悪いカーブでは、出会いがしらの事故も少なくない。

 話は横道にそれたが、そのような道なので馬の事故も少なくなかった。すれ違うときに足を踏みはずしたり、石につまずいたり、積荷が木にひっかかったり、冬の凍りついた坂道で滑ったり…。そのようにして谷底に落ちて命を落とした馬を供養するため、「馬頭観音」碑を立て、交通安全を祈願した。そうした「馬頭観音」碑は、今でも西原を歩いているとかなりの数が目につく。

 上野原に運び出す積荷には、季節によっては繭やコンニャクがあった。忙しい時期には臨時の人を含めると100人近い馬方が仕事に出、駄賃稼ぎに精を出したという。日銭をもらえる馬方はよい現金収入源であった。

 上野原からの帰りは空荷のこともあったが、米や麦、アワ、味噌、醤油、酒、塩などを運んでくることが多かった。

 1家族が7、8人から10人前後と大家族があたりまえであった当時は食料の自給が難しく、炭や木材、繭、コンニャクなどで現金収入を得、それでもって米や麦、アワなどの食糧を買っていたのである。西原での食糧の自給率はおおよそ6割から7割ぐらいでしかなかった。

 中川さんは戦後になってからはやらなくなったが、馬方の時代はもうしばらくつづいた。昭和24年前後には道路が整備され、荷馬車が通れるようになった。馬の背で運ぶと8表ほどの炭俵しか積めなかったものが、「馬力」と呼んだ荷馬車だと、30表の炭俵を積んで上野原まで行くことができた。

 さらに昭和27年になるとトラックが走るようになり、馬方の時代は終わった。そして昭和30年になると、バスが走るようになったのである。

 中川さんは若い血をたぎらせて馬方をやっていた時代をなつかしむように、時には茶をすすり、時には銀髪をかきあげ、夜がふけるまで話してくれた。

(※そんな中川勇さんだったが、2003年9月14日に92歳でお亡くなりになった)