賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その4)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号より)

西原の峠道と山上道

 バスで通ってきた初戸、六藤、上平、田和、扁盃、下城、郷原、原、飯尾のほかに、西原には甲武国境の山脈の中腹に位置する藤尾、佐群があり、鶴川の本流と支流にはさまれた島状の山塊上に中郡があり、初戸と下城の間の鶴川沿いには真野、腰掛、平野田、阿寺沢の集落がある。

 これら西原の集落は初戸、川通、藤尾、田和・上平、扁盃・下城、郷原、原、飯尾の8地区に分けられている。川通には中郡、真野、腰掛、平野田、阿寺沢が含まれ、藤尾には六藤が含まれる。西原の世帯数は386世帯、人口は1331人になる(1986年4月30日現在)。

 標高1000メートル前後の山々に囲まれた西原には、バスで通ってきた道のほかに、周囲をとりまく山並みを越える峠道が何本もある。自動車交通が全盛となった現在では、それらの峠道の大半は草に埋もれてしまったが、かつては峠道が交通路の主流であり、峠を越えて他所の広い地域と結びついていた。

 西原と他所を結ぶ峠をあげてみよう。次のようなものだ。

 三頭山(1528m)を最高峰とする甲武国境の山並みの向こうは東京都檜原村になるが、昔から西原と檜原の交流は密だった。西原の藤尾から檜原の数馬へ、田和・佐群から数馬へ、下城・郷原から数馬へと、数馬に通じる数馬峠(檜原では西原峠と呼んでいる)や、同じく檜原の笛吹(うずしき)に通じる笛吹峠など、西原-檜原間には何本もの峠道が開けていた。

 これらの峠を越えて西原から檜原へ、嫁入する光景がよく見られたという。

「ゆずり原の女はいい着物を着て、化粧もしているけど、ブッチャケた顔をしているからなあ。それに比べると、西原の女はボロを着ていてもいい顔をしている」

 西原の男たちはそういっているが、他村への対抗意識を差し引いても、なるほど西原には美人が多い。おまけに西原の女は評判の働き者なので、「西原の女を嫁に!」と、もらい手が多かったのに違いない。

 明治期あたりまでは五日市との結びつきが強かった。西原から数馬峠や笛吹峠を越えて檜原から五日市へと炭や木材を出荷した。スギ、ヒノキ、サワラなどの桶材や屋根材としての杉板も出荷していた。五日市には炭問屋や材木問屋があり、五と十の日には市が立ち、山と里の産物が取引された。

 西原から鶴峠(885m)を越えると、小菅村の中心地の川久保に出る。この峠道は、今は舗装された自動車道になっている。

 ところで甲州街道の裏街道ともいえる青梅街道は、古くは川久保を通っていた。その当時の青梅街道は東京の新宿で甲州街道と分かれ、青梅、氷川、川久保を通り、大菩薩峠を越えて塩山から甲府へと通じていた。今の青梅街道は大菩薩峠の北の柳沢峠を越えている。

 西原の酒屋は明治期には鶴峠を越え、大菩薩峠を越えて、塩山の造り酒屋から酒を仕入れていた。その当時、大菩薩峠には荷渡所があったという。塩山の造り酒屋は峠の荷渡所まで馬で酒樽を運び、伝票をつけて置いておく。それを西原から取りにいくのだ。酒樽の受け渡しは伝票だけで、人は立ち合わなかったという。そして1年に1度とか2度、造り酒屋の番頭が集金にやってきた。峠には無人の長兵衛小屋があり、戦前までは荷渡所の石囲いと朽ちた用材が残っていたという。この大菩薩峠越えの道も、戦後はほとんどつかわれなくなった。

 西原から旧七保村(現大月市)に通じる小佐野峠も、昔はよく使われた。西原ではほとんど米をつくっていなかったが、七保ではつくっていた。そのため西原の人たちは小佐野峠を越えて米や稲藁を買いにいった。稲藁は縄になったり、筵を編んだり、養蚕のまぶしにしたり、草履をつくったり、牛馬の飼料にしたり…と、日常生活には欠かせないものだった。

 また小佐野峠は富士登山をするための富士街道の峠でもあった。西原から小佐野峠を越えて七保に下り、大月、谷村を通って富士吉田へ。そして浅間神社に参拝し、富士山に登った。小佐野峠を越える参拝者は地元の西原の人たちのみならず、小菅や丹波、東京の奥多摩の人たちも多かった。峠には権兵衛茶屋という峠の茶屋があったという。

 なお西原からは講を組んで相模の大山や秩父の三峰、上州の榛名山、野州の古峰、木曽の御岳などに参っていた。近くの神々や遠くの神々に参ることによって旅を楽しみ、同時に他の世界を知る絶好の機会になっていた。この小佐野峠を越える道は昭和30年代の前半くらいまでは使われていた。

 小佐野峠から南東に延びる山並みは権現山(1311m)でぐっと高くなっているが、山頂を越え、旧甲東村(現上野原町)の和見に下る道もあった。

 権現山の山頂近くには大群権現がまつられており、祭りの日には屋台が並び、大きな賭場が開かれた。警察もさすがに権現山までは踏み込めなかった。賭場は祭り以外の日にも開かれていたという。

 その権現山を指して大群という。甲武国境の山並みの中腹には佐群という集落がある。両山地の中間に位置する丘陵上には中郡の集落がある。大群、佐群、中郡には何か関連があるように思われる。

 私は群・郡には牟礼と同様な意味があるように思われる。牟礼には丘とか山の意味がある。たとえば東京・三鷹市の牟礼には、周囲とは異相の南北600メートル、高さ15メートルの丘陵がある。

 西原の集落の中でも、尾根に近い集落は古くからあるといわれている。そのような集落と集落を結ぶ道が山並みの中腹を縫っている。ほぼ等高線に沿った道だ。そのような「中腹道」のさらに上には「山上道」といっていい尾根道があった。「山上道」は今でいうところのバイパスとしての色彩を強く持っていた。隣の集落への道というよりも、遠方に行くための道として使われた。

 西原では秩父の三峰神社のお札を玄関口に貼った家を多く見かける。「三峰さん」は火難、盗難を防いでくれると、西原では今でも厚く信仰されている。

 現在の交通路、鉄道や自動車道で考えると、西原から三峰山はきわめて遠い。しかし西原から数馬峠に登り、三頭山から雲取山へとつづく「山上道」を行けばじつに近くなる。西原から三峰山までは、まるで定規で線を引いたような直線ルートになり、歩いても十分に1日で行き着ける距離なのだ。

 同じような山上道をたどって奥多摩の御岳山にも参拝していた。その山上道というのは三頭山でもって三峰山に通じる道と分かれ、鋸山、大岳山を経て御岳山へとつづいている。このような山上道を歩いて、三峰山や御岳山への参拝が、戦前あたりまではごく普通におこなわれていた。

 今でこそ交通の便の悪い、閉ざされた山村としてのイメージの強い西原だが、かつては峠道や中腹道、山上道など、網の目のように張りめぐらされた山道でもって、四方八方に通じていた。「閉ざされた」どころか、おおいに「開けた」山村だった。