賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

甲武国境の山村、西原に「食」を訪ねて(その12)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号 所収)

西原の女(ひと)

 私は昭和54年以来、西原に通いつづけている。その回数は20回を超えている。車やバイクを使ったこともあるが、大半は足を使った。道のあるところはすべて歩いた。

 歩くなかでいろいろな人たちと出会い、いろいろな話を聞いた。その中に、詩人といってもいいような脇坂芳野さんがいた。

 脇坂さんは大正7年に西原の扁盃で生まれ、20歳の春、原に嫁いだ。それ以来、30年間、西原の土を耕しつづけた。昭和40年には西原で唯一の「梅ヶ枝食堂」を開いた。骨太のなかにも繊細さを秘めた女性で、様々な苦労を持ち前の明るさで乗り越えてきた。

 脇坂さんは10代のころは手に職をつけたくて、「東京に行かせて欲しい」と、親に何度も頼んだ。

「職業婦人にあこがれましてね。看護婦になりたかった。だけど、看護婦になると、【いかず後家】になってしまうと親に反対され、それでは洋裁を習いたいと頼むと、【洋裁をやれば肺病になって村に帰ってくる】といわれ、やはり反対されました。東京で自活したいという夢を泣く泣くあきらめ、お嫁に行ったんです。 

 嫁いだ日、わたしはこの家で、これからずっと百姓をやらなくてはならないのだと、そう腹をくくり、次の日から働きづめに働きました。妊娠しても休むことはできず、子供を生んでもすぐに畑仕事に、山仕事に出ていました。畑でポタポタ垂れ落ちる乳を見るのは辛かった…。あー、家に帰って子供に飲ませてあげたいと何度、思ったことか。 

 1時間もダラオケ(肥桶)をかついで、山の畑に登っていきました。天秤棒でかついでいくんですよ。なにしろ急坂なものだから、途中で休むことはできない。ほんとうに苦しい仕事でした。畑に着いてからも、わずかな休憩時間と昼食時間を除いて、日が暮れるまで働きづめです。お寺の鐘が鳴って、夕暮れの山道を家路につくころは、お腹がへってお腹がへって、もう、一歩も歩けなくなるくらいでした。

 草津温泉に旅行したときのことです。バスの窓越しに関東平野の広い畑を見ました。驚きましたね。どうして、こんなに広い畑があるんだろう…と。畑といえば、山の急斜面の畑しか思いつきませんでしたから。あの時ほど、自分の村に嫁いだことを悔やんだことはありません。広い畑がうらやましかった。こんなに広い畑ならば、こんなに平な畑ならば、何でもできると思いましたね。

 あの当時、姑たちは寄るとさわると、ウチの嫁はどうの、あの家の嫁はどうのと、嫁の品評会ばかりやっていました。嫁は牛馬と同じ、労働力ぐらいにしかみられていなかったのです。それに比べたら、今のお嫁さんたちは楽なもんです。村の生活もすっかり変わって…。冬に麦をつくる家など、今ではほとんどありません。アワもキビもヒエもあまりつくらなくなった。お蚕もわずかになったし…。そのかわり、パートで働きに出ています。会社のマイクロバスが朝夕、送り迎えをしてくれます。手間をかけて畑仕事をするよりも、パートで仕事に出るほうが、はるかにお金になるんですね」

 脇坂さんはそんな話を聞かせてくれた。