賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」前編 第6回:ポートヘッドランド→ダーウィン

 (『月刊オートバイ』1997年6月号 所収)

 

 インド洋岸の港町ポートヘッドランドからダーウィンに向かって北に走ると、猛烈な暑さ。スズキDJEBEL250XCに乗っていても目の前がまっ白になる。頭がクラクラし、思考能力ゼロになってしまう。

 R1のアスファルトは逃げ水でユラユラ揺れている。まるで地平線上に大きな湖があるようだ。そんな幻覚の地平線湖の中から対向車がユラユラ揺れて近づいてくる。北部オーストラリアは暑さの超ー厳しい世界だ。

 

恐怖のナイトラン

 ポートヘッドランドから北のダーウィンに向かう前に、南の世界最大級の鉄鉱山があるニューマンまで行くことにした。往路はダートのマーブルバーロードを経由する。

 この道は「1973年版オーストラリア2周」で最も辛い目にあったところ。腹わたがよじれるようなコルゲーションで、それも真昼にパンクした。マーブルバーは、オーストラリアでも一番暑い町といわれているようなところなのだ。パンク修理が終わったときには、のどの渇きでヒーヒー状態だった。

 今回はマーブルバーロードはナイトランだったが、歴史は繰り返すとでもいうのか、またしてもここで、危機一発という目にあった。

 最初はカンガルーの飛び出しだ。「やったー!」と、心臓が凍りついたが、急ブレーキで、からくも目の前をジャンプしていったカンガルーをかわすことができた。

 

 だが、ほんとうの危機は、そのすぐあとにやってきた。黒色のウシが路上をノソノソ歩いていたのだ。色が黒かったこともあって、まったく目にはいらなかった。

「あ、激突だ!」

 と、一瞬、目をつぶってしまったほど。

 ウシのギョロッとした目と角が目の前にあった。どうして避けることができたのかよくわからないが、衝突も転倒もしないで、そのウシをかわすことができた。もう、奇跡としかいいようがない。もし、このウシに激突していたら、命にかかわるような事故になっていたことだけは間違いない。マーブルバーの町に着いても、体の震えは止まらず、膝がガクガクしてどうしようもなかった。

 

 マーブルバーはアボリジニの町。パブに入ると、酔っぱらったアボリジニたちが、大声で話していた。というよりも、わめき合っていた。

 ぼくは冷たいビールをキューッと飲み干し、無事を感謝し、町外れでいつものシュラフのみのゴロ寝をする。風にのって、アボリジニの酔っぱらった声が聞こえてくる。

 330キロのダートを走り、ニューマンに到着。そこでは、世界最大級の露天堀りの鉄鉱山を見学する。ここの鉄鉱石は専用の鉄道でポートヘッドランドに送られ、そこから10万トン、20万トンという超大型の鉄鉱石専用船で日本などの製鉄所に送られていくのだ。 ニューマンからの帰路は、R95の舗装路でポートヘッドランドに戻るのだった。

 

おー、ブルームよ!

 ポートヘッドランドからR1のグレート・ノーザン・ハイウエーを北へとDJEBELを走らせ、インド洋岸のブルームに到着。ブルームといえば“真珠の町”でよく知られているが、日本人の真珠取りのダイバーたちが、昔から大勢、移住している。郊外の一角にはそんな日本人の墓地がある。全部で707基の墓があり、919人が埋葬されているという。

 異国の地で死んだ我が同胞。その墓がズラズラと並んでいる光景には、キューンと胸に迫ってくるものがある。

 目頭が熱くなり、思わず手を合わせ、深々と頭を下げるのだった。

 

 ブルームの海の青さは強烈。スーッと吸い込まれそうになるほどの色鮮やかさ。長い砂浜がつづくケーブルビーチに行く。ここはトップレスのビーチだと聞いて、胸をふくらませてやってきた。だが、度胸のないカソリ、トップレスのボインの女の子たちをジロジロ見ることができなかった‥‥。悔しいよ。

 ブルームでは、バックパッカーズの「ローバックベイ」に泊まった。夕食は6ドル(540円)払って、裏庭でのバーベキュー。これは安い。ステーキ用の肉と骨つき肉、ソーセージを炭火で自分で焼く。それにパンとサラダ、ポテトがつく。

 スティーブとステフィー(ステファニー)のカップルと一緒のテーブルで食べる。スティーブはオーストラリア人だが、ステフィーはドイツ人女性。2人はギリシャのエーゲ海の島で知り合い、一緒になった。

 

 同じ旅人同士、2人とはすっかり意気投合し、夕食後、パブに場所を移し、ビールを飲みながら、おおいに話した。

 30代半ばのスティーブはすごいヤツ。アフリカを縦横無尽にヒッチハイクでまわった。インドには2年滞在し、ネパールのトレッキングでは、オートバイでエベレストに挑戦した風間深志さんに出会っている。

 2人とは、また、ダーウィンで再会することになる。

 

トトロちゃんとの出会い

 翌朝、カフェでスティーブ&ステフィーのカップルと一緒にコーヒーを飲み、ブルームを出発。猛烈な暑さの中をダービーに向かう。その間240キロ。

 昼過ぎ、ダービーに近づいたときのことだ。町まであと10キロぐらいのところを、何と、日本人の女の子が歩いているではないか。てっきり、彼女がヒッチハイクしているものだとばかり思った。色白のかわいらしい女の子で、小さなザックを背負っていた。彼女のかわいらしさに心ひかれ、

「ガンバッテね」

 と、ひと声かけようとUターンした。

「こんにちわ」

 とあいさつすると、彼女はニコッとほほえんだ。

 その笑顔に胸がキューンとしてしまう。

 

 彼女の話を聞くと、ヒッチハイクしているのではなく、どうしても見たいものがあるので、この炎天下、ダービーの町から歩いてきたのだという。その見たいものというのは、宮崎駿の原作『となりのトトロ』に出てくる木のモデルになったボーブの大木なのだという。

「どうぞ、どうぞ、乗ってくださいよ」

 と、なかば強引に彼女を後に乗せ、そのボーブの大木までタンデムで行く。ボーブとはアフリカのバオバブと同じで、世界でもアフリカのサバンナ地帯とオーストラリアのこの地方にしかない。

「オーストラリア一周」で、まさか美人とタンデムするだなんて、夢にも思わなかったなあ。遠慮がちに、ぼくの肩に、そっとのせた彼女の手のあたたかさが、モロに伝わってくる。

 

 そのボーブは“プリズン・ボーブ・トゥリー(牢屋のボーブの木)”といわれる大木。 幹には洞があり、中には楽に人が入れるほどの大きさなのだ。

“トトロの木”のボーブを見たあと、彼女とふたたびタンデムでダービーまで行き、レストランで食事をした。なんとも楽しいひととき。食後のコーヒーを飲みながら彼女といろいろな話をした。つい、いましがた出会ったばかりだとは、とても思えないような、まるで恋人と話しているような気分なのだ。

 彼女はバスダーで、4ヵ月がかりでグレハン(グレイハウンド)を乗り継ぎ、オーストラリアを一周中。だが、とてもそんな長旅をしているようには見えなかった。清楚な美しさを保っていた。花でいえば、白いナデシコといったところだ。

 あっというまに時間が過ぎ、夕方、彼女と握手して別れ、ナイトランで560キロ先のホールスクリークに向かう。お互いに名前も知らないままに別れたが、ぼくは彼女のことを“トトロちゃん”と呼ぶことにした。

 満天の星空の下を走りつづけたが、何度も“トトロちゃん”の笑顔が浮かび、ナイトランの辛さをやわらげてくれた。

 

「オー、カミカゼ!」

 夜中にたどり着いたホールスクリークでは、ロードハウスの駐車場でゴロ寝し、翌朝、2ドル払ってシャワーを浴び、さっぱりする。レストランで朝食。ワーカーズ・ブレイクファースト(労働者の朝食)というボリュームたっぷりのもの。バターを塗ったトースト2枚に、ベーコン、ソーセージ、エッグ、トマト(焼いたもの)、オニオン(タマネギ)、ビーン(豆)とオーストラリア人が朝食に食べるものすべたがついている。

 このレストランの壁に貼ってある1993年2月の大洪水の写真がすごい。道路はズタズタに寸断されている。全長50メートル、総重量100トンという3連のトレーラーのロードトレインが、なんと濁流に流されている。立ち往生したロードトレインのすぐわきには、救援物資を積んだヘリコプターが舞い降りている。

 

 ホールスクリークの町から北に400キロ、昼過ぎにウィンダムに着く。熱風がうず巻いている。カーッと照りつける強烈な太陽光線に頭がクラクラしてくる。

 ウィンダムの町の郊外にあるアフガン人の墓地に行く。ラクダとともに、この大陸にやってきた人たちのものだ。北部オーストラリアでは、ときたま野性のラクダを見るが、その先祖は19世紀にアフガニスタンから連れてこられたもの。ラクダはオーストラリア内陸部開発の大きな力になった。アフガン人は、それらラクダのラクダ使いだったのだ。

 

 ウィンダムの町から10キロほど行くと、チモール海の湾に面した港に出る。海辺の店でハム&サラダのサンドイッチとコカコーラの昼食を食べていると、ニュージーランド人のカップルに声をかけられた。

 この季節、ニュージーランドは冬。2人と同じように厳しい寒さを逃れ、熱帯圏の北部オーストラリアにやってくるニュージーランド人は多いという。2人はブリスベーンで車を買い、1ヵ月間の予定で旅している。最後にブリスベーンで車を売り払い、ニュージーランドに帰るのだという。

 2人は、前の年(95年)には日本をやはり1ヵ月、旅した。

「トーキョウ、ベリー・エクサイティング!」

 と東京が気にいったという。東京・新宿駅の人の多さには、2人とも目を丸くして驚いた。

「ニュージーランドの全人口がシンジュクに集まったようだ」

 と、ジョークで、その人の多さをいいあらわした。

 

 サンドイッチを食べた店の隣に小さな博物館があり、のぞいてみた。そこにあった1枚の写真に目がくぎづけになる。

 1924年のもので、13人のアボリジニの囚人が、手かせ、足かせをされたうえに、首には鎖をグルグル巻きにされていた。

 驚かされたのは彼ら、13人の囚人の顔つき、態度で、今の酔っぱらいだらけのアボリジニからはとうてい信じられないような、堂々としたものだった。

 

 ウィンダムを出発。カナナラを通り、ノーザンテリトリーに入る。R1はビクトリア・ハイウエーと名前を変える。

 日が暮れナイトランになる。

 19時、ティンバークリークに到着。ここで2人のスイス人ライダーに出会う。彼らは2台のホンダ・アフリカツインで、1年がかりでオーストラリアを一周中だった。彼らはぼくのDJEBELに積んだ荷物を見て、

「たったこれだけなのか!」

 といって驚き、さらにぼくがナイトランで300キロ先のキャサリーンまで走るというと、

「オー、カミカゼ!!」

 と、絶句した。

 

 猛烈な睡魔と戦いながら走りつづけ、24時、キャサリーンに着く。ホールスクリークから1日で1030キロ走った。

 町外れでゴロ寝し、翌朝、R1を北へ、ダーウィンへ。その間のR1はスチュワートハイウエーになる。こうして6月24日の14時、ダーウィンに無事、到着。「オーストラリア一周」のほぼ半分の行程を走ったことになる。

 シドニーから16706キロのことだった。

 

 

■ワンポイント・アドバイス■カソリ流野宿のすすめ

 ポートヘッドランドからダーウィンまでの3786キロでは、一晩、ブルームのバックパッカーズに泊まった以外は、すべてが野宿だった。

 さて“カソリ流野宿”だが、テントは張らずに、シュラフのみのゴロ寝である。テントを持たないのは、もちろん荷物を軽くしたいためだが、テントを持つと、テントだけではすまずにどうしても、あれもこれもと荷物が増えてしまうものなのだ。当然、自炊もしたくなるので、自炊道具、さらには食料をゴソッと持つようになる。

 この、荷物の重さが辛くなるのだ。短期間のツーリングなら別にどうということもないのだが、長期間に及ぶロングツーリングになると、その重さが自分自身の体に、そしてオートバイにズッシリとこたえてくる。

 荷物の重さによって腰や肩、膝がなどが痛くなり、オートバイは荷物の重さによって、フレームを折るといった予期しないトラブルにも見舞われる。

 

 さらに、テントを張るとなると、行動が大幅に制限されてしまう。テントサイトを探すためにまだ明るいうちに、一日の走行を終えなくてはならなし、テントを張るのにいい場所がみつからないとイラついてくる。真夜中まで走りつづけるといった芸当などもできなくなる。

 それにひきかえ、“カソリ流野宿”は、なにしろシュラフを敷くだけなので、時間も場所も関係ない。好きなだけ走って、どうしようもなく眠くなったらオートバイを適当なところで止め、そのわきでゴロ寝する。オートバイを止め、シュラフを敷き、その中にもぐり込み、深い眠りに落ちていくまでに、5分とかからないのだ。

 

 出発するときも同じこと。なにしろ撤収が簡単なので、夜明けの目覚めから5分もかからずに、もう、走りだしている。

“カソリ流野宿”のよさは、奔放な自由感があるし、これに慣れると、どこでも寝られるようになるし、何がなくても自分は生きていかれる!といった、強烈な自信を持てることだ。