「オーストラリア2周」前編:第8回 アデレード→ダーウィン
(『月刊オートバイ』1997年8月号 所収)
ダーウィンから大陸を縦断してたどり着いたアデレードでは前回同様、バックパッカーズの「ラックサッカーズ」に宿泊。ここは日本人ライダーの溜まり場だが、なんと“王様”や“広さん”とうれしい再会をした。
このアデレードから、来た道をダーウィンへと戻っていくのだが、カソリ、全精力を投入して、全行程3100キロの一気走りに挑戦だー!
目標は、40時間。午前0時、ザーザー降りの雨の中、アデレード中央駅前を出発したのだがさーて、どうなることやら‥‥
青春の群像
アデレードのバックパッカーズ「ラックサッカーズ」では、タスマニア島からメルボルンへのフェリーで出会ったハンターカブCT110の“王様”とバスダー(バスでまわる旅人)の“磯野カツオ君”、西オーストラリアのノーズマンで出会ったスーパーテネレの“広さん”とうれしい再会だ。
「やーやー、元気?」
と、何度も握手をかわす。
さらに、スーパーカブ90のベンジー、カワサキ1000のマサ、DR250での旅を終えたアデレード大好きのイケさんと日本人ライダーたちとの出会いが待っていた。
ライダー以外にも、ウダさんとヨネさんがいた。ウダさんは『O』誌の熱烈な読者だが、ライダーではなく、カーダー(車でまわる旅人)をしている。函館出身のヨネさんは、まだ10代の若き旅人だ。
夕食はシェア飯(みんなで少しづつのお金を出し合ってつくる食事)のカレーライス。日本風の味だ。食事が終わると、全員でウダさんの車に乗り込んだり、オートバイを連ねたりしてアデレードの夜景を一望できる山上まで行く。見事な夜景だ!函館の夜景が思い出される。
みんなも同じ気持ちで、アデレードの夜景を眺めながら、話題はもっぱら函館‥‥。
「(函館の朝市で)三平汁を喰いたいよー」
「なんたって、イクラ丼」
「いやー、ウニ丼だ」
と、食べる話に夢中になる。
アデレードの夜景を目に焼き付けたところで、「ラックサッカーズ」に戻る。みんなで何ドルかづつを出し合ってカンビールを買い、ガンガン飲み、おおいに語り合い、飲み会は夜中までつづいた。
各人それぞれがそれぞれの思いをこめてオーストラリアを旅しているのだが、その思いに胸がジーンとしてくる。カンビールを飲みながら、青春の甘ずっぱさといったものが胸に迫り、
「おー、青春の群像よ」
そう心の中で叫んでしまう。
「また、どこかで会おうぜ!」
と、再会を約束して、深夜の宴会はお開きになるのだった。
さー、一気走りだ!
翌朝はヨネさんがつくってくれたパスタを食べ、「ラックサッカーズ」のマーガレットおばさんや前夜の“宴会組”の面々の見送りを受け、あいにくの雨の中を走り出す。
アデレードから114キロ、カンガルー島を目の前に眺めるジャービス岬まで行き、帰路はビクトリアハーバー経由でアデレードに戻った。一日中、雨の中‥‥。
中心街の1泊38ドルの「シティーモーテル」に泊まる。早めの夕食を食べ、一気走りに備え午後8時には早々とベッドにもぐり込む。3時間ほど眠り、11時過ぎに起きる。身支度を整え相変わらず降りつづいている雨の中を走り、「アデレード→ダーウィン3100キロ」の一気走りのスタート地点、アデレード中央駅前へ。
午前0時になるのと同時に、スズキDJEBEL250XCのセルスターター一発、エンジンをかけ、雨の中を走り出す。R1を西へ。速度をいつもより10キロアップし、100キロから110キロの間で走る。
3時45分、ポートオーガスタ着。ここまでの300キロは、ノンストップだ。BPの24時間営業のロードハウスで給油し、コーヒーを飲む。うまい! 生き返るゼ!
ポートオーガスタからはR87を北へ。ありがたいことに雨がやむ。そのかわり、気温がグググッと下がり、寒さに震える。半月がコウコウと輝いていた。
6時45分、夜明け。地平線がうっすらと白みはじめる。うれしい! やったぜ! DJEBELのハンドルを握りながら、思わずガッツポーズだ。
7時30分、608キロ地点のグレンダンボ着。ここで給油&朝食。コーンフレークに、ベーコン&エッグス。それとコーヒー。8時20分、出発。しばらくは猛烈な眠気で、ヘルメットの中であくびを連発した。
11時00分、862キロ地点のクバーペディー着。ここで給油&コーヒー。11時30分に出発。やっと寒さから解放される。
13時30分、1000キロ地点で記念撮影。日本では、下道を走っての1000キロ一気走りというと、24時間を切るのは、至難の技だ。ところがオーストラリアだと13時間半でできてしまうのだ。
アデレードを出てからここまで、信号はポートオーガスタだけだった。
14時45分、1097キロ地点のマーラ着。給油とピザ&チップス、コカコーラの食事。15時05分、出発。しばらくすると、猛烈な睡魔。我慢できずに10分の昼寝。この短い眠りで体はスーッとウソのように楽になる。
16時30分、南オーストラリアとノーザンテリトリーのボーダー(州境)を通過する。
17時45分、1351キロ地点のエルダンダ着。給油&コーヒー。18時、出発。ここを過ぎるとまっ黒な雲の中に入っていったが、パラパラッと雨がぱらつく程度。日が暮れ、ナイトランになる。それ、行け。DJEBELよ、頼むぞ!
20時50分、ついに大陸縦断の中間点、アリススプリングスに到着した。ここまで1557キロ、それを20時間50分で走ったのだ。ダーウィンまであと1500キロ、目指せ、40時間!
トラブル発生
シェルのロードハウスで給油&食事。アデレードから20時間以上走ってきた疲れがドドッと吹き出し、ここで泊まりたいなあ‥‥と、泣きが入る。そんな気持ちを振り切り、21時30分、アリススプリングスを出発。カンガルーの飛び出しに怯えながら北へと走る。
アリススプリングスから30キロ地点の南回帰線を過ぎたところで、突然、左のウィンカーが異常な点滅をするのと同時に、ヒューズが飛んだのだろう、ライトが消え、エンジンも停止した。トラブル発生だ。シドニーを出発してから2万4000キロで迎える最初のトラブルた。
ここで「アデレード→ダーウィン」の一気走りを一時、中断しなくてはならなかったが、悔しいというよりもむしろ、これで少しは眠れるゾと、ホッとした気分だった。
月明かりも星明かりもない真っ暗闇の中、DJEBELを30分ほど押し、南回帰線のモニュメントまで戻る。そこで野宿。いつものようにシュラフのみでのゴロ寝。夜中に雨に降られたが、そのまま夜明けまで寝た。
翌朝、このモニュメントにやってきた車に頼み、携帯電話を借り、アリススプリングスの町に電話し、バイクレッカーに来てもらう。電話してから30分もかからずに、バイクレッカーの小型トラックが来てくれた。
スズキのディーラーまで運んでもらったが料金は102ドル、日本円で約9000円だった。
すぐさま、メカニックのスティーブンが見てくれた。
だが、配線に異常は見当たらない。ヒューズを交換し、予備に2つのヒューズを持ち、11時30分、アリススプリングスを出発。もう一度、ダーウィンまでの一気走りに挑戦だ。
R87を北へ。体が重い‥‥。気分がどうしても、乗らない。いったん、中断してしまった一気走りをつづけるのは、難しいことだった。結局、その日はアリススプリングスから759キロ走ったエリオットという町に22時30分に着いたが、
「もう、ダメ。ここまでだ」
と、ついに一気走りを断念。道路わきにベンチで一晩、眠ることにした。
ここは天国、花園だ!
翌日はエリオットから421キロ走ったキャサリンのバックパッカーズ、「クックバラロッジ」に泊まる。ここは前回の「ダーウィン→アデレード」編でもふれたように、男女同室のバックパッカーズなのだが、なんと今回は、8人用の部屋に女の子が4人、男はぼくだけというまるで花園状態。“一気走り地獄”のあとの“花園天国”といったところなのだ。
オーストラリア人の女の子2人、ドイツ人の女の子1人、イギリス人の女の子1人の花園に入ると、若い女性特有の匂いが部屋中に充満していて、頭がクラクラッとしてしまう‥‥。
この4人のうち、イギリス人女性とはダーウィンで会ったことがある。毎週水曜日におこなわれる「ビクトリア・ホテル」のフリーバーベキュー(タダでバーベキューが食べられる)で一緒の列に並んだのだ。ぼくのすぐ後が彼女だった。なにしろプロポーション抜群なので、目に焼きつくほどに、しっかりと彼女をおぼえていた。
旅での出会いというのは、そんなちょっとしたきっかけでも、
「やー、あのときの‥‥」
で、すぐに仲良くなれるものなのだ。
彼女の名前はカレン。20歳。マンチェスターの女子大生で、大学を一年間、休学して旅に出た。オーストラリアをバスでまわっているが、ブリスベーンからニュージーランドに飛ぶという。食事を終えると、オーストラリア産ワインを飲みながら話した。彼女は毎日、日記をつけているが、その日記帳に、彼女の名前の“カレン・ウッドハウス”をカタカナで書いてあげると、すごく喜んだ。
11時近くになったところで、
「おやすみ」
といって、ぼくが先に寝る。すでに部屋の電気は消え、ほかの3人の女の子たちはスヤスヤと寝息をたてている。ぼくは2段ベッドの上段で寝る。
しばらくするとカレンが部屋に入ってきた。彼女のベッドは狭い通路をはさんだ下段。なんとカレンは、その通路で着替えるのだ。着ているものを脱ぎ、パンツひとつになる。薄明かりのなかで、その一部始終が全部見えてしまう。彼女は上にパープルの薄地のランジェリーを着ると、ベッドに横になった。
たまらないゼ‥‥。彼女のズッシリと重そうな胸のふくらみが目の底にこびりつき、寝ようとしても、目がさえてなかなか寝つけないのだ。眠くてどうしようもなかった一気走りのときとは、エライ違いだ。
翌朝はぼくが一番最初に起きた。目がはれぼったい。「クックバラロッジ」はすごくいいのだが、各ドミトリーごとにシャワールームとキッチンがついている。
シャワーを浴び、キッチンでコーヒーを沸かしていると、カレンが起きてきた。なんとカレンは、パンツとランジェリ、そのまんまの格好で朝食の準備をはじめるではないか‥‥。
パープルのランジェリーは薄地のものなので、光りの当たる角度によっては、透けて、乳首まで見えてしまう。また、丈が短いものなので、すこし前かがみになると、チラチラと白いパンツが見えてしまう。
「おい、おい、カレンちゃん、キ、キミは、ぼくを誘惑しようとしているのかい?」
キャサリンから北へ、ダーウィンへ。その間は322キロだったが、途中で2度、ヒューズが飛んだ。そのたびにヒューズを交換し、なんとか、ダーウィンに到着。すぐさま「ノーザンテリトリー・スズキ」に行き、もう一度、配線を見てもらう。
ついに、発見!
ハーネスの束から1本だけ分かれて、左のフロントのウィンカーに通じるラインに、耳かきでひっかいたような小さな傷がある。それがハンドルに触れるとショートしヒューズが飛ぶのだった。その個所をビニールテープで巻き、修理完了。もうこれで大丈夫。
「アリススプリングス→ダーウィン」の一気走りは、また次の機会に絶対に挑戦してやるゾ!と固く決心するカソリだった。
■1973年の「オーストラリア2周」
1973年の「オーストラリア2周」の出発点のシドニーでは、『モーターサイクル・ニューズ』の取材を受けた。
編集長のジェフ・コラートンさんが直々にやってきたのだが、なんと彼とはその4年前の1969年にイギリスのロンドンで会っていたのだ。旅の途中では、こういう信じられない再会もある。
1968年から69年にかけてぼくはスズキTC250を走らせ、「アフリカ大陸一周」をしたが、その途中でヨーロッパをまわり、イギリスに渡った。
ロンドンに到着し、テムズ川にかかるウエストミンスター橋を渡っているとき、オートバイに乗っている人に呼び止められた。その人は、『モーターサイクル』編集長のジョン・エブローさんだった。橋の上で写真をとられ、それが『モーターサイクル』に大きな扱いで載った。
それがきっかけとなってエブローさんの家に泊めてもらい、バイト先まで紹介してもらったのだ。仕事の休みの日にフリート・ストリートにある『モーターサイクル』の編集部を訪ねたが、そこで会ったのがエブローさんの部下のコラートンさんだった。その後、彼はオーストラリアに移住し、シドニーの『モーターサイクル・ニューズ』の編集長になったのだ。
なんとも偶然な再会だが、
「キミはあれからずっと世界をまわっていたのか!」
と、ぼく以上にコラートンさんの方が驚いていた。
このときは、
「世界を駆けるジャパニーズ・ライダーのミスター・カソリがこれからオーストラリア一周に出発!」
と『モーターサイクル・ニューズ』にデカデカと書かれた。そして、それはシドニーだけのことではなかった。ブリスベーンでも、ダーウィンでも、パースでも、アデレードでも、行った先々で、「日本人ライダーがオーストラリアを一周中」 と、地元の新聞に大きく紹介された。パースなどでは、テレビニュースにもなった。
これが、1973年の「オーストラリア2周」と1996年の「オーストラリア2周」の大きな違いだ。
1973年当時のオーストラリアは“白豪主義”の色彩が強く、まさに白人の国だった。そのため日本人ライダーはきわめて珍しく、日本人ライダーがオーストラリアを一周しているというだけで大きなニュースになるほどだった。それが今では、「オーストラリア一周」といえば日本人ライダーが一番多い。