賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」後編:第5回 アリススプリングス→ケアンズ

※全行程4350キロ(ダート5本1603キロ)

 (『バックオフ』1997年7月号 所収)

 

 大陸中央部のアリススプリングスからトップエンドのダーウィンまで1500キロ、その間は、一気走りに挑戦だ!

「オーストラリア一周」前編の「ロード編」では、アデレード→アリススプリングス1557キロを20時間50分で走った。今回はそれにひきつづいての“大陸縦断一気走り”の第2弾目ということになる。

 アリススプリングス→ダーウィンの1500キロを、20時間を切って走りたいのだ。

「さー、行くゼー!」

 

大陸縦断一気走りに出発!

 アリススプリングスの中心街にあるモーテルで2、3時間寝たあと、午前0時を期して、ダーウィンまでの一気走りに出発だ。

“豪州の熱風カソリ”、やる気満々なのである。ダーウィンまでの1500キロをなんとしても20時間を切って走りたい!

 DJEBEL250XCのセル一発でエンジンをかける。エンジン音が寝静まった街に響きわたる。緊張する。胸がドキドキしてくる。はたして、うまくいくかどうか‥‥。

 

 大陸縦断の、R87のスチュワートハイウエーを北へと走り出す。市街地を抜け出ると、もう灯ひとつ見えない。満天の星空のもとをただひたすらに走る。最初のうちは気が張っているのでよかったが、すぐに強烈な睡魔に襲われ、眠くてどうしようもない。仕方なく町から30キロほどの南回帰線のモニュメントで止まり仮眠する。15分くらいのつもりが、なんと45分も寝てしまった。だが、そのあとは心身ともにすっきりし、100キロごとに小休止した。

 

 5時30分、なんともうれしい夜明け。長い長い夜がついに終わった。

 6時10分、日の出。雲ひとつない東の空に大きな朝日が昇る。デビルマーブルで小休止。

 7時30分、アリススプリングスから506キロのテナントクリーク着。その先、R87とR66の分岐点、スリウェーズのロードハウスで朝食。

 9時を過ぎると急速に暑くなる。エンジンへの負担を考え、速度を10キロ落とし90キロ前後で走行する。猛烈な暑さ&睡魔との戦いの連続。

 

 13時、823キロ地点のR87とR1の分岐点着。ロードハウスのハイウエーインで昼食。スチュワートハイウエーはここからR1になる。

 16時30分、1086キロ地点のマタランカ着。暑さは依然、厳しい。

 17時40分、1185キロ地点のキャサリン着。18時40分、日の入り。19時20分、日が暮れる。ナイトランになってもまだ暑い。そして21時50分、ダーウィンに到着。アリススプリングスから1502キロだった。

 

雨期のガルフ横断

 ダーウィンからはカーペンタリア湾周遊(ガルフ横断)ルートで南太平洋岸のケアンズに向かうのだが、このカーペンタリア湾というのは『恐るべき空白』のバーク探検隊が目指したアラフラ海最大の湾で、西はアーネムランド、東はケープヨークのヨーク半島でもって限られ、湾口のはるか北にニューギニア島が横たわっている。東西700キロ、南北800キロという日本の湾とは桁違いの大きさなのである。このカーペンタリア湾岸地方には、ほとんど人は住んでいない。

 

 ダーウィンからカカドゥー・ナショナルパーク経由でキャサリンに戻り、バックパッカーズの「クックバラ・ロッジ」で泊まった。

 翌日は、その南100キロのマタランカに行き、マタランカ温泉の湯につかる。ここでは日本出発の前に「豪州軍団」のナース上原がプレゼントしてくれた手拭いを使った。

 

 マタランカでR1と分かれ、カーペンタリア周遊(ガルフ横断)ルートのロッパーハイウエーに入っていく。R1から135キロ地点で舗装が切れ、ダートに変わる。きついコルゲーション。日が暮れる。ダートナイトラン。44キロのダートを走り夜の8時前にロッパーバーに着いた。

 こにはポツンと1軒、ストアがある。パンとチキンを買い、その裏のモーテルに泊まる。シャワーを浴びてさっぱりしたところで、ベジパンにチキンの夕食。ベジパンというのは、パンにオーストラリア特有のペーストのベジマイトを塗ったものだ。

 

 翌朝9時、ロッパーバーのストアがオープンするのと同時に給油し、0・5リッターのミネラルウォーター2本とリンゴ&オレンジを買い、全線ダートのガルフトラックに入っていく。コルゲーションはそれほどきつくもなく、砂も石も少ないので走りやすかったが、この地方はすでに雨期に入り、路面の水溜まりが連続している。うっかりと大きな水溜まりに突っ込むと、グチャグチャの泥にはまり込み抜け出せなくなってしまうので、慎重にひとつづつ避けて走った。

 

 ロッパーバーから302キロ地点のT字路を左へ、アボリジニの町ボロルーラに向かう。さらにダートを50キロ走ると、R1のカーペンタリアハイウエーの舗装路に出る。ロッパーバーからここまで、ガルフトラックは353キロのダートコース。ほとんど交通量がないので、自分だけの世界をひたすらに走るようなものである。

 

 ボロルーラに着くと、町の中心にあるスーパーマーケットでパックになったビーフの弁当を買い、コーラを飲みながら食べる。この町のアボリジニは活き活きとしている。

 ボロルーラからクイーンズランドとの州境までは、全線ダートのウォロゴラングロード。途中、ロビンソン川など何本かの川を渡るが、雨期なのでかなりの水量。ダートナイトラン。十四夜の月がまぶしいほどだ。

 

 20時30分、ウォロゴラングに到着。荒野の中にポツンと1軒、ロードハウスがある。まずキューッと冷えたVBのカンビールを飲み、ひと息ついたところでステーキハンバーガーの夕食を食べ、キャラバンパークに泊まる。ぼくのほかには誰もいない。雨期のガルフ横断ルートに入ってくるようなモノ好きは、そうはいないのだ。

 

 その夜は地獄の苦しみを味わう。

 草の上にシュラフを敷き、眠ったが、メタメタに蚊にやられた。クソーッ。顔がデコボコになる。蚊の猛攻から逃げるように、シュラフの中にもぐり込むと、今度は汗がドクドク流れ出る。苦しくなってシュラフから顔を出すと、また蚊の猛攻だ。

 翌朝は夜明けとともに起き、シャワーを浴び、シュラフの上に座ってベジパンの朝食を食べる。すると、ワーッと蠅が群がってくる。目、鼻、耳、口と、ところかまわず入ってくる。蚊&蠅のダブルパンチ。雨期のガルフ横断はきつい‥‥。

 

東に満月、西に夕日

 ノーザンテリトリーからクイーンズランド州に入る。道はダートのままだが、路面の状態は悪く、きついコルゲーションがつづく。この道には名前がついていないがヘルゲート(地獄門)のロードハウスを通るので、ヘルゲートロードとしておく。

 ヘルゲートのロードハウスでサンドイッチ&コーヒーの朝食。大平原に出ると、道は雨でやられ、深い轍ができている。

 

 ダート240キロのヘルゲートロードを走り、バークタウンに到着。この“バーク”は『恐るべき空白』の探検家バークに由来している。バークタウンからはダート133キロのバークタウンロードを走り、バーク&ウィルスロードハウスに出たが、この「バーク&ウィルス」も『恐るべき空白』のバーク&ウィルスにちなんでいる。

 

 カーペンタリア湾岸地方では最大の町ノーマントンに向かう。大平原。夕日が西の地平線に落ちていくと、東の地平線からは満月が昇る。すごい光景だ。DJEBEL250XCに乗りながら“豪州の熱風カソリ”恍惚状態になってしまうのだ。

 

 ノーマントンのモーテルで1泊し、翌朝、カーペンタリア湾を目の前にするカルンバまで行く。ついに見たゾ! という気分なのだ。ガルフ横断とはいっても、湾まで出られて、海を見られるところはほとんどないからだ。海を望むカフェでコーヒーを飲む。店の老夫婦が犬とたわむれている。時間が止まってしまったかのようなカーペンタリア湾だった。

 

 ここから全線ダートのバークディベロップメンタルロードに入っていく。チラゴエの町まで540キロ、その間は“給油不可”なのだ。

 いよいよガルフ横断最後の難関。通る車はほとんどない。道は雨にやられ、深い轍が掘れている。ルート沿いには牧場がつづく。頻繁に牛と遭遇。何度もぶつかりそうになり、ヒヤッとする。

 夕方、チラゴエに到着。そこから山越えのルートでケアンズに向かった。

 

■コラム1■トップエンド

 ノーザンテリトリーの北部地方はトップエンドと呼ばれているが、それはオーストラリア地図の一番上に位置しているからだ。その言葉には“地の果て”の響きがある。

 トップエンドの中心地のダーウィンでは毎週木曜日にナイトマーケットが開かれている。そこでは、タイ人の店で超激辛サラダのソムタムを食べ、ラオス人の店でライスヌードル(米粉麺)を食べ、ベトナム人の店でパパイアを食べた。トップエンドはアジアに限りなく近い世界なのである。

 

■コラム2■アボリジニ

 ダーウィンの海辺の公園で、3人のアボリジニが昼間から酒を飲んでいた。男1人と女2人。たまたま公園を散歩していてその近くを通ったぼくは、彼らに手招きされるままに一緒に飲んだ。驚いたのは、3人とも別々に、ずいぶんと遠くからダーウィンに来ていることだ。

男はシンプソン砂漠のバーズビルからラクダを連れてきた。女は西オーストラリアのワーバートン、もう1人はアリススプリングスからだった。

アボリジニの言葉を教えてもらったりしたが、なかなかこのような、アボリジニと話す機会というのはなかった。