賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」前編:第12回 ブリスベーン→シドニー

 (『月刊オートバイ』1997年12月号 所収)

        

「オースラリア一周」も、いよいよ最後の行程だ。ブリスベーンを出発し、R1を南下する。世界最長のハイウエー、オーストラリアの国道1号は、区間ごとに名称が変わるが、ブリスベーンからシドニーまでは、パシフィック・ハイウエーになる。

 クイーンズランド州からニューサウスウエルズ州に入る。南太平洋の海岸線に沿って南へ。シドニーに近づくにつれて、

「あー、終わってしまう‥‥」

 と寂しい気持ちに襲われる。旅の終わりは辛いものだ‥‥。

 

ロンとの再会

 クイーンズランド州の州都、ブリスベーンに着くと、郊外のバージニアにあるAMA(オーストラリアン・モーターサイクル・アドベンチャーズ)を訪ねなつかしのロンに再会した。

 AMAは50台あまりのオン&オフのオートバイを所有し、日本の道祖神と提携し、バイクツアーを専門にやっている。1993年の「目指せ!エアーズロックツアー」では、ロンにはずいぶんと世話になった。

 このときのメンバーとは『豪州軍団』を結成し、毎年のキャンプ・ミーティングで交流を深めている。『豪州軍団新聞』という新聞まで出しているのだ。

 

 その夜は、郊外の住宅地の一角にあるロンの家で泊めてもらった。ロンはスペイン人からこの家を買い、家の中を全面的に改装していた。すごくえらいのだが、専門の業者には一切頼まず、すべてを奥さんのマリサと2人でやっていた。

 マリサはお父さんがイタリア人、お母さんがイギリス人で、ラテンとゲルマンの血の混じったチャーミングな女性だ。

 

 夕食のあと、ビールを飲みながらロンといろいろと話した。ロンはオーストラリアでも最長のダートルート、キャニング・ストックルートのバイクツアーに出発する直前だったが、今度はシンプソン砂漠横断のバイクツアーも出すと、意気軒昂だ。

 そのあとで、地図を見ながらブリスベーン周辺の話をロンに聞いた。その話の中で、なんとも耳よりな情報を手に入れたのだ。それは、オーストラリア最長の河川、マレー・ダーリング川の最長源頭がブリスベーンのすぐ近くだということだった。

 

峠上の町で

「バイク源流行」と呼んでいるのだが、ぼくはオートバイで大河の源流まで行くのが大好きなのだ。日本最長の信濃川の源流まで行ったことがあるし、世界最長のナイル川も、アフリカ大陸縦断の途中でブルンジの白ナイル源頭、エチオピアの青ナイル源頭まで行ったことがある。

 それだけに、オーストラリア最大の川、マレー・ダーリング川の最長源頭がブリスベーンの

近くだとロンに聞いたときは、背筋がゾクゾクッとするほどで、

「よし、行こう!」

 と、すぐに決めた。

 

 翌日はまずブリスベーンの周辺をまわったあと、いったん中心街に入り、州道33号でイプスウイッチの町に向かう。その途中でブリスベーン川をフェリーで渡ったが、DJEBELのフェリー代はわずかに50セント。日本円で50円にも満たない。思わずバカ高のケープヨークのジャーディン川のフェリーを思い出した。同じくらいの川幅なのに、往復で30ドル(約2700円)だったからだ。

 イプスウイッチからは、R54のワレゴ・ハイウエーでグレート・ディバイディング・レインジ(大分水嶺山脈)の峠上の町トゥーンバに向かう。前方にゆるく連なる山々を眺めながら走る気分は、

「いいゼー!」

 と声が出るほどで、何ともいえないものがある。

 

 ブリスベーンから120キロほどで峠道にさしかかる。大型トラックが唸りをあげて登っていく。その峠を登りつめたところがトゥーンバの町。展望台に立ち、茫洋と広がるオーストラリアの大地を見下ろした。

 胸がキューンとしてくる。

 1993年の『豪州軍団』のみなさんとのバイクツアーもやはりブリスベーン発だったが、最初のストップポイントがこのトゥーンバの展望台だった。あのときの、みなさんの歓声がよみがえってくるようだった。

 

 その夜はトゥーンバの町を抜け出たR54沿いのモーテルで泊まる。このモーテル前の交差点で、記念すべき!? 事故を見る。車は2台とも大破したが、ドライバーはほとんど無傷だった。これが3万6000キロの「オーストラリア一周」で見た唯一の事故。もし同じ距離で「日本一周」を走ったら、いったい何度事故を目撃したことか。車の数が違うといえばそれまでだが日本よりもオーストラリアの方がはるかに安全だ。これだけは間違いない。

 

目指せ!最長源頭

 翌日はトゥーンバからR54でイプスウィッチまで戻り、今度はR15のニューイングランド・ハイウエーで大分水嶺山脈に向かっていく。AMAのロンに書いてもらった地図を頼りに、カニンガム峠の手前、アラトゥーラという小さな町でR15を左折し、大分水嶺山脈のティビオット峠に向かっていく。

 ところがこのティビオット峠への道がわかりにくいのだ。何度も間違え、違う峠に登ってしまったり、末期ガンの患者を診るという自然療法の施設に迷い込んだりしながらも、ついに、「HEAD」の標識の出ている道に入った。この“HEAD”こそマレー・ダーリング川の最長源頭なのだ。

 

 10キロほどのダートを走り、ティビオット峠に到達。ついにやってきた。この大分水嶺山脈の峠は、太平洋に流れ出るブリスベーン川の水系と、アデレード近くで南氷洋(サザン・オーシャン)に流れ出るマレー・ダーリング川の水系を分けている。

 ティビオット峠はコンダマイン川の水源で、コンダマイン川はバロン川、カルゴア川、バーウォン川と名前を変え、ワレゴ川と合流してダーリング川となる。このダーリング川が、ニューサウスウエルスとビクトリアの州境で、スノーウィー山脈から流れてくる本流のマレー川に合流する。ダーリング川はマレー川の支流だが、全長2740キロで本流よりも長い川なのである。

 

 ティビオット峠を越えると、風景がガラリと変わる。ゆるやかな山の斜面は一面の牧場。牧草の緑が目にしみる。アルプスの牧場を思い出させるような風景だ。コンダマイン川のバレー(谷間)を下っていくとキラーニの町に出る。ここは良質な肉の“キラーニ・ビーフ”で知られている。日本でいえば“米沢牛”とか“前沢牛”といったようなものだ。

 

 キラーニからR15のウォービックに出、標高755メートルのカニンガム峠を登る。峠の駐車場にDJEBELを止め、展望台に立った。峠らしい峠の少ないオーストラリアにあっては、貴重な峠。間違いなく「オーストラリアの峠ベスト10」には入るようなところだ。峠の案内板にイギリス人の探検家アラン・カニンガムが1827年6月11日にヨーロッパ人としては初めてこの峠に到達したとある。カニンガム峠はアラン・カニンガムの名前に由来している。

 カニンガム峠を越え、イプスウィッチを通り、ブリスベーンに戻り、ふたたびロンの家に泊めてもらうのだった。

 

シドニー到着!!

 ロンとマリサに別れを告げ、ブリスベーンを出発。R1のパシフィック・ハイウエーを南に走り、「オーストラリア一周」のゴール、シドニーを目指す。

 高層のホテルやリゾートマンションが建ち並ぶゴールド・コーストを通り、クイーンズランド州からニューサウスウエルス州に入り、オーストラリア大陸最東端のバイロン岬へ。

 オーストラリアは最北端も最西端も最南端もきわめて行きにくいところだが、この最東端はR1からわずか10キロほどのところで行きやすい。最端の岬の中では、唯一、観光地になっている。

 東経153度38分07秒のバイロン岬には白い灯台がある。岬の断崖上からは、何人もの人たちが双眼鏡で海を見ていた。ホエール・ウォッチングをしているのだ。

 

 遊歩道で岬の先端まで下っていく。そこではブリスベーンから観光バスに乗ってやってきた日本人の若い女性たちと会う。

「今までに南端、西端、北端に立っているので、ここが大陸最端の最後の岬なんですよ」 というと、彼女らは口々に,

「おめでとう!」

 といって祝福してくれた。

 だが、うれしさを感じるのと同時に「オーストラリア一周」の終わりが近づいてる寂しさをも感じるのだった。

 

 シドニーを目前にしたゴスフォードでは、西オーストラリアのブルームで出会い、ノーザンテリトリーのダーウィンで再会したスティーブ&ステフィー夫妻の家を訪ねる。

 彼らの家は南太平洋を望む高台にあった。日本でいえば湘南海岸といったところで、環境抜群。ブリスベーンのロン&マリサと同じように、スティーブ&ステフィーも中古の家を買い、それを2人で時間をかけて改築していた。オーストラリアでは自分たちで家を建てたり、リフォームするのは、けっこうあたりまえのことなのだという。

 スティーブ&ステフィーには大歓迎され、楽しい一夜を過ごした。

 

 翌日はゴスフォードからフリーウエー(高速道路)でシドニーへ。

 100キロから110キロぐらいで走ったが、走りながら「オーストラリア一周」の様々なシーンが無性になつかしく思い出されてくるのだった。

 そんな感傷をブチ破るかのように、突然、バーンと、ものすごい破裂音がする。目の前を走っている大型トレーラーのタイヤがバーストしたのだ。ちぎれたタイヤ片が猛烈な勢いで飛んでくる。一発、ボディーブローを食らったが、ウーッと唸ってしまうほどの衝撃。幸いなことに大きなヤツには当たらなかったが、もし直撃されたらDJEBELもろとも吹っ飛ばされたことだろう。

「オーストラリア一周」のゴールを目前にして、油断も隙もあったものではない‥‥。でも、この“一寸先は闇”といった、何が起きるかわからないところが旅の大きな魅力でもある。

 

 ハーバーブリッジを渡り、シドニーの中心街に入っていく。オペラハウスを目の前にするところでDJEBEL250XC止める。ダーウィンからシドニーまで走ってきたというデンマーク人のチャリダーとシドニー到着の記念写真を撮り合う。ついに「オーストラリア一周」を成しとげたのだ。

 だがこれで終わりではない。シドニーからどうしても行ってみたいところがあった。それはトンネルだ。シドニー発シドニー着の「オーストラリア一周」では、一度もトンネルを見なかった。山国・日本からは、信じられないようなことだ。

 たとえば峠道でも、トンネルを掘るのではなく、ゆるやかな峠道を登り、峠の頂上を越えていくようになっている。オーストラリアというのは、トンネルのない国だ。

 

 ところがニューサウスウエルス州のロードマップを見ているうちに、なんとトンネルを地図上で発見した。サンドストン・トンネルというトンネルだ。

「オーストラリア一周」のスペシャル篇ということで、そのサンドストントンネルに向かう。R31のヒューム・ハイウエーに入り、120キロ走り、ミッタゴンの町へ。そこからハイ・レインジの峠を越え、ナッタイナショナルパークに入っていく。ダートを10キロほど走ると、目指すサンドストン・トンネルがあった。やわらかな砂岩を掘り抜いたトンネル。長さは20メートルほどでしかないが、これが「オーストラリア一周」で見た唯一のトンネルになった。

 

 ミッタゴンの町に戻る。R31でシドニーへ。日が暮れる。東の空から満月が昇る。満月に向かったR31を突っ走る。

 20時、シドニー着。

「オーストラリア一周」が終わった‥‥。

 全行程3万6084キロ。トラブルもなく走りきってくれたスズキDJEBEL250XCに、

「ありがとう!ありがとう!!」

と、何度も、何度も声をかけるのだった。

 さー、次は後半戦、第2周目の「オーストラリア一周」だ~!

  

■ワンポイント・アドバイス

 DJEBEL250XCは、3万6084キロの「オーストラリア一周」を完璧に走りきってくれた。その間のトラブルといえば、アデレード→ダーウィン間で起きたヒューズ切れだけだった。この原因というのは左のフロントのウインカーへのコードに傷がつき、それがハンドルバーに接触したものだった。

 

 「オーストラリア一周」では様々なトラブルを想定し、何点かのスペアーパーツを持った。それらは次のようなものだ。

 CDIユニット

 イグニッションコイル

 プラグキャップ

 スパークプラグ

 アクセルワイヤー

 クラッチワイヤー

 ブレーキレバー

 クラッチレバー

 

 ところが、最初にもいったようにDJEBEL250XCはノントラブルで走ってくれたので、スパークプラグ以外のスペアーパーツは全く使うことがなかった。

 さらにパンクもゼロだったので、フロントとリアタイヤの予備のチューブを持ったが、それも一度も使うことはなかった。なお、タイヤは1万キロ見当で途中、3度フロント、リアともに交換した。フロントのタイヤの減りはそれほどでもなく、おそらくもう5000キロはトラブルなしに走れたことだろう。

 

 とくに気を配ったのは、オイルである。4000キロ前後では必ず交換した。北部オーストラリアの猛烈な暑さにやられ、エンジンが焼け気味になったときは、まだ3000キロにもなっていなかったが、早めに交換した。そのおかげで、エンジン音は正常な音に戻った。

 スズキのショップはオーストラリア全土にあるが、出発前にそのリストをもらい、オイル交換はスズキのショップでやってもらった。2回に1回の割りでオイルフィルターを交換した。

 オイルにさえ気をつけていれば、今の日本製のオートバイというのは、そうめったにエンジントラブルなどは起こさないものだ。

  

■1973年の「オーストラリア2周」

 1973年の「オーストラリア2周」は2周とも今回とは逆に反時計回りに走ったが、西オーストラリアの世界最大の鉄鉱石積み出し港、ポートヘッドランドでR1と分かれ、ダートルートのR95で内陸に入り、“オーストラリアで一番暑い町”といわれるマーブルバーに向かった。

 季節が夏だったこともあってすさまじい暑さ。熱風をついてスズキハスラーTS250を走らせた。気温は50度近い。オートバイで切る熱風はまさに暴力的で、ガラスが突き刺さってくるかのように、チクチクした痛みを肌に感じるのだった。

 

 このダートルートのR95を走行中に、振動でせいで、水を入れたプラスチックの容器が割れた。水が一滴もなくなってしまったのだ。

 不運つづきとはこのことで、よりによって一番暑い所で、それも一番暑い時間帯に、フロントのタイヤがパンクした。これは1973年の「オーストラリア2周」の唯一のパンク。灼熱地獄の中でのパンク修理の苦しさといったらない。パッチを張り、エアーポンプで空気を入れるときは、のどがひきつり、息をするのさえ苦しいほど。

 ハスラーに乗って走り出しても、水が欲しくて気が狂わんばかりだ。

「水、水、水」

 と、口の中で呪文のように唱えてしまう。マーブルバーに着くまで水は飲めないものと覚悟していたが、なんともラッキーなことに、道路補修のロードキャンプがあった。

 

 ぼくは恥も外聞もなく、水を飲みたい一心で、

「どうぞ水を飲ませて下さい」

 とそこに飛び込んだ。ロードキャンプにいた人は驚いた顔をしたが、すぐさま大きなビンに入った水を持ってきてくれた。

 冷たい水をガブ飲みし、ホッと一息ついたとき、

「この世の中で、水以上にうまいものはない」

 と、ぼくはそう確信した。

 

 ところが、マーブルバーに着くころには、またまた、のどは渇きでひきつり、すぐさま店に飛び込んだ。冷えたコーラを1本では我慢できずに、3本、4本と飲み、そのあとアイスクリームを食べ、さらにそのあとで腹がダッボン、ダッボンになるくらいに冷たい水をガブ飲みするのだった。

 今回のオーストラリア一周でも、やはりポートヘッドランドからマーブルバーまで行った。季節が冬だったこともあって、今回は暑さに悩まされることはなかった。道はR1との分岐点から舗装路が80キロほど延びていたが、その先は1973年当時と変わらないダートルート。なお現在のR95は、このマーブルバーへのルートよりもはるかに西を通り、全線が舗装路になっている。