賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」後編:第4回 パース→アリススプリングス

※全行程5178キロ(ダート5本2614キロ)

 (『バックオフ』1997年6月号 所収)

 

 ナラボー平原横断をなしとげてたどり着いた西オーストラリアの州都パースは、のびやかな都市だ。オーストラリアの未来を感じさせる明るさがある。

 ここではうれしいライダーたちとの出会いが待っていた。我らライダーにとって、旅の途中で出会う仲間ほどうれしいものはないが、なんと、前回の「オーストラリア一周」(ロード編)で出会った“七夕ケアンズ組”の面々と、ここでばったり再会したのだ。

 

 さて、そんなパースを後にし、1700キロのロングダート、キャニングストックルートに挑戦。ストックというのは、家畜のことで、ストックルートというのは“牛追い道”といったところだ。

「チャレンジ!」

 と、“豪州の熱風カソリ”、DJEBEL250XCに乗りながら何度も、何度も叫び、キャニングストックルート入口の町ウィルナに向かっていた。

 

“七夕ケアンズ組”と再会!

 パースでは、バックパッカーズの「RBP」に泊まった。ここは日本人ライダーの溜まり場になっている。

 ここでなんと、前回の「オーストラリア一周」(ロード編)で出会った“七夕ケアンズ組”のうち、GOTO姉、ユキちゃん、コースケ、マツバの4人と再会する。

 ここで会ってまたあそこで会ってと、これがオーストラリアのよさ!

 

“七夕ケアンズ組”というのは、単独でオーストラリアを旅している日本人ライダーたちが、七夕(7月7日)の日にクイーンズランド州のケアンズの町に集まり、オーストラリア最北端のケープヨークを目指したのだが、その総勢18名のメンバーをいう。ぼくは彼らに追いつき、2晩、一緒にキャンプした。

 前回のナラボー平原横断で出会ったタマさんも“七夕ケアンズ組”だったし、ぼくがシンプソン砂漠横断をなしとげることができたのも、DR350でシンプソン砂漠を横断した“七夕ケアンズ組”のノリさんの情報によるところが大きい。

 

 オーストラリア人にモテモテの美人ライダーのGOTO姉は、セローで5万3000キロを走り、パースがバイクの旅のゴールになったが、

「カソリさんは、一度、日本に帰り東北、北海道と走り、再びオーストラリアにCOME BACK! あーたは一体、いつお休みしているんですか。少しはお家に帰って、奥さんとイチャイチャしときなさい!

 と、ありがたきアドバイスをノートに書いてくれた。

 

 XT350でまわっているコースケはエミューのイラストつきで、

「若き日に旅せずして、老いて何を語らんや。出逢いは宝!」

 と、ノートにそう書いてくれた。

 その夜は大宴会。プレンティーハイウエーで転倒し、足の骨を折ったマツバ、目をやられ、あわや失明というピンチを乗り越えたユキちゃんとツワモノぞろいの飲み会は、真夜中の午前2時までつづくのだった。

 

1700キロのダートルートに挑戦!

 パース郊外の「スズキ・ノース」で、DJEBEL250XCのタイヤとチェーン、スプロケットを交換し、R95のグレートノーザンハイウエーを北へ、キャニングストックルート入口の町、ウィルナを目指す。

「いよいよだな!」

 と“豪州の熱風カソリ”気合十分。

 

 ところでぼくがキャニングストックルートを初めて知ったのは、1973年の「オーストラリア一周」のときで、本気になって走ろうと思ったのは、その10年後のことである。 風間深志さんと1980年にホンダXR200でキリマンジャロに挑戦し、1982年にはスズキDR500で「パリダカールラリー」に参戦した。

 そのあとの“カソリ&風魔コンビ”の第3弾目が、このキャニングストックルートになるはずだった。

 

 ところが、計画が固まった時点でテレビがからみ、そのせいで、いいようにかきまわされてしまい、結局、ぼくたちのキャニングストックルート計画は、ポシャってしまった。なんとも悔しい話だ。

 ぼくはこの後遺症を今でも強く引きずり、テレビ関係の人間は、絶対に信用しない。

 その後ぼくは、1984年から翌85年にかけて、半年ががりで、「南米一周4万3000キロ」の旅に出た。

 風間さんはといえばバイクでのエベレスト挑戦から、さらには、北極点、南極点踏破という偉業を達成した。

 

 キャニングストックルートにまつわる出来事を思い返しながら、R95を北へと走り、パースから840キロのメカタラに着く。ここでR95を右折しウィルナロードに入っていく。

 すぐにダートになり、土煙りを巻き上げながら走る。エミューがひんぱんに飛び出してくる。全部で4度合計16羽のエミューが飛び出してきた。そこで、このウィルナロードを“エミュー街道”と名づけた。

 ウィルナが近づくにつれて、緊張感が高まってくる。

「さー、うまくいくかどうか‥‥」

 ぼくの胸は高鳴る。

 

 というのは“「ハロー、マイフレンド!」(今日は、我が友よ!)作戦”で、キャニングストックルートを走破しようと思っているからだ。

 ウィルナのキャンプ場でキャニングストックルートに入っていく4駆を待ち、彼らに、「ハロー、マイフレンド!」

 と、声を掛けて親しくなり、ガソリンを運んでもらおうという魂胆なのだ。

 

 R95のメカタラから180キロでウィルナに着く。すぐにキャラバンパークに行く。旅行者の車は1台もない。キャラバンパークは、ガラーンとしていた。

「ヤバイなあ‥‥」

 すぐに、ブリスベーンのAMAのロンからその名前を聞いていたキャラバンパークのおばちゃん、トリッシュ・グッドフレイさんのところに行き話を聞く。すると、キャニングストックルートに入っていく車は、来年の冬になるまで、もう1台も来ないという。キャニングストクルートに4駆が入っていくのは、5月下旬から9月上旬までだという。

「しまった、1ヵ月、遅かったか」

 キャニングストックルートのほぼ中間点を南回帰線が通っているが、この線の北は猛烈な暑さ。10月からら4月までの夏の間は走れないのだ。

 

「よーし、作戦の変更だ!」

 と、さっそくキャニングストックルートの地図を広げ、“単独行”での挑戦を考える。 ウィルナからホールスクリークまで1724キロある。だがその手前168キロのアボリジニのコミュニティー、ビリルナで給油できるので無給油区間は1556キロになる。先月号のナラボー平原横断では1061キロを無給油で走り、ガソリンを4リッター残したが、そのときはリアバッグの上に5リッターのポリタンを積み、全部で37リッターのガソリンを持った。そのポリタンを20リッターにし、全部で52リッターのガソリンを持つことは可能だ。

 

 52リッターのガソリンを持ち、シンプソン砂漠横断のときと同じ燃費のリッター25キロで計算すると、自走できるのは1300キロ‥‥。ダメだ‥‥。そこでさらに考え、ついに、名案を思いついたのだ。

 キャニングストックルートのほぼ中間点、ウエル(井戸)23(ルート上には点々と井戸がある)からいったんR95のカプリコン(南回帰線)ロードハウスに出、そこで給油し、またウエル23に戻るという案だ。これだと1200キロ、1200キロの2行程、合計2400キロで走れる。いったんは、このカプリコンロードハウスを使う案で走ろうと決めたのだが、どうしても足が前に出なかった。結局キャニングストックルートを断念。また、次の機会だ‥‥。

 ウィルナからメカタラに戻り、R95を北へ。カプリコンロードハウスのキャラバンパークで泊まり、ダート331キロの、強烈な暑さのマーブルバーロードを走り、インド洋岸の港町ポートヘッドランドに出た。

 

ロングダートを走り、アリススプリングスへ

 ポートヘッドランドからR1のナイトランで800キロ走り、ダービーの町に着く。このあたりにはボーブに木が多く見られる。ボーブというのは、アフリカのバオバブと同じ木で、世界でもオーストラリア北部のこのあたりと、アフリカのサバンナ地帯で見られるだけだ。

 ダービーからダート592キロのギブリバーロードに入っていく。最初のうちは走りやすいダートで、大きな岩山を越え、キングレオポルド山脈の峠を越える。

 中間点のマウントバーネットのロードハウスを過ぎると、ガクッと道の状態が悪くなる。

 

 ギブリバーを通過。ここにはステーション(牧場)があるだけで、ほかには何もない。交通量のほとんどない赤土の道をただひたすらに走る。ところどころ、砂が深い。このギブリバーロードでは、何人もの日本人ライダーが転倒し骨折しているが、ブルダストにハンドルをとられての転倒だ。荷物を満載にしているので気をつけて走っても転倒してしまう。

 それと、腹わたがよじれるくらいのコルゲーション(洗濯板道)での猛烈な振動。ダダダダダッと、まるで機関銃でも連射されているかのよなだ。DJEBELがバラバラになってしまうのではないかと、本気で心配してしまう。

 

 ギブリバーロードの後半戦ではまた、何本もの川渡りをしなくてはならなかった。このあたりは、すでに雨期に入り、川には水が流れていた。深いところで膝ぐらいだった。

 夕暮れ時の雷雨がすさまじい。稲妻が大空を何本も駆けめぐる。ゴロゴロドカーンとすぐ近くに落ちたときは「ヤッター!」と、肝をつぶす。

 そのうちに、たたきつけるような雨が降り出す。川の水量はあっというまに増え、渡るのが怖いくらいの激流に変わる。舗装路に出、カナナラの町に着いたときは心底ホッとした。

 

 カナナラからは、ダート440キロのダンカンハイウエーを走り、ホールスクリークに向かう。路面は大雨にすっかりやられ、トラックの通った跡は深くえぐれている。

 路面のあちこちには、大きな水溜まりができている。それをひとつづつ避けながら走る。下手してその中に突っ込むと、グチャグチャの泥沼地獄にはまり込み、にっちもさっちもいかずに、抜け出せなくなってしまうのだ。

 北風が強くなる。熱風。あまりの暑さに水を飲みつくしてしまう‥‥。

「水、水、水! 水を飲みたい!」

 と水を連発する。オーストラリアの北部地方の自然は厳しい。

 

 ホールスクリークに着くと、腹がダッボンダッボンになるくらいに冷たい水をガブ飲みし、ロードハウス

のレストランでTボーンステーキを食べ、ダート897キロのタナミロードでアリススプリングスに向かう。

 R1をダービー方向に15キロ走ったところで左に折れるのだが、タナミロードはその入口からダートだ。

 キャニングストックルートの地図とピッタリ同じ数字の168キロ地点でビリルナとの、T字の分岐点に到着。ここを右に入ればキャニングストックルートなのだが、

「きっと、また、来るからなあー!」

 と、叫んで直進し、タナミロードでアリススプリングスに向かった。

 

 ホールスクリークから315キロ地点で、西オーストラリアとノーザンテリトリーのボーダー(州境)に到着。一直線のダートルートがズドーンという感じで延びている。ノーザンテリトリーに入ると、路面の状態はすこしよくなった。

 1週間のうち、金曜日から月曜日までの4日間だけ給油できるラビットフラットのロードハウスに着くと、まずは冷たいVBのカンビールをキューッと飲み干し、それからガソリンンを入れてもらうのだった。

 タナミロードのダートから舗装路に変わる地点では、DJEBELを止め、思いっきり「万歳!」を叫び、アリススプリングスに向かった。

 

■コラム1:南回帰線■

 今回の「オーストラリア2周7万2000キロ」では、8地点で南回帰線を越えたが、この南緯23度26分30秒の緯度線はおおよその、温帯圏と熱帯圏の境になっている。

「アフリカ一周8万5000キロ」のときには、赤道にこだわり、あっちの赤道、こっちの赤道と何地点もの赤道を越えたが、「オーストラリア一周」でも、同じようにして、あちらこちらの南回帰線を越えたのだ。南回帰線というのは「オーストラリア一周」の絶好のポイントになっている。

 

■コラム2:ロードハウス■

 オーストラリアツーリングで、ロードハウスほどありがたいものはない。そこでは給油し、レストランで食事し、ショップで買い物をし、パブがあれば、冷たいビールを飲むことができる。

ロングダートのギブリバーロードでは、途中に1ヵ所、マウントバーネットにロードハウスがあるが、猛烈な暑さの中を走ってきたので、まず冷えたコーラを飲み、さらに冷蔵庫の冷えたスイカとトマトをむさぼり喰った。ロードハウスはまさにオアシスのようなもの。