賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」前編 第7回:ダーウィン→アデレード

 (『月刊オートバイ』1997年7月号 所収)

        

 オーストラリア北部の中心地ダーウィンからスチュワートハイウエーを南下し、アリススプリングス経由で大陸を縦断し、アデレードまで行った。

 その間では、ノーザンテリトリーの3湯の温泉に入った。どこも、自然度満点のオーストラリアの温泉に入り、“温泉のカソリ”、大満足だ。

 温泉のあとは、大陸中央部の大平原ににそそりたつ世界最大級の一枚岩の岩山、エアーズロックに登るのだった。

 

日本軍のダーウィン空襲

 オーストラリア北部の中心地ダーウィンでは、「ゲッコー・ロッジ」というバックパッカーズに泊まり、翌日は、この町の周辺をまわった。第2次世界大戦中、要塞になっていたイースト・ポイント(東岬)にあるミリタリー・ミュージーアム(戦争博物館)が興味深かかった。巨大な9・2インチの高射砲がここのシンボルだ。

 かつての要塞内に展示されてるダーウィン空襲図に目がくぎづけになる。1942年から翌43年にかけて日本軍が空襲した地点に、赤いドットを落としてある。そのドットが無数にあるのだ。いかに激しい空襲だったかがよくわかる。市民は事前に避難していたのにもかかわらず243人が死亡したという。

 映写室ではそのときの、ダーウィン空襲のビデオを見たが、

「おー、ジャパニーズ」

 と、まわりの人たちから非難されているようで、すごく肩身の狭い思いをした。

 

 このダーウィンでは何人かの日本人ライダーに出会ったが、その中に、美人ライダーの“GOTO姉(ゴトネー)”がいた。あちこちでその名を聞いていたが、ついに、その本人に出会ったのだ。“GOTO姉”の本名は後藤美和子さん。セローで5万3000キロを走り、何本ものダートを走破したのだ。

 なんと“GOTO姉”は『オートバイ誌』編集部の面々とは、すごく親しいのだ。ポン太にはバイクを売ってもらったことがあり、船山さんらとのツーリングでは高速道で事故り、かなりの怪我をしたという。

 そんな“GOTO姉”は、オーストラリアではモテモテで、プロポーズされたのは1度や2度のことではないらしい。

 

豪州温泉めぐり

 ダーウィンのスズキのディーラー「スズキ・テリトリーズ」で、前後輪のチューブ&タイヤの交換、スプロケット&チェーンの交換、オイル&オイルフィルターの交換をしてもらい、R1のスチュワート・ハイウエーを南へ、アデレードを目指す。

 ダーウィンから92キロ地点でR1を右折し、リッチフィールド・ナショナルパークに入る。R1から80キロほどのワンギ滝では、水着に着替え、滝壺の広々としたプールで泳いだ。すごーく、気持ちいい!

 ワンギ滝からR1に戻り、アデレードリバーの町を過ぎたところで、ふたたびR1を右折。今度はR1から40キロほどの、ダグラス温泉に行く。

 最後にダートを走ってたどり着いたダグラス温泉は、100度近い源泉が川に流れ込んだ、ジャスト適温の温泉。川の流れ全体が温泉で、自然度満点だ。男も女も水着を着て湯につかっている。というよりも、天然温泉の川で川遊びをしているといった風情だ。ぼくもさっそく、水着に着替え、オーストラリアの第1湯目のダグラス温泉の湯につかった。「ウーン、満足、満足!」

 日本の温泉地と違って、温泉宿のたぐいはまったくない。ただ、無料のキャンプ場があるだけ。温泉も、もちろん無料湯である。

 

 その夜は、ダーウィンから南に300キロ、キャサリーンの「クックバラ・ロッジ」というバックパッカーズに泊まった。ここではXR250Rに乗るモトさんと、XT350に乗るゴリラーマンの2人の日本人ライダーと一緒になった。

 翌朝3人で、キャサリーン郊外の「リバー・ビュー」というキャラバンパークの裏手にあるキャサリーン温泉に行く。第2湯目のキャサリーン温泉は、ダグラス温泉と同じように川の流れ全体が温泉になっている。湯温はダグラス温泉よりも低い。ぼくたちは潜水だ、平泳ぎだ、クロールだと、温泉の川を泳ぎまくるのだった。

 北のダーウィンに向かうモトさんとゴリラーマンと別れ、ぼくはキャサリーンからR1で南に100キロのマタランカに行く。この町から7キロの地点に第3湯目のマタランカ温泉がある。やはり川の流れが温泉で、湯温はキャサリーン温泉よりも低かった。だが、気温が猛烈に高いので、ちょうどいい。温泉の川の流れは異様なほど透き通っていた。

 ダグラス、キャサリーン、マタランカと、ノーザンテリトリーの3湯の温泉に入り、

「やったゼー!」

 という気分になるのだった。

 

カソリの首を締めろ!

 マタランカから南に170キロ行った地点で、R1は左折しカーペンタリアハイウエーになるが、その分岐点を直進し、ルートナンバーがR87に替わったスチュワートハイウエーをさらに南下していく。

 テナントクリークを過ぎたところで一晩、野宿。翌日、デビルマーブル(悪魔のおはじき)の風化された岩山を見る。“悪魔のおはじき”とはよくいったもので、今にもゴロゴロころがり落ちそうな丸い大岩もある。

 ダーウィンから南に1500キロ、南回帰線のモニュメントを越えたところで、オーストラリア中央部の中心地アリススプリングスに着く。南回帰線を越え、温帯圏に入ったというだけで、何となしに、風がひんやり冷たい感じがする。

「アリスロッジ」というバックパッカーズに泊まったが、ここは男女同室で、隣のベッドにはデンマーク人の女の子。彼女はスケスケルックで、ピンクのブラジャーが透けて見えてしまうのだ。刺激が強すぎるよー。

 

 夕暮れのアリススプリングスの町を歩いていると、

「カソリさーん!」

 と声をかけられた。日本人ライダーのXT350に乗る“隊長”と、DR650に乗る“DRタカハシ”との出会いだ。

「一緒にバーベキューをしましょうよ、カソリさん」

 と、2人に誘われ、さっそくスーパーマーケットのウールワースでビーフやチキン、ソーセージ、野菜類、それとビールを買い、彼らの泊まっているバックパッカーズ「メラルーカ」でのバーベキューパーティーがはじまった。

 我々3人のほかに、ここに泊まっている熊本の女子大生の久美子さん、“熊クミ”もメンバーに加わった。彼女は1年間、大学を休学し、ワーホリ(ワーキング・ホリデー)でオースラリアにやってきた。列車、バスを乗り継いでまわっている。

 

 VBのカンビールをガンガン飲み、肉を腹いっぱいに食べながら、話はいやがうえにも盛り上がる。

「オレの前の彼女はカソリさんの大ファンで、あるとき、オレとカソリさんのどっちが好きかって聞いたんですよ。そしたらカソリさんだって‥‥。あのときは、どこかでカソリさんに会ったら、首をギューッと締めてやろうと思ったくらいですよ。そのカソリさんに、アリススプリングスで会うだなんて‥‥」

 そんな“DRタカハシ”の話に“隊長”も“熊クミ”も、やんやの喝采。

「今がチャンス、カソリさんの首を締めちゃえ、締めちゃえ」

 と、2人は“DRタカハシ”をけしかけれる。いやはやいやはや、なんとも楽しいバーベキューパーティーは、夜中までつづいた。

 翌朝は、「アリスロッジ」を出発すると「メラルーカ」へ。前夜のメンバーと、おにぎりパーティーをすることになっているのだ。うれしいことに“熊クミ”が、朝早くからご飯を炊いて、たくさんのおにぎりを握って待っていてくれた。さすがに日本人女性、心づかいが細やかだ。

 朝食のおにぎりをパクつきながらまたひとしきり話に花が咲くのだった。

 

エアーズロック登頂!

 アリススプリングスから南に200キロ、エルダンダでR87を右折し、エアーズロックへの道のラセッターハイウエーに入っていく。風がグッと冷たくなる。アリススプリングスを出発するときは、Tシャツの上にジャケットを着たが、ここでさらに、フリースのインナーのウエアを着る。

 左手にマウント・コナーが見えてくる。平原にスクッとそそり立つ標高863メートルのテーブル状の岩山だ。

“偽エアーズロック”の別名があるほどで、知らなければ、

「おー、エアーズロックだ!」

 と、叫んでしまうところだ。

 

 R87のエルダンダから160キロ、カーテンクリークのロードハウスで昼食にする。サンドイッチとコカコーラ。そこから50キロほどで、今度は本物のエアーズロックが見えてくる。世界最大級の一枚岩の岩山だ。

 だが、前方のゆるやかな小丘群に隠れ、見えるのはその頭だけ。エアーズロックはなかなか全貌を見せてはくれない。

 エアーズロックが見えはじめてから、さらに40キロほど走ったところで、ウルル・ナショナルパークのゲートに着く。そこで10ドル払って、チケットを買う。

 ウルルというのは、エアーズロックのことで、アボリジニの言葉。ウルルは彼らの聖なる岩山なのだ。

 夕日に染まったエアーズロックを眺める。夕日が落ちる。するとほぼ同時に、エアーズロックの背後に満月が昇る。すごい光景だ。その夜は、ユララのキャンプ場に泊まった。 翌朝、日の出とともにエアーズロック登山口の駐車場まで行き、急勾配の岩肌を登りはじめる。雲ひとつない上天気。鎖につかまりながら登るのだが、ヒーヒーハーハーいってしまう。

 

 さすがに、オーストラリアでも1、2の観光地だけあって、登山者は列をなしている。日本人の新婚カップルのグループに追いつく。まわりは若い熱々のカップルばかり。いいねー、うらやましいよー。

 汗をグッショリかいて、広々とした岩畳のエアーズロックの頂上に到着。そこで出会ったイギリス人旅行者のマークと、お互いの登頂記念の写真をとり合った。そのあとで、岩の上にベターッと座り、お互いの旅の話をする。彼はイギリスを発ってすでに一年。アフリカ、アジアの国々を旅してオーストラリアにやってきた。これからシドニーで3ヵ月ほどバイトをし、旅の資金を稼ぎ、ニュージーランドから南米、さらには北米と旅をつづけるという。

 

穴ボコだらけの大平原

 エアーズロックからエルダンダに戻り、R87のスチュワートハイウエーを南下。ノーザンテリトリーからサウスオーストラリア州に入る。オパール鉱山の町クーバーペディーに近づくと大平原は穴ボコだらけ。大小無数のボタ山ができている。ほかでは見ることのできない“地球上の奇観”といっていい。

 ハイウエー沿いの標識が、いかにもクーバーペディーらしいのだ。“DAGER(危険)”の標識とともに「走るな、気をつけろ、後ずさりして歩くな」と、絵入りで書かれてある。道路沿いに車を止めて、オパール鉱山(といっても、ほかとそう変わらない平原)をプラプラ歩きまわっているうちに、穴に落ちる人がけっこういるのだ。

 クーバーペディーからはナイトラン。地平線上に昇る十六夜の大きな月を見る。ギョッとするほどの大きな月だ。エアーズロックから1100キロ、真夜中に、大陸横断鉄道と交差するピンバに到着。一泊20ドルの安いモーテルに泊まり、翌日、ダーウィンから4000キロを走って大陸を縦断し、アデレードに到着するのだった。 

 

■ワンポイント・アドバイス■カソリ流・長距離の走り方

 オーストラリアのシンボル、エアーズロックから、大陸横断鉄道と交差する地点のピンバまで、本文でもふれたように一日で1000キロ以上を走った。このように「オーストラリア一周」では、一日に1000キロ前後走った日は何日もある。

 ぼくは国内のツーリングでもそうなのだが、一日の走行距離が長くなればなるほど機嫌がよくなり、心底、うれしくなってしまうのだ。反対に一日の走行距離が伸びない日は、何か、もの足りなくて欲求不満状態になる。朝から夜中まで、徹底的にオートバイで走ったあとの気分は、もう最高の満足度なのだ。

 

 とはいっても一日で1000キロ近くを走るのは、そう容易なことではない。では、どうするかというと、朝を有効に使うことである。

 ぼくは一日の時間帯の中でも朝が一番、好きだ。朝というのは、頭はスッキリしているし、目の曇りがとれているとでもいうのか、自分の感性が活き活きしているので、オートバイに乗って走っているだけで楽しくなり、目に入る風景がキラキラと光り輝いて見える。

 野宿したようなときは、夜明けとともに走りだすので、3、4時間も走ると、けっこう眠くなる。そのようなときは、眠気のピークをとらえ、「今だ」とオートバイを止め、適当なところでゴロンと横になる。時間を15分とか20分と決めて眠るのだが、慣れるとすぐに熟睡できるようになり、ほんとうに15分後とか20分後には目がさめる。午前中のこの短い睡眠がすごく気持ちいいのだ。

 

 それと昼寝である。昼寝はよくする。昼食を食べて30分から1時間後ぐらいが一番眠くなるが、やはり眠気のピークをとらえて寝るのだ。

 昼寝をすると、ナイトランがグッと楽になる。それこそ平気で夜中の12時ぐらいまでは走れるようになる。どうしても見たいところ、立ち寄りたいところは明るいうちに行き、ナイトランでは距離を稼ぐというのが、“カソリ流走り方”なのだ。

 

■1973年の「オーストラリア2周」■大陸の最高峰登頂!

 1973年の「オーストラリア2周」で、まっさきに行ったところは、大陸の最高峰、クシオスコ山だった。連峰の首都キャンベラからクーマを通り、ジンダバインへ。そこから、クシオスコ山への道に入っていった。当時は山頂直下までオートバイや車で行けた(現在は10キロ手前のシャロット峠まで)。駐車場にハスラーを止め、石段を駆け登り、10分ほどで大陸の最高峰、クシオスコ山の頂上に立つことができたのだ。

 標高7310フィート(2228m。当時のオーストラリアはメートル法ではなく、マイルやフィートを使っていた)のクシオスコ山の頂上に立つと、なだらかな山並みがつづくスノーウイー山脈の山々を一望する。雄大な眺めだ。季節は夏だったが、頂上を吹き抜けていく風は冷たく、周囲には、かなりの雪が残っていた。

 

 クシオスコ山の登頂を終えると、ジンダバインの町に戻り、今回も走ったアルパインウエーに入っていた。当時、このダートルートは、途中で行き止まりになっていた。その行き止まり地点の近くには、ギーのユースホステルがあった。

 今もあるのかどうかわからないが、ギーのユースホステルは当時は無人で、50セントの宿泊費を料金箱に入れるようになっていた。宿泊客はぼくのほかには、アメリカ人のマイケルとアイルランド人のトム、ニュージーランド人のジュリーとティーンの女の子の2人組。

 夕食はみんなで一緒につくり一緒に食べた。マイケルが近くの渓流で釣ってきたカワマスのアルミホイール焼きがうまかった。日が暮れると焚き火を囲んでワインを飲んだ。マイケルがギターをひき、ティーンが透き通る声で歌った。