カソリと走ろう!(1)「目指せ! エアーズロック」
(『ゴーグル』2004年6月号 所収)
「人との出会い」、ぼくはこれがツーリングの最大の魅力だと思っている。いや、ツーリングのみならず、人生で一番おもしろいのが「人との出会い」といっても過言ではない。
ぼくは今(※2004年)、56歳。20歳のときに日本を飛び出し、スズキTC250でアフリカ大陸を一周して以来、30数年間、「世界を駆けるゾ!」を合言葉にバイクで世界を駆けめぐってきた。その大半は一人旅で、「バイクは1人で走るもんだ」と20代、30代のころは固く信じきっていた。
ところが40代の半ばになって、自分のそんな信念を根底から崩される一本の電話をもらった。その電話は東京の旅行社「道祖神」の菊地優さんからのもので、「カソリさん、もういいでしょう」といった意味のことを菊地さんはいった。「道祖神」主催のバイクツアーを「みんなと一緒に走りましょうよ」というものだった。
菊地さんに初めて会ったのは、今からもう30年も前のことになる。「アフリカ大陸一周」を書いた「アフリカよ!」という本を出したとき、それを読んだ菊地さんから連絡をもらい、東京・秋葉原の「メトロ」という喫茶店で会った。友人のKさんも一緒だった。菊地さんは17歳。まだ高校生だった。
「ぼくたちもアフリカに行きたいんです」
という若き2人と秋葉原駅構内地階の薄暗い喫茶店で夢中になってアフリカの話をしたのを今でも鮮明に覚えている。そのときカソリ、27歳。血気盛んで、
「アフリカはいいよ!」
と、2人をおおおいにそそのかした。
2人はほんとうにすごいのだが、そのあと19歳になったときにアフリカへの夢を実現させ、世界に飛び出していった。
菊地さんは長い旅から帰ると、旅行社で仕事をするようになった。それが「道祖神」。社長の熊沢さんはぼくと同年代で、1960年代に「サハラ砂漠縦断」をなしとげたようなアフリカ大好き人間。ぼくはその後何度か「道祖神」で便宜をはかってもらい、航空券などを手配してもらったことがある。
そんないきさつがあったので、さっそく菊地さんに会った。すると、「カソリさん、ダートコースでエアーズロックまで走りましょう」といわれた。「エアーズロック」の一言がぼくの胸を強烈にとらえた。バイクツアーがどういうものなのか、参加者のみなさんと一緒に走るのがどういうものなのか、そんなことは一切考えずに、
「行きましょう!」
と、菊地さんに即答した。
オーストラリアの中央部にそそり立つ世界最大の一枚岩の「エアーズロック」は今でこそ一大観光地になり、道路が整備されて行きやすくなっているが、ぼくが1973年にヒッチハイクとバイクでオーストラリアを2周したときは、そう簡単には行けるようなところではなかった。オーストラリアの中央部をアデレードからダーウィンへと南北に縦断する幹線のスチュワートハイウエイも、南半分の大半がダートだったような時代だ。
そのときぼくはエアーズロックに行きたい一心で、ヒッチハイクのときはスチュワートハイウエイとの分岐点で24時間、寝ずに車を待った。その間にエアーズロック方面に行った車はわずか数台。で、結局、乗せてもらえないままにエアーズロックを諦めた。次にバイクでまわったときは北のテナントクリークからアリススプリングス経由でエアーズロックに向かおうとした。が、往復で2000キロ、その間のガソリン代を考えるとやはり、「無理だ…」
で、断念した。なにしろそのときは宿泊費には一銭も使わないような極貧旅行で、それで「世界一周」を目指していたからだ。
エアーズロックに行けずに悔しい思いをしてから20年後の1993年7月5日、ついにその夢を実現させるときが来た。「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第1弾となる「目指せ! エアーズロック」出発の日だ。
参加者は13名。成田空港で出会ったときから大盛り上がりで13名のメンバーと「豪州軍団」を結成。成田からオーストラリア東海岸のブリスベーンに飛び、ブリスベーンを出発点にしてDR350やセローで西へ、大陸中央部のエアーズロックを目指した。
大分水嶺山脈を越え、最初のダートに突入したときには、最高に気分が舞い上がった。「やったー!」という気分。先頭を走っていたぼくは走りやすいところをあえて外し、路肩近くの砂深いルートに突っ込んだ。
気の毒だったのは参加者のみなさん。「カソリさんが選んだルートだから、きっと走りやすいに違いない」と砂道に突っ込み、砂にハンドルをとられて吹っ飛んだ。とくに「ターク」こと目木正さんや「お水」こと小船智弘さんはひどい打撲でサポートカーに乗ることになった。いやいや、ほんとうに申し訳ない。
我々はすごくラッキーだったのだが、上原和子さん、増山陽子さん、錦戸陽子さんの3人の美人ライダーが参加していて、そのうち上原さん、錦戸さんの2人が看護師。そのおかげでタークとお水は美人看護師の手厚い看護を受けることができた。
ダートに突入して目の色を変えたのは坂間克己さん。ぼくがDRのアクセル全開で走っても、すぐ後ろまで迫ってくる。120キロ以上で走っていたので、ギャップにはまったときなどは、
「ワーッ!」
と、絶叫モードで吹っ飛びそうになる。それでもバトルをつづける2人。このバトルのせいで(おかげで)、後に坂間さんが結婚するときには仲人をすることになる。カソリ夫婦にとっては初めての仲人経験になった。
530キロのロングダート、「バーズビルトラック」の入口、バーズビルの町に着いたときは、なんともいやなニュースを聞いた。砂漠同然のこのあたりで、記録的な大雨が降ったという。
こういうときは瞬時の決断が必要だ。できるだけの情報を集め、「行ける!」という判断を下すと、
「さー、突破してやるゾ!」
と、雄叫びを上げてマリーの町を目指した。
いやはやすさまじい洪水の光景。大平原が一面、水びたしになっている。ダートもグチャグチャヌルヌル状態。バイクは泥団子だ。氾濫した川渡りが大変。濁流の中で転倒し、あわやバイクごと流されそうになったこともある。水をかぶったせいなのだろう、エンジンのかからなくなったバイクが続出し、そのたびに押し掛けした。あまりの苦しさに心臓が口から飛び出しそう。それでも行くのだ、エアーズロックを目指して!
530キロの洪水と泥土のダート、「バーズビルトラック」を走りきってマリーに着いて大喜びした我ら「豪州軍団」だったが、その喜びもつかのま、スチュワートハイウエイまでの610キロのロングダート、「ウーダナダッタトラック」も大雨にやられズタズタの状態だと聞かされた。だが、洪水と泥土にすっかり慣れたメンバー全員は、
「目指せ! エアーズロック」
を合言葉に「ウーダナダッタトラック」も走りきり、スチュワートハイウエイのマルラに着いた。ここまで来れば、あとはもう舗装路のみ。
マルラではキャラバンパークでキャンプしたが、その夜は大きな難関を突破した喜びを爆発させ、焚き火を囲んでの大宴会になる。
「豪州軍団」の連帯感はいっそう強いものになる。カンビールをガンガン飲み干し、さらにワイン、ウイスキーと、あるものすべてを飲み尽くした。おかげで翌日は割れるように痛む頭をかかえてバイクに乗ることになる。でも、それがまたよかった…。
ブリスベーンを出発してから7日目、ついにエアーズロックに到着。西日を浴びたエアーズロックは真っ赤に染まっていた。夢が現実になった瞬間。ここまでの道のりが厳しいかっただけに、エアーズロックに到着した喜びにはひとしおのものがあった。全員で日が暮れるまでエアーズロックを見つづけた。日が沈む直前のエアーズロックは、まるで炎をたぎらせれ燃え盛るかのような赤さだった。
翌朝はまだ暗いうちにキャンプ場を出発。今度は地平線に昇る朝日を浴びたエアーズロックを眺め、そして急勾配の岩肌に這いつくばるようにしてエアーズロックを登り、全員で標高867メートルの頂上に立った。まさに感動の瞬間。我ら「豪州軍団」、山頂でシャンペンをあけて乾杯!
ここからの眺望がものすごい。360度の展望。スパーッと天と地を切り裂いた地平線。大平原がはてしなく広がっている。
我ら「豪州軍団」、日本に帰ると、その年の秋に「日本のエアーズロック」といわれる紀伊半島の古座川の一枚岩に集合した。それ以降、毎年、場所をかえてのキャンプがつづいている。メンバー同士のつながりは、まさに一生ものといっていい。これぞまさに「人との出会い」の典型だとぼくは思っている。