賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリと走ろう!(7)「ユーラシア大陸横断」

(『バックオフ』2002年10月号 所収)

 

 2001年の夏、ぼくはモデルチェンジしたスズキDR-Z400Sを試乗した。

 試乗を終えたとき、大陸横断への夢にかられ、

「よーし、このDR400でユーラシア大陸を横断しよう!」と本気でそう思った。

 人間は思い込みが肝心だ。

 そう思ったとたんに、抜群のタイミングで、「道祖神」の菊地優さんから、

「カソリさん、シベリア経由でユーラシア大陸横断をやりましょうよ!」

 という電話をもらった。

 

 こうして「道祖神」主催のバイクツアー、「カソリと走ろう」シリーズの第7弾は、シベリア経由の「ユーラシア大陸横断」に決まったのだ。

 富山県の伏木港から船でロシアのウラジオストクに渡り、そこからシベリアを横断し、ウラル山脈を越え、ヨーロッパ最西端のロカ岬まで、全行程1万5000キロ。

 

 世界でも例を見ない史上空前のバイクツアーに参加した16人の「ユーラシア軍団」の面々が、2002年6月28日、伏木港に集結した。

 目指すのはロカ岬!

 我ら「ユーラシア軍団」の最年長は65歳の佐藤賢次さん、最年少は20代の本岡賀生里さん。本岡さんは唯一の女性の参加者だ。

 

 ロシア船「ルーシ号」でウラジオストクに渡り、7月2日、出発。

 シベリア横断の旅がはじまった。

 

「ユーラシア軍団」の17台のバイクには、サポートカーが1台ついた。それには道祖神の菊地さんとメカニックの小島務さん、それとロシア人通訳が乗った。

 ウラジオストクから770キロ北のハバロフスクまでは幹線国道のM60。交通量も多い。

 

 シベリアの大河、アムール河畔の都市、ハバロフスクを過ぎると、幹線国道はプッツンと途切れ、マイナーなルートになってしまう。おまけに豪雨。ビロビジャンという町では濁流が渦巻き、町中で川渡りをした。

 

 ビロビジャンを過ぎると、ダートに突入。ツルツル滑る路面だったが、さすが大陸のダート、荒野をズバーッと突き抜けているので高速で突っ走った。

 100キロのダートを走りきり、23時にオブルチェ着。クタクタになってたどり着いたオブルチェのホテルは一滴も水が出なかった‥。

 

 翌日は中国国境の町、ブラゴベシチェンスクに向かう。そこまで約400キロ。そのうち100キロがダート。

 降りつづく雨の中、前日同様、ツルツルのダートをひた走る。コーナーが怖い‥。

 ノボブレスキーという町を過ぎ、舗装路に変わったときはホッした。 

 

 ブラゴベシチェンスクはアムール川に面している。対岸は中国の黒河(ホイヘ)の町。このブラゴベシチェンスク駅でバイクと車を列車に積んだ。チタまでの約1000キロ、道らしい道がないからだ。

 

 ブラゴベシチェンスクからシベリア鉄道本線のベロゴロスク駅までの列車がよかった。ツンドラの大湿地帯やポプラの防雪林、シラカバ林などを見る。

 

 ベロゴロスク駅からチタ駅までの間では、シベリア鉄道沿いのダートを目をこらして見つづけた。雨がつづくときつそうだが、道の状態とガソリンの問題をクリアできれば十分に走りきれそうな道に見えた。

 

 途中のスコウォロディーノ駅では、特別な感慨に襲われた。この町からはヤクーツクを経由し、はるか遠い、カムチャッカ半島にも近いオホーツク海の港町、マガダンに通じるM56が出ているのだ。

「またいつか、シベリアを走りたい!」

 そのときはハバロフク→チタ間とスコウォロディーノ→マガダン間を走ってみたい。

 

 チタからイルクーツクへ、M55を走る。

 ゆるやかな峠を越える。この峠はオホーツク海に流れ出るアムール川と北極海に流れ出るエニセイ川の水系を分ける分水嶺。海からはるかに遠いシベリアの内陸地だが、海が変わった。ここからはウラル山脈を越えるまで、ずっと北極海とつながった世界を行く。

 

 峠を越えると、はてしなくつづくタイガ(針葉樹)。

 チタから330キロのヒロックで泊まったが、鉄道大好き人間のぼくはシベリア鉄道のヒロック駅に行った。駅構内には木材専用列車、石炭専用列車、コンテナ専用列車など貨物列車が5本も停車していた。そのどれもが60両以上の長い編成。駅前を流れるヒロック川では、大勢の人たちが水遊びをしていた。短いシベリアの夏を謳歌しているようだった。

 

 このヒロック川はモンゴルから流れてくるセレンゲ川に合流しバイカル湖に流れ込む。バイカル湖から流れ出る唯一の川がアンガラ川。それがエニセイ川の本流と合流し、北極海へ。エニセイ川は全長4130キロの大河だ。

 

 ヒロックからモンゴル国境に近いウランウデへ。タイガから大草原へと風景が変わる。緑一色の大草原、黄色い花、白い花の咲く大草原、これはすべて牧草地。あまりの風景の大きさに圧倒されてしまう。

 

 ウランウデからイルクーツクへ。

 その途中でバイカル湖を見た。海と変わらない大きさ。見渡す限りの水平線。M55を外れ湖岸へ。波が押し寄せている。

 こうして7月10日の夕刻、ウラジオストクから2700キロ走り、イルクーツクに到着した。

 

“シベリアのパリ”ともいわれるイルクーツクの町を歩いた。歴史を感じさせる町だ。アンガラ川の川岸に立つオベリスク。「郷土史博物館」を見学したが、シベリアに住む少数民族の生活用具の展示に目がいった。

 

 イルクーツクからはM53を西へ。サヤンスクでひと晩泊まり、シベリア有数の都市、クラスノヤルスクに向かった。

 

 その途中でダート国道に突入。道幅は広い。モウモウと土煙を巻き上げて走るトラックやバス、乗用車とすれ違う。路面の状態はまあまあで、フラットダートなので高速で走れた。ダート区間は何区間かあり、ダートの合計は約80キロ。

「ウラジオストクク→モスクワ」間で唯一のダート国道だった。

 

 クラスノヤルスクに到着。エニセイ川の本流に面している。北極海からは3000キロ近くも内陸に入っているのに、エニセイ川の川幅は1キロ以上もあり、堂々とした大河の風格だ。

 

 クラスノヤルスクからシベリア最大の都市、ノボシビルスクに向かうとすぐに、ゆるやかな峠を越える。その峠がエニセイ川とオビ川の水系を分ける分水嶺の峠。オビ川もやはり北極海に流れ出る川で、全長は3680キロ。

 

 シベリアにはオホーツク海に流れ出るアムール川(全長4353キロ)、北極海に流れ出る3本の川、レナ川(全長4270キロ)、エニセイ川、オビ川という四大河川があるが、こうしてシベリアを横断し、シベリアの大河に出会うたびに、

「今度はシベリア大河紀行をしてみたい!」

 という新たな思いにとらわれた。

 川船に乗れば、シベリアの相当、奥地にまで行けそうだ‥。

 

 オビ川の本流に面したノボシビルスクに到着。ここで見るオビ川も川幅は1キロ以上ある。遊覧船に乗り、オビ川の船旅を楽しんだ。

 ノボシビルスクからはM51でオムスクに向かった。この51はカザフスタンのペトロパウルを経由してウラル山脈の麓の町、チェラビンスクまで通じている。

 

 その途中ではヤマハの1200cc、ロイヤルスターでシベリア横断中の吉田滋さんに出会った。なんという偶然‥。

 

 吉田さんは1966年から68年にかけてヤマハのYDSで「世界一周」した方。そのときぼくは20歳。「アフリカ一周」に出発する直前だった。20以上もの質問事項をノートに書いて、それを持って帰国早々の吉田さんにお会いした。吉田さんはていねいにひとつづつの質問に答えてくれた。当時はバイクでの海外ツーリングの情報が皆無に近かった時代だった。吉田さんに教えてもらったことは「アフリカ一周」にどれだけ役立ったことか。吉田さんは30数年も前のそんな出会いをはっきりとおぼえていてくれたのだ。

 

 吉田さんは大学を卒業するのと同時に「世界一周」に旅立ち、3年あまりの旅を終えるとすぐにヤマハに入社した。ヤマハ一筋で定年退職すると、今回のシベリア横断ルートでの「世界一周」に旅だった。ウラジオストクを出発点にシベリアを横断し、モスクワからはサンクトペテルブルグへ、そしてフィンランドのヘルシンキに向かう。

 

 吉田さんは30数年前の「世界一周」のときにヘルシンキまで行ったが、モスクワまで走ることができずに悔しい思いをした。その悔しさを今、はらそうとしているのだ。

 

 そんな話を聞いてぼくは胸がジーンとしてしまう。吉田さんはヨーロッパからアメリカに渡り、アメリカを横断して2度目の「世界一周」を達成させたいという。20代のときと60代のときの「世界一周」。吉田さんと固い握手をかわして別れた。

 

 オムスクに向かっていくと、カザフスタンの国境近くを通る。南からの熱風に吹かれ、地平線までつづく大草原を見ていると、カザフスタンなどの中央アジアの国々に無性に行ってみたくなる。

 

 チェラビンスクからはM5でウラル山脈に向かっていく。アジア側最後の町ミアスまで来ると、ウラル山脈のゆるやかな山並みがはっきりと見えてくる。峠を目指して登っていく。直線の長い峠道。チェラビンスクから124キロ地点で峠に到達。

 

 そこにはアジアとヨーロッパを分ける碑が建っていた。境の1本の線をまたぎ、

「こっちがアジア、こっちがヨーロッパ」

 と、気宇壮大な気分に浸るカソリだった。

 

 7月25日、モスクワに到着した。

 ウラジオストクからは8652キロ、列車の1000キロを加えると9600キロになる。モスクワからはM1で国境を越えベラルーシ経由でポーランドに入った。

 ポーランドの首都ワルシャワに着いたときは「ヤッター!」と思わずガッツポーズだ。

 

 1990年、ぼくはスズキ・ハスラーTS50で「世界一周」した。そのときはドイツのベルリンからワルシャワまで来た。

 ここではるか東方のモスクワに思いを馳せ、

「いつの日かモスクワまで走ろう!」

 という夢を抱いて南下したのだ。

 その夢を今はたした!

 

 当時は“激動の東欧”といわれた時代。社会主義体制が崩壊し、ワルシャワの町のあちこちに、露天のフリーマーケットができていた。それも今は昔。わずか10年ほど前のこととは思えないほど、ワルシャワの町にはモノがあふれていた。車も新車が目立った。

 

 ポーランドからドイツに入って驚かされたのは、統一通貨のユーロが誕生によって、時代が大きく変わったということ。ヨーロッパがひとつの国になったかのような印象を受けた。金の力はすごい‥。

 

 ドイツ→フランス→スペインと、ヨーロッパ最西端、ポルトガルのロカ岬を目指し、ドイツのアウトバーン、フランスのオートルート、スペインのアウトピスタと、ヨーロッパの高速道路を走りつないだ。

 

 すごいのはやはりドイツのアウトバーン。制限区間以外は速度無制限。DRのアクセル全開で150キロから160キロ走行をしても、左側車線から簡単にピューンと追い抜かれる。間違いなく時速200キロ以上の走行だ。

 

 スペインからポルトガルに入ったところで大西洋を見た。

 ウラジストクで見た日本海以来の海。1万3000キロ以上も走ってやっと海に出た。あらためて「ユーラシア大陸横断」のすごさを思い知らされるのだった。

 

 8月11日15時、我ら「ユーラシア軍団」の憧れの地、ロカ岬に到達した。

 ウラジオストクを出発して41日目。1万4001キロ走ってのロカ岬。シベリア鉄道の1000キロをプラスすればちょうど1万5000キロになる。

 

 シベリア横断の苦しい最中でも、我ら「ユーラシア軍団」の面々は「ロカ岬」を合言葉に耐えてきた。

「ユーラシア軍団」の1人残らず1台残らず、全員が、全車がロカ岬に立てて、ぼくは神に感謝したい気持ちで一杯だった。

 

「ユーラシア大陸横断」は最高におもしろい大陸横断ルート。

 そのゴールに到達してぼくの気持ちは高揚した。

 夢がふくらむ。

 次の「ユーラシア大陸横断」に思いを馳せる。

 次回は中央アジア経由の「東京→ロンドンだ!」とロカ岬で叫ぶカソリだった。

 

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管理人コメント

スゲーの一言。

で、ここでダイジェスト風にまとめられた旅の詳細が、別カテゴリで連載風になっております「ユーラシア大陸横断 Crossing Eurasia 2002」になります。続きをお楽しみに!