賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリと走ろう!(5)「サハリン縦断」

(『ゴーグル』2004年10月号 所収)

 

 2000年8月1日、スズキDJEBEL250GPSバージョンとともに、神奈川県伊勢原市の自宅前に立ったときは、ぼくは体がゾクゾクッと震えるほど興奮した。

 

 それは「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第5弾、「サハリン縦断」出発の朝のことだった。

 

 ぼくは今までに世界の6大陸、130ヵ国をバイクで駆けめぐってきたが、いつも悔しい思いをしてきた。それは島国・日本のハンデに対しての悔しさだった。

 

 たとえばヨーロッパ人ライダーたちは、自宅前をバイクで出発すると、まるで国内ツーリングに出かけるかのような気軽さでジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸へ、またはボスポラス海峡を渡ってアジア大陸へと入っていく。

 ところが我ら日本人ライダーは、バイクとともに海の向こうの世界に渡るのは大変なことなのだ。

 

 だが、ついに、その厚い壁を突破するときがやって来た。

「サハリン縦断」は参加者各人のバイクで走るというもので、稚内に集合し、そのままフェリーにバイクを積んでサハリンに渡るというもの。まさに自宅前から愛車で走り出し、そのまま海を越えて異国へと渡っていくのだ。なんと画期的なことか!

 

 東京から青森までは林道をつないで走った。川俣檜枝岐林道を皮切りに、全部で8本の林道、ダート202キロを走って青森に到着した。青森ではちょうど「ねぶた」の最中。ぼくも「ラッセラー ラッセッラー」と、クタクタになるまで踊った。いや、跳ねた。

 

 北海道に渡ると、函館から根室までは太平洋岸のルートを走った。濃霧の納沙布岬に立ったあと、花咲漁港では港前の店で熱湯でゆで上げた花咲ガニを貪り食った。超ウマ!

 

 根室からは知床半島をまわり、オホーツク海沿いに走り、宗谷岬へ。宗谷海峡の水平線上に霞むサハリンを見たときは、

「待ってろよ! すぐに行くからな!!」

 という気分だった。

 

 東京を発ってから8日目、2800キロを走って稚内に到着した。

 その夜は、一緒にサハリンを走る19名の「サハリン軍団」のみなさんと稚内の森林公園キャンプ場で、飲めや飲めやの大宴会。夜中過ぎまで飲みつづけたが、大宴会がお開きになったときはもう、足腰が立たないくらいのフラフラ状態だった。

 

 翌8月9日、稚内港での出国手続き。パスポートに「WAKKANAI」の出国印を押されたときは感動もの。ここでも厚い壁を突破した気分を味わった。

 

 東日本海フェリーの「アインス宗谷」(2628トン)にバイクを積み込み、乗船。午前10時、船が岸壁を離れると缶ビールの自販機の値段が変わる。税金がかからなくなるので、1本100円で飲めるようになる。その100円ビールを飲みながら、離れゆく稚内を眺めた。

 

 右手にはノシャップ岬。灯台がよく見える。その背後には利尻富士。左手には宗谷岬へとつづく海岸線。雲ひとつないすばらしい天気で、宗谷海峡の海は快晴の空を映し、より青かった。前の日に宗谷岬で見た宗谷海峡。それを「今、渡っている!」と思うと、ものすごい感動がこみあげてくる。

 あまりの感動に100円ビールをたてつづけに飲み干した。

 

 やがて前方にサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。サハリンの島影は次第にはっきりしてくる。そんなサハリンを見ながらコルサコフ港へ。

 

 稚内港から5時間30分の船旅でコルサコフ港に到着。日本時間では午後3時30分だが、日本とサハリンの間には2時間の時差があるので、現地時間では午後5時30分だった。

 

 この「稚内-コルサコフ」の航路は戦前の日本の北への動脈「稚泊航路」に相当する。コルサコフは戦前の日本領時代には「大泊」だった。

 

 コルサコフ港での入国手続きは、なにしろバイクの持ち込みがあるので、「どうなることやら…」と、けっこう不安だった。足止めを食らう覚悟でいた。が、このあたりが「道祖神」のすごさ。菊地さんは札幌に本拠を置く「ポーラスタージャパン」の杉山さんと頻繁に連絡を取り合い、現地の子会社「ユーラシアインタートランス」が事前に万全の手配をしておいてくれたおかげで、至極、簡単なものだった。

 

 さらに驚いたことには、我ら「サハリン軍団」がコルサコフ港に上陸すると、サハリン警察のパトカーが我々を待ってくれていた。州都のユジノサハリンスクまでの40キロは赤青灯を点滅させたパトカーの先導つき。前に2台、後に1台と、まるでVIP待遇。

 

 8月10日午前9時、ユジノサハリンスクを出発。これから先、全行程をパトカーが先導してくれるという。郡単位で警察の管轄が変わるので、郡境で次のパトカーが待っているというリレー方式だ。ユジノサハリンスク交通警察の警官、ジマさんがサポートカーの運転手のボロージャさん、ガイドのワリリさんとともに、全行程を同行してくれる。

 

 ユジノサハリンスクの市街地を抜け出ると、北海道をさらに広くしたようなサハリンの大地が広がる。ぼくが先頭を走り、そのあとに18台のバイクがつづく。バックミラーをのぞき込むと、一列になったバイクが長い、長い線を描いている。

 

 オホーツク海の砂浜に出たところで昼食。若干、酸味のあるロシアの黒パンにチーズ、ハム、チキン。北海道へとつづく海を眺めながらの食事は感動もの。

「つい、何日か前には同じ海の北海道側を走っていたのだ…」

 と思うと、何か、すごく不思議な気分になってくる。

 

 ユジノサハリンスクから100キロほど北にいくと、舗装は途切れ、ダートに入っていく。先導のパトカーの巻き上げる土煙りがものすごい。あっというまにぼくもバイクも埃まみれだ。

 

 その夜はユジノサハリンスクから300キロ北のポロナイスクに泊まり、翌日、憧れの北緯50度線を越えた。

 

 かつての日本とロシアの国境の北緯50度線を越え、北サハリンに入ると、真夏だというのにバイクで切る風は冷たさを増す。そこはツンドラの世界。

 

 夏のツンドラはただの草原にしか見えないが、バイクを停め、一歩その中に入ると、ズボズボッともぐってしまう。水を吸ったスポンジの上を歩いているようだ。

 

 ティモフスク、ノグリキと泊まり、サハリン最北の町、オハまでやってきた。

 この町はサハリン沖の海底油田開発の拠点になっている。石油関連の工場や施設、ガスを燃やす炎を噴き上げる製油所などが「石油の町オハ」を強く感じさせた。

 

 サハリンの道はオハからさらに北につづく。

 シュミット半島に入り、コリンドという小さい町を通り、オハから80キロ行った地点で尽きた。コルサコフから1085キロ。そこからは夕日を浴びた丘陵地帯の向こうに、サハリン最北端のエリザベート岬が見える。右手の海はオホーツク海、左手の海はダタール(間宮)海峡だ。我ら「サハリン軍団」はサハリン最北端の岬に向かって万歳し、

「ハラショー(すばらしいの意味)!」と何度も絶叫。

 はるか遠くのエリザベート岬を見ていると、「もっと北へ、もっと、もっと北へ」という衝動にかられてならなかった。

 

 ぼくは今までに世界の130ヵ国を駆けめぐってきたといったが、バイクでまわるのが一番難しいのは日本の近隣諸国の東アジアである。日本からは韓国、中国、台湾にフェリーが出ているが、そのどれにもバイクは乗せられない。ほとんど不可能といってもいい。日本から大勢の観光客がこれらの国々に押しかけているが、バイクでまわるとなると、まったく事情が違ってくる。

 

 唯一、「サハリン縦断」の稚内からサハリンのコルサコフへ、新潟、伏木(富山)から沿海州のウラジオストックへと、近年、ロシアへのフェリーには乗せられるようになっている。だがそれも、そう簡単なことではない。

 

 ぼくは20代のころはアフリカを中心に世界をまわったが、日本の近隣諸国はいつでもまわれるという頭があったので「東アジア」はあとまわしになった。東アジアがあとまわしになったもうひとつの理由というのが、これらの地域にはバイクだときわめて行きにくいという事情があったからである。

 

「よーし、今だ!」

 と、その気になったのは2000年になってからのこと。今が東アジアをまわるときだと自分の血の流れに熱いものを感じ、「サハリン縦断」を実現させた。初めてアフリカをまわったときから30年以上がたっていた。

 

「サハリン縦断」から戻るととすぐに、9月には同じDJEBEL250GPSバージョンで東京から下関まで走り、関釜フェリーで釜山へ。釜山を拠点に「韓国一周3000キロ」を走った。韓国政府から特別な許可を得ての「韓国一周3000キロ」だった。

 

 2001年にはBMWのR1150RTの新車で、朝鮮半島の南北分断後では初となるソウル発の「北朝鮮ツーリング」を成しとげた。

 

 2002年にはスズキDR-Z400Sでウラジオストックを出発点にし、中国国境スレスレに走ってシベリアを横断し、欧亜を分けるウラル山脈を越え、ヨーロッパ最西端ポルトガルのロカ岬までの「ユーラシア大陸横断1万5000キロ」を走った。

 

 2003年には中国製のスズキGS125で中国・東北部(旧満州)の瀋陽を出発点にし、鴨緑江河口の丹東から図們江(朝鮮名 豆満江)の河口まで、中国・北朝鮮国境を走った。その途中では中国・北朝鮮国境の聖山、長白山(朝鮮名 白頭山)に登り、山頂に立った。

 2004年には、やはり瀋陽を出発点にし、旧満州の中国・東北地方を一周した。

 

 あとまわしになった「東アジア」へのぼくの想いには、ものすごく熱いものがある。

「サハリン縦断」で国境の厚い壁をぶち破ったことによって2000年は、ぼくにとってまさに「東アジア元年」になったのである。