賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの峠越え(3) 九州編(その3):筑肥山地の峠 (Crossing Ridges in Japan: Kyushu Region)

 (『月刊オートバイ』1996年8月号所収)

 

 福岡・佐賀県境の背振山地の峠越えを終えたあとは、久留米近郊の長門石温泉に泊まった。“筑紫次郎”と呼ばれる九州第一の大河、筑後川河畔にある温泉だ。

 

 翌日(1995年12月14日)は久留米を出発点に南下し、矢部谷峠を第1番目とし、猿懸峠、小栗峠、陣座峠‥‥と福岡・熊本県境の筑肥山地の峠を越えた。筑肥山地は筑後と肥後国境の山地。その東端は筑後、肥後、豊後の3国境の三国山。

 

 筑肥山地はさらに東へ、阿蘇の北麓へとつづいているが、福岡・熊本県境の峠のあとは、大分・熊本県境の穴川峠や兵戸峠を越えるのだった。

 

 

温泉宿での至福の時

 一晩泊まった長門石温泉は、久留米の中心街からわずかに1キロほどで、筑後川を渡ったところにある。久留米から、こんなに近いところに温泉があるとは知らなかった。佐賀県との県境スレスレの福岡側にある「久留米リバーサイドパレス」に泊まった。

 

 泡湯や打たせ湯、サウナもある大浴場の湯にたっぷりとつかったあとの、キューッと飲むビールがうまい。1日、オートバイで走りまわり、温泉宿に泊まり、湯上がりに冷たいビールを飲む‥‥、もう、これ以上、人間何を望むことがあるのだろうか‥‥と思ったほどの至福の時なのだ。それは、今、自分が生きていることを思いっきり感謝したくなるほどの喜びだ。

 

「久留米リバーサイドパレス」は1泊2食6500円と、温泉宿としてはきわめて安かったが、夕食には刺し身やカニフライ、茶碗蒸し…のほかに湯豆腐がつき、なかなかよかった。

 

 夕食を食べ終わると、部屋に地図を広げ、明日、走ろうと思っているコースを目で追う。これがまた、楽しい時なのだ。地図を見終わると、今度はもっと時間をかけて大浴場のにどっぷりとつかった。

「ツーリングには、やっぱり、温泉だねー!」

 

 

筑肥国境の矢部谷峠

 翌朝は朝風呂に入り、早めにしてもらった朝食を食べ、7時30分に「久留米リバーサイドパレス」を出発。峠越えの相棒のスズキDJEBEL200のエンジンをかけ、走り出す。朝もやにけむる筑後川を眺めながら、堤防上の道を走る。大河を眺めながら走るのは、すごく気分のいいものだ。

 

 九州第一の大河、筑後川は、今でこそ、すっかりおとなしくなってしまったように見えるが、かつては大変な暴れ川だった。

 

 天正元年(1573)から明治22年(1889)までの316年間の洪水の回数は、なんと183回も記録されている。2年に1度は洪水に襲われたことになる。大雨のたびに、筑後川はあちこちで氾濫し、流域に住む人たちは、洪水との戦いに明け暮れた。

 

 筑後川の大河の風景を目に焼き付けたところで、川を渡って久留米の市街地に入っていく。JR久留米駅前でDJEBELを止め、自販機でカンコーヒーを買って飲む。それが、いつもながらの峠越えの出発の儀式のようななのだ。

 

 国道3号に入り、八女へ。古い家並みの残る八女の市街地を走り、県道4号で熊本との県境の矢部谷峠に向かっていく。矢部川を渡ると前方に連なるゆるやかな山並みは、その姿をはっきりとさせてくる。このあたりが筑肥山地の西端になる。

 

 筑肥山地に入り、ゆるやかな峠道を登り、福岡・熊本県境の矢部谷峠に到着。峠には、古い時代の県界標が立っていた。それには、

「至福岡 十七里二十五丁」

「至熊本 十三里十七丁」

 と、彫られていた。昭和4年のものだ。今でこそ、通る車も少ない、忘れられたような峠だが、かつては国道3号で越える小栗峠と同じように、福岡と熊本を結ぶ幹線になっていた。

 

 筑肥山地の峠を境に、九州も、世界ががらりと変わる。

 その北が“筑紫の国”で南が“火の国”になる。なぜ“火の国”なのか、その起源はよくわかっていないが、大火山の阿蘇があるので、そこからきているのだろう。

 

“火の国”は、後に“肥の国”になり、それが肥前と肥後に分かれた。肥前は今の佐賀県と長崎県で、肥後が熊本県になる。矢部谷峠は筑肥国境の峠ということになる。

 

 福岡県から熊本県に入ると、福岡県道4号は、今度は熊本県道4号になる。ゆるやかな峠道を下っていくと国道443号にぶつかり、山鹿に出た。

 

 

猿懸峠から小栗峠へ

「さあ、温泉めぐりだ!」

 山鹿はあまり知られていないが大変な温泉町で、なにしろ湯量が膨大。九州では別府、由布院、指宿、大分に次ぐ湯量を誇っている。

 

 第1湯目の山鹿温泉では市街地の中央にある市営の共同浴場に入る。つづいて第2湯目は、同じく山鹿の市街地にある熊入温泉。第3湯目は山鹿近郊の平山温泉。第4湯目も同じく山鹿近郊の三加和温泉。これら3湯も、すべて、共同浴場。山鹿温泉から三加和温泉までの4湯の共同浴場は、どこもいい湯だったが、入浴料は130円~150円で、すごく安いのだ。うれしくなるではないか。温泉はこうでなくては!

 

 短い距離の間で、4湯の温泉に連チャンで入ったので、けっこう湯当たりがひどい。足がふらつき、心臓の動悸が激しくなった。

 

 三加和温泉の共同浴場を出ると、火照った体でDJEBELに乗り、筑肥山地の猿懸峠に向かっていく。それはまさにダンプ街道。腹がたつほど、ダンプが我がもの顔で走っている。峠下に大きな砕石場があるからだ。

 

 猿懸峠下が、猿懸の集落。峠名はそこからきているのであろう。筑肥山地の山中に入り、砕石場の前を通り、猿懸峠に到着。福岡・熊本県境の峠。峠を越えるとすぐに国道3号にに出た。 

 

 国道3号で山鹿へ。3番目の峠の小栗峠を越える。福岡・熊本県境の標高150メートルの峠。この小栗峠は昔も今も、筑肥を結ぶ重要な峠になっている。ここにも矢部谷峠にあったのと同じ県界標が立っている。小栗峠を越えた熊本側の峠下の集落、鹿北町の三楠には昔は関所が置かれていた。

 

 九州の幹線の国道3号だが、このあたりはそれほど交通量は多くない。バックミラーで白バイ、パトカーに十分に気をつけ、勘を鋭くして“一斉”にも気をつけ、一気に山鹿まで走った。山鹿は今回の峠越えの拠点だ。

 

 

筑豊国境の竹原峠

 山鹿の食堂で昼食を食べ、パワーをつけたところで、筑肥山地の峠越えの後半戦の開始。国道3号で鹿北まで戻り、陣座峠を越える。福岡・熊本県境の峠。福岡側は黒木町になる。峠周辺はスギやヒノキに植林地。その中にカラスウリの赤い実が成っていた。その「赤」がひときわ目立った。

 

 陣座峠を下ると、矢部川を渡り、国道442号に出る。矢部川に沿いの、筑肥山地の北側を走る国道だ。黒木の町を通り過ぎたところで国道を右折し、鹿牟田峠を越える。この峠も、福岡・熊本県境の峠。矢部谷峠や小栗峠と同じように、ここにも県界標が立っている。鹿牟田峠を下り、さきほどの陣座峠への道と合流し、鹿北に戻った。

 

 福岡・熊本県境の最後の峠は、星原山の西側にある星原峠。峠下の熊本側の集落も星原。九州では“原”を“はる”とか“ばる”と読む地名が多いが、この星原峠は“ほしわら”。 星原峠を越えるとすぐにもうひとつの峠、根引峠を越えて国道442号に下っていくが、この根引峠は福岡県内の峠で、黒木町と矢部村の境になっている。

 

 国道442号で竹原峠へ。山深い風景。矢部を通り過ぎ、かなり登ってところが竹原の集落。そこから福岡・大分県境の竹原峠まではわずかな登り。竹原峠の“原”は“はら”と読む。

 

 標高720メートルの竹原峠は筑後と豊後の境。筑豊国境の峠ということになる。筑紫の国が筑前と筑後に、肥の国が肥前と肥後に分かれたように、豊の国が2つに分かれて豊前と豊後になった。

 

 竹原峠の北には、矢部川の源の釈迦ヶ岳(1231m)、南に三国山(994m)。三国山は、筑後、肥後、豊後の3国境になる。このような3国境の三国山は日本各地にある。とくに西日本に多い。

 

 竹原峠を下ると、中津江村の鯛生。ここには地底博物館がある。鯛生といえば金山で有名だ。この鯛生金山の発見は比較的新しく、明治31年(1898)のこと。昭和初期には日本最大の金山になり、従業員が1000人を超える一大鉱山町になった。だが、資源の枯渇で、昭和40年代には閉山。その金山跡が地底博物館になっている。

 

 

豊肥国境の峠越え

 中津江村の鯛生からは、阿蘇外輪山の尾ノ岳へとつづく山並みの峠を越える。宿ヶ峰尾峠、穴川峠、兵戸峠の3峠あるが、これらの3峠は大分・熊本の県境、旧国でいうと、豊肥国境の峠ということになる。

 

 まず最初は、宿ヶ峰尾峠。峠には宿ヶ峰尾不動尊がまつられている。峠名はこのお不動さんに由来しているのだろう。そこは、また、三国山の登山口にもなっている。

 

 宿ヶ峰尾峠を下ったところで、温泉めぐりの第2弾目の開始だ。合瀬川温泉、菊鹿温泉と2湯に連続して入り、菊池では、菊池温泉の湯に入った。

 

 菊池から北へ。穴川峠に向かっていく。すごい2車線の道がズバーッと豊肥国境の山々に向かって延びている。竜門ダムのわきを通っていくのだが、それはダム建設でつくられた、つけ替えの道路だった。

 

 峠下の集落が穴川。峠名はこの穴川の集落名からきているのだろう。夕暮れの峠道を登っていく。幾重にも重なりあった山々が、暮色につつまれていく。

 

 穴川峠の峠道は、おもしろく走れる。ちょうどいいコーナーが連続している。キューン、キューンとコーナーをクリアしていく。豊肥国境の穴川峠を越える。さきほどの宿ヶ峰尾峠への道と合流し、金山跡の鯛生へと下っていった。

 

 鯛生から、最後の峠越え。国道442号を行き、中津江村役場の前を通り過ぎると、国道387号にぶつかる。今度はその国道387号を南下し、兵戸峠に向かう。あたりはすっかり、暗くなっている。夜の峠越え。ライトの明るいDJEBELなので助かる。

 

 豊肥国境の兵戸峠は標高680メートル。峠のトンネルを走り抜け、熊本県に入り、菊池へと下る。山地を抜け出たあたりで、パーッと、菊池の町明かりが目の中に飛びこんできた。目の底に残るシーンだ。

 

 菊池からは、国道325号で山鹿へ。今日、3度目の山鹿になる。山鹿で国道3号に入り熊本へ。“温泉命”のカソリ、その途中では、宮原温泉と植木温泉の2湯に入った。熊本の温泉は、どこも入りやすい。共同浴場にかぎらず、温泉旅館でもそうなのだ。

 

 

天下の名城、熊本城!

 国道3号で夜の熊本の町に入っていく。熊本といえば、なんたって、熊本城。天下の名城だ。スーッとそそり立つ石垣はじつに美しい。肥後54万石の熊本城は、関ガ原の合戦後、加藤清正が7年の歳月をかけて、慶長12年(1607)に完成させた名城だ。

 

 壮大な天守閣を持った城で、大天守(一ノ天守)、小天守(二ノ天守)、三ノ天守とあったが、明治10年の西南の役で城の大半が焼けてしまった。大天守、小天守は昭和35年に再建されたもの。類焼をまぬがれた三ノ天守の宇土櫓が、昔の面影をとどめている。

 

 熊本人にとっての加藤清正は、いまだに胸の中に生きつづけている英雄だ。そのあたりは、甲州人にとっての武田信玄に似ているところがある。

 

 加藤清正といえば武勇で知られているが、国を治める能力も大変なもので、とくに熊本平野の治水や有明海の干拓には力を入れた。そのあたりが、いまだに評価されている理由なのだろう。地名を隈本から熊本に変えたのも清正だ。

 

 だが、加藤氏の肥後支配は長くはつづかなかった。慶長16年(1611)の清正の死後、わずか20年で終わりを告げてしまう。つまらない落ち度を口実に、肥後54万石が没収されてしまう。加藤氏は徳川家康にとっては、目の上のたんこぶのようなものだった。

 

 そのあと熊本に入ってきたのが小倉藩39万石の細川氏。その支配は幕末までつづいた。 熊本到着の時間が遅かったので、すでに城門は閉まり城内には入れなかった。だが、城のまわりを歩くだけでも、十分に熊本城のすばらしさを堪能できた。ライトアップされた夜の城というのも、なかなかいいものである。

 

 熊本城を後にし、JR熊本駅に行き、そこを今回のゴールにする。駅近くの郷土料理店で、熊本の名物料理の馬刺しを食べ、熊本駅から10キロほどの菊南温泉で1晩、泊まるのだった。