賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

第3回 三角線の終着駅・三角駅から天草、島原へ!

 (JTB『旅』2004年1月号所収)

さあ、歩くゾ!

 旅は出発までのプラニングが楽しい。今回の「終着駅から始まる旅」にしてもそうだ。『旅』編集部でIさん、Tさんと九州の地図を広げ、JR三角線の終点、三角駅と、島原鉄道の終点、加津佐駅をどのように繋いでまわろうかとプラニングしているときは、夢が自由自在に頭の中を駆けめぐり、胸がわくわくするほどの至福の時だった。地図を繰り返し眺め、徒歩、バス、船、フェリーを使って2つの終着駅を繋ごうという旅のプランが完成したときは、「やった!」という気分。それをもとに熊本に飛んだ。

 熊本駅から三角線に乗って終点の三角駅へ。三角駅に降り立ったときは、終着駅というだけで、何か胸にジーンとこみ上げてくるものがある。さっそく駅前から歩き始めた。「歩けるところは歩くんだ!」というのが今回の旅の基本。国道266号で天草へ。天草五橋の1号橋の天門橋を渡る。橋の中央まで来たところで、三角から島原に向かうフェリーが橋の下を通り過ぎていった。

 天草諸島の玄関口、大矢野町の大矢野島に入ると、ひたすら国道266号を歩く。島とは思えないほどの交通量の多さ。歩道が整備されていないので、スレスレに通り過ぎていく車に何度となくヒヤッとさせられた。

 大矢野島の南端まで来ると、天草五橋の2号橋、3号橋、4号橋と次々に渡り、天草松島の前島へ。松島温泉の国民宿舎「松島苑」に泊まった。三角駅前からここまで約18キロ。足の裏にはマメができていた…。

 さっそく4階の展望風呂に駆け登り、浴室から夕日に染まった天草松島の島々を見た。ここは日本三大松島のひとつ。夕日を売り物にしている「松島苑」だけあって、大きな夕日が天草松島に落ちていくシーンは圧巻。夕食もよかった。タイの塩焼きと刺し身が出たが、塩焼きはぎゅっと身がしまり、刺し身はコリコリッとした食感。いかにも海の幸の宝庫、天草を感じさせる鮮度のよさ。さらに1000円プラスで生と塩焼きのクルマエビを食べたが、これがまたよかった!

文字通りの「カニ丼」

 翌朝、「さー、今日も歩くゾ!」と気合を入れて出発。天草五橋の5号橋、松島橋を渡って天草上島に入り、松島町合津の国道266号と324号の分岐点では左折し、国道266号を行く。交通量がぐっと少なくなる。歩道が広くなり歩きやすくなる。おまけに天気も前日にひきつづいての快晴なので、鼻唄まじりの徒歩旅だ。八代海の海岸に出ると、さらに交通量は減った。八代海には小島が浮かび、その向こうの九州本土は水平線のかなたにボーッと霞んでいる。

 松島温泉から約20キロを歩いて姫戸に到着。足のマメはさらに大きくなっている。痛い…。「甲ら家」で昼食。ここでは天草名産のガザミを食べさせてくれる。ガザミとはワタリガニのこと。メニューを見て「カニ丼」を注文した。「カニ丼」とは「いったいどんなものなのだろう」と興味津々。出てきた「カニ丼」には目を奪われた。薄紅色のガザミの大きな甲羅が丼飯を覆い隠している。その甲羅を取ると、身がたっぷりのカニの足や菜類のてんぷらが丼飯の上にのっていた。「カニ丼」とはカニ天の天丼のこと。それにカニグラタンとカニの味噌汁がついていた。

 姫戸からは船で本渡に向かう。1日2便しかない船なので、乗り遅れないようにと、すこし早めに港に行った。すると定刻よりも前に、「ボーッ」と汽笛を鳴らし、白い高速船が港内に入ってきた。それを岸壁に立って見ていたが、高速船はくるりと向きをかえると、そのまま防波堤の向こうの港外へ出てしまうではないか。あわててふためいて、「おーい、おーい」と大声を張り上げ、思いきり手を振った。すると高速船はふたたび港内に戻り、姫戸港の浮き桟橋に接岸した。

 ところがそれは三角行きの船。船長は「船に乗るときは桟橋まで降りて合図するんだよ」とムッとした口調でいう。ぼくは「すいません、すいません」を連発した。船はすべての港に接岸するものだとばかり思っていたが、乗客のいない港ではそのまま素通りしてしまうとのこと。船長に迷惑をかけたが、これで船の乗り方がわかった。

島迷路に迷い込む

 三角行きの船が出るとまもなく本渡行きの高速船がやってきた。今度はその船に向かって大きく手を振った。だが、それは必要ないことだった。八代から来た船で、買い物帰りの人たちや高校生など何人かの乗客が降りたからだ。

 この船旅では、日本有数の群島、天草諸島を十分に実感した。次々と港に立ち寄っていくが、船内アナウンスもないので、地図とにらめっこでそれらの港を確認していく。島と島が重なりあった天草諸島、島の切れ目がなかなかわからずに、頭の中がこんがらがってくる始末。まるで巨大な「島迷路」に迷い込んだかのようだ。そんな迷路の中で絶好の目印になったのが、們島と樋島、御所浦島と牧島を結ぶ2本の橋だった。

 この船は人だけでなく荷物も運ぶ。途中の港では家の建築資材が下ろされたり、本渡の魚市場に送られる鮮魚類が積み込まれたりする。出港間際に宅配便の軽トラックがやってきて荷物を積み込むこともあった。島々を結ぶこの船はまさに天草の足になっている。

 最後に御所浦島の御所浦港に寄り、本渡港に向かう。その間でもいくつもの島々を見る。ここはまさに日本の多島海。天草諸島には全部で120余もの島々がある。「姫戸→本渡」の2時間あまりの船旅では、心ゆくまで「アイランド・ウオッチング」を楽しめた。

2度3度、海を越えて…

 本渡でひと晩泊まり、翌朝はバスで鬼池港へ。そこからフェリーで島原半島の口之津港に渡った。口之津は南蛮船渡来の地として知られているが、かつては南蛮貿易でおおいに栄え、キリスト教布教の中心地にもなった。海から入っていくと、口之津がよくわかる。南蛮船が入港するのには絶好の入江。キリシタン大名の有馬氏は永禄5年(1562)に口之津港を開き、ここを南蛮貿易の拠点にした。イエズス会の本拠地もここに置かれた。

 口之津港から島原鉄道の終点、加津佐駅まで歩き、諫早行きに乗った。1両のジーゼルのワンマンカー。カラフルな黄色い車両で、「島原の子守唄」のシンボルマークが描かれている。列車は島原湾に沿って走る。きらめく海の向こうの天草がよく見える。原城駅の海側には島原の乱で天草四郎らがたてこもった原城跡が、有家駅の近くにはキリシタン史跡公園がある。

 深江駅に近づくと、雲仙岳の平成新山がものすごすごい迫力で車窓に迫ってくる。焼けただれた山肌に樹木はない。島原駅に近づくと、今度は眉山が異様なほどに大きく見えてくる。日本の災害史上、最大級の被害をもたらした寛政4年(1792)の大爆発で、眉山は原型をとどめないほどに吹き飛び、崩壊した。火山と戦ってきた島原の壮絶な歴史を車窓の風景に垣間見た。

 島原駅に到着。島原城を模した駅舎の前には「島原の子守唄」の像が建っている。「おどみゃ 島原の…」と「島原の子守唄」を口ずさみながら島原を歩き、島原城へ。資料館になっている島原城を見学し、天守閣からは島原をとりまく四方の風景を眺めた。島原の風景を目に焼き付けたところで、通りの中央を水路が流れる武家屋敷街を歩いた。

 島原からはフェリーで三角に渡る。フェリーの甲板で三角名物の「甘鯛ちくわ」をかじりながらカンビールを飲んだ。離れゆく島原半島。雲仙岳の中央には平成新山。眉山は一番東側の山になる。目の向きを変え、進行方向左側の金峰山を見る。大きな目立つ山並みで、まるでポッカリと浮かぶ島のように見える。この金峰山の向こうが熊本の市街地になる。前方には宇土半島と天草の山々が切れ目なくつづいている。空には一片の雲もない。西の空に傾いた日を浴びて、島原湾をとりまくそれら四方の山々は光り輝いていた。

 フェリーは島原湾から宇土半島と大矢野島の間の狭い水路に入り込み、天草1号橋の天門橋の下をくぐり抜け、三角駅前の三角港に到着。島原から1時間の船旅。終着駅のその先を目指した旅だったが、最後はまた終着駅に戻ってきた。