海を渡った伊万里焼を追って(4)
(『海を渡った日本の焼きもの』1985年・ぎょうせい、所収)
マカオに行ったあと、次にマレーシアに飛んだ。首都クアラルンプールからは乗り合いタクシーに乗って、マラッカ海峡に面した古都マラッカへ。緑濃い密林とゴム園、熱帯の強烈な赤色土壌のなかを5時間ほど走り、マラッカに着いた。
マレー半島とインドネシアのスマトラ島の間のマラッカ海峡は、南シナ海とインド洋を結ぶ要衝と呼ぶにふさわしい海峡。マラッカはマカオがそうであったように、東洋と西洋を結びつける古くからの港町であった。
マラッカは15世紀にはすでに港町として繁栄を謳歌していた。当時、カイロ、メッカ、アデン、ホルムルズ、アルメニア、グジュラート、ゴア、マラバル、ベンガル、セイロン、スマトラ、ジャワ、シャム、カンボジア、中国などから商人が集まっていた。トメ・ピレスの『東方諸国記』によれば、84もの異なる言葉がマラッカでは話されていたという。 マラッカが東西貿易の拠点としてヨーロッパの支配下に入ったのは、16世紀になってからのことである。最初にやってきたのはポルトガルだった。
1511年、総督アルバケルケによって率いられたポルトガル軍はマラッカを占領し、東洋進出の拠点にした。その時代に築かれたサンチャゴ砦の一部がいまも残されている。だが、それだけではない。マラッカ郊外のマラッカ海峡に面した一角には、いまでも「ポルトガル人村」があり、ポルトガル人の血を引く1000人ほどの人たちが住んでいる。
「ボン・ディア(こんにちは)」
「オブリガード(ありがとう)」
といったカタコトのポルトガル語が、いまもこの村では通用するのだ。
1641年になると、マラッカはオランダの支配下に入った。この時期は日本が鎖国に入ったころで、マラッカ川河口のマラッカ港には、三色旗をなびかせたオランダの商船が盛んに出入りした。ただし、オランダ商船の日本への往来はバタビアを基地にしたもので、マラッカとの直接の関係は記録上ではみられない。
18世紀後半になると、オランダ東インド会社の衰退に合わせるかのように、オランダのマラッカ支配は弱まった。すると今度はオランダに変わってイギリスの勢力が進出してきた。
このように、東西貿易の拠点マラッカをめぐって、ポルトガル→オランダ→イギリスというめまぐるしいヨーロッパ勢力の変遷があった。マラッカ川の流れは、そんな時代の移り変わりを見つづけてきた。