賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(3)長崎のチャンポン

 長崎といえば、日本の、西に向けた玄関口。特急「かもめ」で長崎駅に着くと、まずは稲佐山に向かった。

「高い所から見下ろす」

 それは、町を見るときの基本だ。

 ロープウェーで稲佐山に登った。標高は332メートルだが、海からスーッとそそり立つ山なので、それ以上の高さに見える。山頂からは、長崎が一望できる。

 思わず息を飲み込むほどの、すばらしい眺め!

 眼下には奥深くまでも切れ込んだ海。それが長崎港だ。“天然の良港”の言葉がぴったりで、いかにも深そうな海だ。

「鶴の港」の名前どおり、鶴が大きく羽を広げたような形をしている。足もとの海岸には、林立する三菱造船所のクレーン。鉄を打つ音やサイレンの音が、山肌を這い上がって聞こえてくる。

 五島列島に向かう連絡船の汽笛。魚市場、漁港岸壁にずらりとならんだトロール漁船。稲佐山の山頂に届く音や、山頂からの風景は、まさしく港町・長崎そのものであった。

 7つの丘に囲まれた長崎の町。平地はほとんどない。わずかに浦上川沿いに、細長くのびた平地がある程度だ。長崎駅や繁華街の浜町周辺にビルが集中し、その背後の丘の斜面には、びっしりと家々が建ち並んでいる。三方を山に囲まれ、残る一方を海に向けた長崎をとりまく地形が、稲佐山の上からだとよくわかるのである。

 長崎港の出口には、大小いくつかの島々が浮かび、その向こうには、東シナ海の大海原が広がっている。その海はさらに、南シナ海、マラッカ海峡、そしてインド洋、大西洋へとつづいている。

 江戸時代、鎖国していた日本が、中国やオランダを通じて世界に開いた唯一の窓、それが長崎!

「あの海を越えて唐人船が、南蛮船が、紅毛船(オランダ船)が、長崎にやってきた…」

 そんな感慨が胸にこみあげてきて、私はなかなか稲佐山の山頂を立ち去ることができなかった。

 カステラ、べっ甲細工、ビードロ細工、唐人館、唐寺、オランダ坂、洋館、天主堂、石橋…などと、異国の風一色に染めあげられた感のある長崎の町は、どこを歩いてもエキゾティズムに満ちあふれている。それを求めて、大勢の人たちが長崎にやってくるというのも、もっともなことだとうなずける。

 私も長崎の異国情緒にたっぷり浸りながら、町を歩いた。だが、テクテク、テクテクと自分の足で歩いた長崎で、それ以上に強く心に残ったのは、各町々にある市場だった。

 いくつもある市場のなかでも、築町市場には、数日間の長崎滞在中に、何度となく足を運んだ。築町市場は、東京でいえば銀座に相当する浜町から、電車通りを一本渡ったところにある。私は市場に、長崎人の生活のにおいをかぎにいったのである。

 長崎に行ったのは、夏だった。

 築町市場の朝は早い。

 夜が明けてまもない5時には、長崎から山ひとつ越えた茂木からやってきたおばさんたちが公設市場の周辺に露店を出し、生きのいいエビやアナゴ、グチ、タチウオなどを並べて売っている。

「なにか、いらん」

「こうてねー」

 とりたてのザッコエビ(サイマキエビ)を、早起きしてでも買いにくる人たちが、けっこういるというのだ。おばさんたちはそのような買い物客に声をかけている。

 茂木といえば、千々石湾(橘湾)に面した港町で、天草航路の船が出ている。背後の山の斜面は段々畑になっており、特産のビワが栽培されている。

 こうして5時前後に店を出しているということは、夜中の2時、もしくは3時に家を出て、商品をとりそろえ、そして夜明けの築町市場にやってくるのだろう。働き者の日本女性の典型を、おばさんたちの姿に見るような思いがした。

 6時を過ぎると、公設市場内の店々が開きはじめる。

 魚市場から仕入れたばかりのタイやカレイ、ブリ、タコ、イカ、ワタリガニなどの新鮮な魚介類が鮮魚店の店頭に並ぶ。

 サメ肉の湯びきを売る店もあった。長崎では、サメのことをフカと呼んでいるが、肉は一種独特のくさみがある。また、それがいいのだろう。表面は、いわゆるサメ肌で、ザラザラしている。ザラつきをとるために、湯に浸してやわらかくし、タワシでこそぐ。それを3ミリほどの厚さで筒切りにし、沸騰している湯の中に通し、すばやく冷たい水で冷やしたものがフカの湯びきである。新鮮なものはくさみが少なく、酢味噌で食べるのが一般的だという。

 やがて鮮魚店につづいて、乾物店、精肉店、青果店、雑貨店などの店が開きはじめた。

 長崎滞在中は“長崎の味”を求めて食べ歩いた。

 まずは「吉宗」の茶碗蒸しと蒸しずし。看板どおりにすごかった。

 浜町にある「吉宗」は、創業が慶応2年(1866年)という老舗だが、茶碗蒸しと蒸しずしを名物にしている。

 大きなどんぶりで出てくる茶碗蒸しには、同じような大きさのどんぶりで出てくる蒸しずしがつきもので、両者を合わせて“夫婦蒸し”と呼んでいる。セットになった夫婦蒸しを食べに、わざわざ長崎にやってくる人もいるくらいだ、

 茶碗蒸しの具は、アナゴや白身の魚、鶏肉、シイタケ、キクラゲ、ギンナンなど。

 まず、よくかきまぜた卵の中にだし汁を加えて卵汁をつくる。次に、どんぶりにさきほどの具を並べ、卵汁をかけ、その上にかまぼこと焼き麩をのせ、蒸し器に入れる。蒸しあがる途中で、ミツバを添える。このように、ボリューム満点の茶碗蒸しなので、それだけてお腹がいっぱいになるほどだ。

 また、対になる蒸しずしは、かために炊いたご飯に酒と塩で味付けをしただし汁をふりかけてよく混ぜ、さらに甘辛く煮付けたタケノコ、ゴボウを細く刻んで混ぜる。どんぶりにそれを盛り、30分ほど蒸したあと、上に錦糸卵、でんぶ、刻んだアナゴをのせ、もう一度蒸す。錦糸卵の黄色、でんぶの桜色、焼きアナゴの茶色と三色の配色が色鮮やかで、味のみならず、目でも楽しめる料理なのである。

 長崎の味で忘れることができないのが卓袱(しっぽく)料理。

 中華料理に、南蛮(ポルトガル)風、紅毛(オランダ)風西洋料理の技術を加えてできあがった日本料理、といったところであろうか。和洋中折衷の、まさに長崎らしい味覚である。

 丸い膳に乗った料理を、小皿に取り分けて食べる、料理は大鉢、中鉢、小菜盛、ご飯、煮物、水菓子、最後に梅椀(おしるこ)とつづく豪華なものだ。

 卓袱料理は、今ではすっかり料亭の料理になってしまったが、もともとは家庭で客をもてなす料理であった。めいめいの膳に別々に盛るのではなく、大きな食卓の上に、全員の分を料理別の皿に盛り、各人が小皿で取り分けて食べる中国風の食べ方は、鎖国をしていたころの日本ではさぞかし珍しい、異国の料理、異国の食習慣に見えたことであろう。

 卓袱とは中国語で卓にかける布、つまりテーブルクロスのことだというが、外来の文化をたくみに日本のものにしてしまう日本人のすごさを卓袱料理にも見ることができるのである。

 さて、あれこれ食べ歩いた結果だが、長崎の味といえば、やはり長崎チャンポンだ。

「ビールと日本酒、ウィスキーをチャンポンに飲んだから、ひどい二日酔いだよ…」

といった具合に、チャンポンは何でもかんでも一緒くたに混ぜ合わせるという意味の日本語にさえ、なっている。

 長崎はさすがにチャンポンの本場だけあって、「チャンポン」の看板をあちこちで目にする。

 このチャンポンの語源、また料理の起源だが、その説にはいろいろとあるようだ。だがチャンポンという料理は長崎からはじまったのは間違いない。

 私が聞いた長崎チャンポンの誕生は、次のような話であった。

 チャンポン誕生の地は、大浦天主堂の下にある創業明治32年の中華料理店「四海楼」だという。創業者の福建省出身の華僑、陳平順さんが考案者だというのだ。

 当時の長崎は、中国との距離がきわめて近かった。そのせいもあって、上海などからの留学生が多かった。陳さんは、留学生たちに、安くておいしくて、ボリュームのあるものを食べさせてあげたかった。そこで考えついたのが、季節ごとの海や山の幸が一緒くたに、どっさり入った麺で、それが長崎チャンポンになったという。

 チャンポンの麺は独特で、唐灰汁に浸し、唐灰汁をしみ込ませてある。鳥のスープと豚のスープを混ぜ合わせた汁がチャンポンの命で、その作り方は店ごとの秘伝になっているという。具には四季の野菜や豚肉、カマボコ、イカ、エビ、貝類、キクラゲ、タケノコなどがあり、どっさり入っている。

 皿うどんもチャンポンに負けずに有名だが、長崎には2種類の皿うどんがある。ひとつは野菜や肉、魚介類などを炒め、麺を入れ、スープを少々加え、汁気がなくなるまで炒めたもので、長崎ではこれが本来の皿うどんだといっている。つまりは汁ナシのチャンポンといったところだ。もうひとつは細いパリパリの麺に、くず粉でトロッとさせた具をかけたものである。

 長崎は中華料理のおいしい町。

 中華料理店はおしなべてどの店も安く、うまく、量が多い。

 長崎、神戸、横浜といったら日本の中華料理の本場だが、長崎は神戸、横浜に比べたら、その歴史ははるかに長い。それだけに長崎の中華料理には、しっかりとした年季が入っている。そのような土壌がある長崎だからこそ、チャンポンもこの地で生まれたのに違いない。