賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『忘れられた日本人』再び:第5回

 (『ゴーグル』2007年1月号、所収)

『食生活雑考』

 宮本常一先生の著作集、全45巻の『宮本常一著作集』(未來社)の中でも、ぼくが何度となく繰り返し読んでいるのは第24巻目の『食生活雑考』だ。この本の第2章が「食生活雑考」になっている。

「ご飯のことをメシといいます。メシというのは召すものという意味です。もともとはイイといっていました。われわれが日常食べる主食のことです。ところでたべるというのは、賜るということばからきたものです。『何々してください』というところを、昔の貴族の女たちは『何々してたべ』といっていましたが、そのたべとおなじことばなのです。飯を食うことを、メシだのタベルだのと敬語をつかわねばならぬことは、飯を食う場合にはいろいろな作法があったからであり、日本人は毎日三度の食事のおり、飯ばかり食うていたものではなかったのです」

 このような書き出しの「飯のいろいろ」の項からはじまり、「おぜん」「食事の回数」「五徳と自在鉤」「モチとダンゴ」「魚を食べる」「みそ、しょうゆ」「酒もり」「酒の歴史」「お茶」「くだもの」「大みそかから元日へ」と、なんとも読みやすく、わかりやすく書かれた「食生活雑考」は全部で12項から成っている。この本は日本の食文化研究の絶好の入門書。宮本先生の食文化に対する豊富な知識、視点の鋭さ、旺盛な好奇心が随所に見られ、食文化のさまざまなヒントを我々に与えてくれる。

 ということで1984年から85年にかけておこなわれた日本観光文化研究所の下北半島「佐井」の共同調査では、ぼくは宮本先生の『食生活雑考』を念頭に置き、佐井の「食」を見てまわり、「食」にまつわる話を聞いてまわった。

「海の幸」と「山の幸」

 青森県佐井村は下北半島の西部に位置し、津軽海峡に面している。このあたりは奥羽山脈の延長線上にあり、山地は海に落ち込み断崖をつくり、奇岩の連なる仏ヶ浦のような名所もある。海岸線に平地はほとんどない。このような海と山とが接している佐井では海の幸を取り入れた食生活と山の幸を取り入れた食生活の両方を同時に見ることができた。

 まずは「海の幸」だが、佐井の漁業を大きく分けると、磯での海草の採取、海岸近くでの貝類やウニなどの採取、比較的海岸に近い地先の海でのタコ漁やヤリイカ、魚類の網漁の3つから成っている。

 海草の採取は3月のフノリ、4月のコンブ、ヒジキ、4月から6月にかけてのワカメ、6、7月のテングサ、7、8月のモズク、7月から11月にかけてのコンブ、冬の間のイワノリと見事なローテーションでつづき、年間を通して磯では何らかの海草を採っている。

 

 フノリは味噌汁の具にし、ヒジキは油炒めにしたり、飯に混ぜてヒジキ飯にし、テングサからはトコロテンやカンテンをつくる。4月のコンブ漁では「ワカオイ」(若い時期のコンブ)を採るが、この時期のものはコブ巻きに使われ、7月から11月にかけて採る「アツコンブ」はダシコブとして使われる。貝類にはアワビ、サザエ、シュリガイ、ツブガイ、魚類にはカレイ、ヒラメ、タイ、サケ、マス、タラなどがある。

 佐井では「すし」づくりが盛んだ。タナゴ、カワハギ、ホッケなどをなれずしにしているが、たなごずしのつくり方は次のようなものだ。

 タナゴは産卵前の5月、体長10センチにも満たない小さなころが、身が固くしまってすしづくりにはいいという。まずタナゴのウロコを取り、エラとハラワタを取る。よく洗い、ひと晩くらい弱い水、たとえば水道をタラタラたらすような感じで流れ水に打たせる。そして水切りしたあと、同じくひと晩くらい酢に浸す。

 下準備としてダイコン、ニンジン、ハクサイ、キャベツなどの野菜に塩をし、それを硬めに炊きあげた飯に混ぜ合わせ、さらにショウガやサンショの実を混ぜ合わせる。

 魚を漬け込むすし桶に具の混ざったすし飯を敷き、その上に酢に浸したタナゴを並べ、その上にまたすし飯を敷き…と、交互に重ねていく。一番上にはササの葉を敷きつめ、すし桶にぴったり合う蓋をし、その上から重石をかける。1週間ほど重石をかけておくと水気が上がってくるが、それは捨てる。さらにそのあと3日ほど重石をかける。

 このようにしてつくる「たなごずし」は10日ほどで食べられるようになる。ご飯のおかずにするだけでなく、絶好の酒の肴にもなる。また「カヤキ煮」といって、すし桶の中のすし飯をさっと煮たてたものが好まれている。

 次に「山の幸」だが、佐井で食用にされている野草や山菜の類はきわめて多い。野草だとアザミ、ミツバ、ミズ、ワサビ、アカハギ、ヨモギ、セリ、ボウナ、カリグサ(アイコ)、カタクリ、ウド、ツトビル(アイヌネギ)、ニオなど。山菜だとゼンマイ、ワラビ、コゴミ、ヤマウド、フキ、シドケ、タラボ(タラノメ)、タケノコなどである。4月の雪どけと共にコゴミ、ミツバを採りはじめ、ワサビ、アザミ、タラボ、シドケ、ワラビ、フキとつづき、6月中旬のタケノコが最後になる。アザミ、セリ、ミツバなどは家のまわりで採り、フキ、タケノコは奥山で採る。

 フキ、ワラビ、アザミが佐井の「三大野草・山菜」といったところで、それほどよく採られ、またよく食べられている。これらは日常の食事だけでなく、盆や正月、冠婚葬祭には必ずといっていいほどつくられる「煮しめ」の食材になる。

 野草・山菜の類は主に茎の部分が塩漬けにされ、長期間、保存される。かつては7、8年くらい漬け込んだものが普通で、10年以上置くようなこともあったという。北国の冬の厳しさとあいまって、それほどまでに、いざというときに備えた。塩漬けにした野草・山菜は食べるときには水に戻し、ゆでておひたしにしたり、味噌汁の具にする。先にもふれたように、ハレの日の料理にも欠かせない。

 なおタケノコはササダケのもので、鉛筆のように細い。6月にはいってから、フキが終わったあと、奥山に入って採る。タケノコのよく採れるような場所はクマのよく出る場所でもあるので、タケノコ採りというのはクマと出くわす危険性がきわめて高いという。

 佐井では野草・山菜類だけではなく、食用にしているキノコの種類も多い。主な食用のキノコとしては次のようなものがある。シイタケ、ナメコ、マイタケ、ハバキダケ、マスダケ、キクラゲ、シロシメジ、ムラサキシメジ、カスカ、ヤナギダケ、ハツタケ、タムギ、シモダケ…と。キノコも塩漬けにして長期間、保存される。佐井でのキノコ採りは8月中旬のタムギにはじまり、主なものとしては9月のマイタケ、10月のムギタケとつづき、11月中旬のナメコで終わる。なお、シイタケとハバキダケは春、秋の2回、採りにいく。そのうちシイタケは採取から栽培へと変わりつつある。

「ノシモチ」と「ハタキモチ」

 佐井では1年を通して何かというと、餅をつくる。その餅には大きく分けると、2種類ある。ひとつは糯米(もちごめ)を蒸籠(せいろ)で蒸し、横杵(よこぎね)を使って臼でついた餅。それを「ノシモチ」と呼んでいる。もうひとつは粳米(うるちまい)を糯米に混ぜ、竪杵(たてぎね)を使って臼でついて粉にし、それを湯で練り固め、蒸籠で蒸した餅。それを「ハタキモチ」と呼んでいる。

「ノシモチ」は正月用につく。元旦には雑煮を食べるが、餅はノシモチを長方形に切った「キリモチ」で、雑煮の汁はあっさりした味。神棚に供える雑煮はコブ、シイタケでダシをとり、醤油で味付けした汁に焼いたキリモチを入れる。それに刻んだシイタケを入れ、その上からノリをふりかける。家中の者が食べる雑煮は鶏や煮干しでダシをとり、醤油味の汁の中には焼いたキリモチを入れ、鶏肉を入れ、その上からノリをふりかける。

 そのほか小正月の行事として「ホモチ」をつくる。これはノシモチを小さくまるめ、それをアカギ(ミズキ)の木の枝先にたわわに付けたもので、神棚に供える。3月3日の節句にもノシモチをつく。このときはノシモチをひし形に切った「オニノシタモチ」や餡を入れて三角形に切った「フロシキモチ」をつくる。

「ハタキモチ」は春の彼岸につくる(なお佐井では秋の彼岸には墓まいりしないので、秋の彼岸にはつくらない)。その両面に餡をつけた「ビタリモチ」にする。4月8日の花祭りは月遅れの5月8日におこなうが、この日はハタキモチに餡をいれた「ハタキマンジュウ」をつくる。5月5日の節句も月遅れの6月5日におこなわれるが、この日は「ピコモチ」をつくる。

 ピコモチはハタキモチの一種で、金太郎あめのように、どこを切っても同じ色模様になる餅。松、桜、菊、あやめ、あさがおなどの花模様がある。またこの日は「ササモチ」をつくる。練り固めた米粉をササダケの葉に包み、蒸籠で蒸したものである。そのほか祭りの日にも、ハタキモチをつくる。神棚には元々はノシモチを供えていたが、それがハタキモチやハタキマンジュウの変わってきている。

 このように佐井では糯米をついてつくるノシモチよりも、粳米の米粉からつくるハタキモチの方がより多くつくられ、食べられている。水田のほとんどない佐井では飯に炊く粳米こそよそから入ってきたが、より高価な糯米はかつてはそうたやすく手に入るものではなかった。そのような理由からハタキモチが発達したようだ。

 ノシモチの臼(モチツキウス)とハタキモチの臼(ハタキウス)では外観が違う。モチツキウスはずん胴で、ハタキウスは胴がくびれている。モチツキウスはおおよそ5、6軒でひとつを持っている。その5、6軒が組になってノシモチをついている。それに対してハタキウスはほぼ全戸が持っている。それだけハタキモチはよくつくられるということになる。もっとも最近では製粉所に頼むことが多くなっているとのことだが…。

 ノシモチとハタキモチのほかに、佐井ではシトギもつくっている。9月15日の八幡宮の祭りや12月12日の山神の祭り、12月17日の木挽きの祭り、そのほか弁天様や恵比須様、大黒様の祭りなどではシトギを供える。家の建前にも欠かせない。シトギはひと晩水に浸した粳米を臼でつきつぶし、人肌よりも若干熱い湯で練り固めたもの。それを神棚などに供える。食べるときは焼いたり、ゆでたりすることもあるが、そのまま生で食べることが多い。

 宮本先生の『食生活雑考』の「モチとダンゴ」の項には次のように書かれているが、それを読むと、佐井でのノシモチとハタキモチやシトギのことがじつによくわかる。

「日本人はたいへんなモチ好きです。何か特殊な祝いごとがあると、かならずといっていいほどモチをつきます。そしてしらべてみると一年中多いところでは10回以上もついているのです。どうしてこんなにモチをたべるようになったのでしょうか。また今日のようなモチは昔からあったのでしょうか。どうもそうではないのです。古い書物を読んでいると餅ということばは出てきませんが、粢という字が出てきます。シトギと読むのです。シトギというのは米を水につけておいてやわらかくしたものをうすに入れてキネでつぶしたものを、まるめて固めたものです。これを神様にそなえたのです。(中略)モチは秋から春までの冬の間に多くついたものですが、ダンゴの方は夏多くつくっています。五月のちまきのモチなど、米の粉を水で練ってかためたものを蒸すのですからあきらかにダンゴです。そのほか田植えのすんだあとのサナブリダンゴやシロミテダンゴ、半夏生のハゲダンゴ、お盆にもダンゴをつくります。そして秋祭りからモチになります」

 宮本先生はこのようにいわれており、佐井のシトギも餅以前の古いものであることが推測できる。宮本先生はまた、「生米をつきつぶしてまるめたものを蒸したり煮たりしたものをダンゴといいました」といわれている。先生のこのお言葉からすると、佐井のハタキモチは餅とはいっているが、正確にいえば団子の範疇に入る。

 餅と団子の区別は難しいもので、たとえば誰もが知っている端午の節句につくる柏餅は餅ではなくて団子になる。宮本先生は「モチとダンゴ」の項では、最後に「仏教関係の行事のときはダンゴが多くつくられています。なぜそうなのかよくわかりませんが、とにかく、穀物をつきつぶして大きくかためてたべるたべ方が粒のまま食べる方よりも重んぜられていました」と団子の重要性を書かれているが、「餅と団子と粢」は日本の食文化のキーワードなのである。

世界につながる佐井の食文化

 佐井の餅にはジャガイモからつくる「イモモチ」もある。佐井ではイモといえばジャガイモのこと。サツマイモはわずかにあるが、サトイモはまず見かけない。前回ふれた九州山地の「東米良」ではイモといえばサトイモのことで、日本各地で「イモ」がどのイモを指すのかみていくのはおもしろいことだ。

 それはさておきイモモチのつくり方だが、まずはジャガイモを薄く切って1週間ほど水に浸し、干す。それを臼でついて粉にし、湯で練り固め、蒸籠で蒸す。ゆで上げることもある。それだからイモモチはハタキモチの1種になる。

 イモ粉のつくり方には、別な方法もある。それはいったん凍らせる方法だ。小さなジャガイモを集めると袋に入れ、冬の間中、外に出しておく。するとジャガイモは凍りつく。春になり、気温が上がり、溶けてきたところで皮をむく。それを水にさらしたあとで干す。カチンカチンに固くなり、水分が抜けてより小さくなったものを粉にする。

 この方法は南米のアンデス高地に住むインディオの「チューニョ」のつくり方によく似ている。インディオのチューニョの場合は、季節の気温の差ではなく、1日の気温の差を使う。佐井では冬と春の気温の差を利用するが、アンデス高地では気温の日較差がきわめて大きいので1日でやってしまう。夜間に凍らせ、昼間に干し…と、それを10日ほど繰り返すのだ。

 ジャガイモは「ジャガタライモ」からきた言葉。ジャガタラは今のインドネシアのジャカルタのこと。ジャガタラからやってきたオランダ船がジャガイモを日本に伝えたところから「ジャガタライモ」になり、それが「ジャガイモ」になった。だがジャガイモの原産地は南米のアンデス高地。それが大航海時代に新大陸からヨーロッパに伝わり、さらに喜望峰、インドネシア経由ではるか極東のかなたの日本に伝わった。そんなジャガイモの伝播ルートの先端、下北半島の佐井でアンデス高地と同じようなジャガイモの処理方法が見られることはなんとも興味深いことだった。ぼくは佐井で「世界を駆けめぐる食文化」の現場を見る思いがした。

 東北はぼくが今、一番興味を持ってバイクで走りまわっているエリア。そのため下北半島の佐井も、観文研の共同調査以降、毎年のようにバイクでめぐっている。そのたびに何度かの共同調査で過ごした日々がなつかしく思い出されるのだった。