海を渡った伊万里焼を追って(9)
インドのボンベイに行ってから6年後の1990年、50ccバイクで「世界一周」したが、そのときトルコのイスタンブールで「古伊万里」を見た。
『50ccバイク世界一周2万5千キロ』(JTB 1992年刊)では、イスタンブールでの「古伊万里」との出会いを次のように書いている。
2700年の都市の歴史
ボスポラス海峡に面したイスタンブールの歴史は古い。
紀元前7世紀に、ギリシャ人の植民都市ビザンチウムとして建設されたことにはじまる。それがイスタンブールの都市としての第一歩。今から二千数百年も前のことだ。
西暦330年には、古代ローマ帝国の皇帝コンスタンチヌスが都をビザンチウムに移し、コンスタンチノポリスと名前を変えた。それがイスタンブールの旧称コンスタンチノープルのもとになっている。
ローマ帝国の東西分立(395年)以降、1453年まで、イスタンブールは東ローマ帝国の首都。それ以降は、バルカン諸国、アラビア諸国、さらには北アフリカ諸国を含め、当時としては世界でも最大級の領土を支配したオスマントルコの首都となった。東ローマ帝国の旧勢力をこの地から一掃し、名前をコンスタンチノープルからイスタンブールに変え、イスラム文化圏の一大中心地になった。
1923年にケマル・アタチュルクの革命によって共和国になり、首都はアンカラに移された。だがそれまでの二千数百年間というもの、イスタンブールは欧亜にまたがるこの地域の中心でありつづけ、現在でも人口300万人のトルコ最大の都市である。
それにしても、「すごいなあ!」と感嘆してしまうのは、日本では考えられないような都市としての歴史の長さだ。
日本の都市の歴史といえば、東京が500年(太田道灌の江戸城築城が1457年)、大阪が500年(蓮如の石山本願寺建立が1496年)、京都でさえ1200年(桓武天皇の平安京遷都が794年)でしかない。それにひきかえ、イスタンブールの2700年というのは、桁違いの長さだ。
イスタンブールは、トルコ最大の都市だけあってにぎやか。人の波、車の波であふれかえっている。そんなメインストリートのORDV通りにある「KENT」というホテルに泊った。中級クラスのホテルだが、それでも宿泊費は5万リラ。日本円で2500円ほどだ。ただし、50ccバイクのスズキ・ハスラーTS50をあずかってもらうためのガレージ代に1万リラを取られたのが痛かった。
さっそく、町に出る。
まずは昼飯だ。屋台をみつけ、ヨーグルトつきのピラフを食べ、すぐ近くのチャイハナ(カフェ)でチャイを飲む。水タバコを吸っている人を何人も見かける。
「古伊万里」のコレクション
イスタンブールはボスポラス海峡南口のヨーロッパ側に位置している。金角湾(角のような形をして奥深くまで切れ込んだ湾。見た目には隅田川ぐらいの幅で、川のように見える)を囲む数個の丘の上に発展した都市。金角湾をはさんで北側が新市街、南側が旧市街になる。
ということで、金角湾南側の旧市街を歩く。
さすがにイスラム教文化圏の一大中心地だけあって、歴史の古いモスクがいくつもある。奈良や京都で寺社めぐりをするように、イスタンブールではモスクめぐりをする。
最初はアヤ・ソフィア寺院。325年にローマ皇帝のコンスタンチヌスによって起工されたこの建物はギリシャ正教の本山だったが、1453年にオスマントルコが支配するようになってからというものイスラム教寺院に変り、今は建物全体が博物館になっている。
次にスルタン・アフメット・モスク、通称ブルー・モスクに行く。17世紀につくられたモスクで、トルコでは唯一の6本のミナレット(塔)を持っている。なお、6本以上のミナレットというと、聖地メッカにあるカーバ神殿の7本だけである。ミナレットの数はモスクの格を表している。ブルー・モスクの中に入ると、天井一面に貼られたタイルの青さに目が染まりそうだ。
モスクめぐりのあとはトプカピ宮殿。東ローマ帝国を滅ぼし、オスマントルコを打ち立てたメフメット王が、1564年から15年の歳月をかけて造った宮殿だ。それ以降、350年間、オスマントルコの王たちが代々住む宮殿となった。
1923年のケマル・アタチュルクの革命後は博物館になっている。
その展示がすごい。ダイヤを無数に散りばめた玉座や数多くの宝石類には目を奪われる。中国製陶磁器の収集も見事なものだ。が、なんと、それに隣り合って「古伊万里」のコーナーもあった。
日本でもめったに見ることのできないような赤絵の大壷や大皿など、全部で200点あまりの「古伊万里」が展示されていた。
そこには次のような説明があった。
「このコレクションは17世紀から19世紀にかけて日本から輸出されたもので、九州の有田でつくられました。伊万里焼で知られていますが、有田に近い伊万里港から船積みされたので、その名があります」
鎖国体制化の江戸時代にあって、磁器の技術を飛躍的に向上させた有田は、17世紀の後半から19世紀にかけて、長崎・出島のオランダ東会社を通してヨーロッパ各地に伊万里焼を盛んに輸出した。当時の日本の、華やかな輸出商品だった。そのような江戸期の「古伊万里」がヨーロッパから、さらには欧亜の接点のイスタンブールまで入ってきていたのだ。
ヨーロッパの古城などでは、中国製磁器とともに、「古伊万里」の装飾用の壷を飾っているところもある。
有田の九州陶磁文化館や足利の栗田美術館にはまとまった「古伊万里」のコレクションがあるが、世界中を探しても、トプカピ宮殿ほどの「古伊万里」のコレクションはないだろう。あらためてオスマントルコの力のすごさを感じてしまう。
薄暗い宮殿内を出、見晴らし台に立つと、目の前には真っ青なボスポラス海峡が広がっている。1隻の大型船が黒海から地中海へと進んでいく。海峡の対岸はアジア側のウスクダルの町並み。
そんな欧亜を分ける海峡の風景を見ていると、たまらない気分になってくる。アジアの東端の日本と、アジアの西端のトルコ。その両者のつながりに思いを馳せる。
「古伊万里」は、はるか遠く喜望峰を越え、ヨーロッパ経由の「海上の道」でイスタンブールに入ってきた。このイスタンブールこそ、「陸上の道」シルクロードの終着点だった。いつの日か、シルクロードの全域を踏破してみたいぼくにとって、トプカピ宮殿から見下ろすボスポラス海峡は何とも刺激的で、
「また、きっと来るからな!」
といった熱い思いで、海峡の風景を目の底に焼きつけるのだった。
それから16年後の2006年、400ccバイクのスズキDR-Z400Sで東京を出発し、神戸港から中国船に乗って天津に上陸。西安を出発点にし、イスタンブールへとシルクロードを横断した。2006年のときもイスタンブールの町を歩きまわり、トプカピ宮殿で同じように「古伊万里」を見た。(了)
トプカピ宮殿から見るボスポラス海峡。対岸はアジア側のウスクダルの町並み
トプカピ宮殿の「古伊万里」