日本食べある記(25)横浜の中華料理
(『市政』1995年12月号 所収)
中華街を歩く
横浜の中華街(チャイナタウン)は、神戸、長崎とともに“日本の三大中華街”といわれる。その中でも、現在、一番活況を呈しているのが横浜の中華街だ。
中華街の食べ歩きをしようと横浜に行き、JR根岸線の関内駅で下車し、北門の玄武門から中華街に入った。南門の朱雀門に対しての玄武門で、東門は朝陽門、西門は延平門の名前がついている。
これら、四方の門に囲まれた一帯が横浜のチャイナタウン。面積は約18万平方キロ。横浜港に面した山下公園とほぼ同じ広さで、その中になんと300軒以上もの中華料理店が軒を連ねている。
昔は南京町と呼ばれた横浜中華街だが、その歴史は安政6年(1859年)の横浜開港とともにはじまる。外国との貿易で、日本人商人と外国商館の間にたったのが、双方の言葉を理解できる中国人たちであった。
中国人華僑たちは、その後、この山下町の一角に集まって住むようになり、チャイナタウンが形成されていった。
横浜のチャイナタウンの町並みが整うのは明治中期以降のことで、百数十店の店舗を数えるに至ったが、そのうち中華料理店は1割にも満たない数だったという。当時の代表的な店は料理店、仕立屋、理髪店で、いずれも包丁、ハサミ、カミソリといった刃物を使う職人的な仕事で、それを称して、“三把刀”といったという。
中華街で中華料理店の数が増えたのは戦後のことで、現在では500店舗のうち7割以上が中華料理店、並びに食料品店になっている。
さて、玄武門をくぐり抜け、さらにもうひとつの善鄰門をくぐり抜けると、メインストリートの“中華街大通り”に入っていく。この中華街大通りを縦糸とすると、それと交差する香港通りや市場通りの小路が横糸で、それら縦糸と横糸が織り合わさって横浜の中華街ができあがっている。
中華街大通りを歩くと、たっぷりと異国情緒を味わえる。そこは我々、日本人のイメージどおりの中国の世界で、屋根の反り上がった、きらびやかな朱塗りの建物の中華料理店が軒を連ねている。
“上海名菜”とか“広東料理”、“台湾料理専門”といった看板が目につく。飲茶の店も多い。中国人は日本人以上に茶を飲むのが好きな民族だが、飲茶というのは好みの種類の茶を飲みながら、茶請けの軽食の点心を食べるもの。点心には、甘い点心と塩味の点心の二系統があり、その種類は豊富だ。香港などでは、朝食には飲茶が一般的だ。
また、店先で中国式の何段にも積み重ねた円形の蒸籠で、肉まんやあんまんなどの饅頭を蒸している光景もよく目にする。これは小麦を粉にし、饅頭や麺にする、いわゆる粉食圏の中国北部のものだ。
横丁に入ったところにある小さな店の前に、長い行列ができている光景も中華街ではよく見かける。並んでも食べてみたい人気の店なのだ。
月餅などの中国菓子を売る店や、甘栗を売る店、米粉、フカヒレ、ナマコ、クラゲなどの乾燥材料、紹興酒、茅台酒などの中国酒、烏龍茶、ジャスミン茶などの中国茶を売る食料品店も目につく。アヒル専門の店、焼き豚や豚足、豚耳、腸づめなど豚専門の店といった肉店もある。
手軽に異国情緒を味わえるということで、大勢の日本人観光客の押し寄せる中華街だが、カメラを手にした中国人観光客も多く見受けられる。
ちょうど日本人観光客がアメリカ・ロサンゼルスのリトルトーキョーや、ブラジル・サンパウロのリベルダーデの日本人街をなつかしさのこもった目で見てまわるのと同じで、中国人観光客も横浜の中華街を歩くことによって、一時代前の中国を感じ取っているようだ。北京や上海を歩いても、横浜の中華街のような風景に出会うことはない。今の中国国内には、このような町並みはないのだ。
中華街大通りの一本西側の通りには、関帝廟がまつられている。
関帝廟というのは、三国志の武将、関羽をまつるもの。関羽を関聖天として神格化し、家内安全、商売繁盛の神になっている。華僑社会の精神面でのシンボル的な存在で、神戸や長崎にもあるし、そのほか函館や沖縄にもある。
関帝廟に隣り合って、横浜華僑総会の建物があり、中国人学校の横浜中華学院がある。まさに中華街の中心地といっていいようなところだ。
その近くには、広東会館がある。同郷意識の強い華僑だが、そのほか福建会館や台湾会館などの同郷会館が横浜にはある。
中華街の一角にある公園は、その昔の、大清理事府(領事館に相当する)の跡地とのことだが、そこで遊ぶ子供たちは日本語混じりの中国語を話していた。子供たちの元気な中国語の声を聞いていると、中国のどこかの町の一角に自分がいるかのような錯覚を覚えるのだった。
中華街の食べ歩き
中華街をひととおり歩きまわったところで、食べ歩きの開始だ。
まず、“粥”の看板を掲げた店に入る。中国人は、朝食に好んで粥を食べる習慣があるので、それにならっての粥なのである。
店のメニューを見て驚いてしまったのだが、なんと、次のような12種類もの粥がある。
①魚丸粥(魚団子の粥)
②肉丸粥(豚肉団子の粥)
③三鮮粥(イカ、エビ、貝柱の粥)
④鮮貝粥(生貝柱の粥)
⑤蝦仁粥(エビの粥)
⑥鮑魚粥(アワビの粥)
⑦牛肚粥(牛モツの粥)
⑧猪肝粥(豚のレバーの粥)
⑨及第粥(五目肉の粥)
⑩皮蛋粥(ピータンの粥)
⑪青菜粥(野菜の粥)
⑫鶏蛋粥(たまごの粥)
このうち、五目肉というのは、レバー、モツの肉団子のことで、ピータンというのは、アヒルのたまごを殻のまま灰汁に漬けたものである。
値段は鮮貝粥と鮑魚粥が一番高く、1100円だったが、それ以外は500円ほどといったところである。
「すごいなあ!」
と感動してしまうのは、粥ひとつをとってもこれだけの種類があること。中国人の食に対する貪欲なまでの執念を見せつけている。さまざまな食材を料理の中に取り込んでいるのがよくわかる。
それら12種の粥の中から、どれにしようかさんざん迷ったが、私は蝦仁粥を注文した。これが大正解で、美味なものだった。
とろっとした白飯の粥の中に、何びきかの小エビが入っている。粥自体にはとくに味つけはしていない。淡白な味わいだ。
粥の上には、刻んだネギと輪切りにした油條、それと香菜の葉がのせてある。
油條というのは、小麦粉をこねて発酵させ、それをひも状に延ばし、油で揚げたもの。香菜は独特の香りのするセリ科の一年草で、コエンドロ(コリアンダー)のこと。香菜の若菜は、中国料理には欠かせないアクセントになっている。また、その果実は香辛料として使われたり、健胃薬の原料になっている。
粥を食べ終わったところで、プラプラ歩きながらの、ほんとうの食べ歩きを開始する。 最初は、粥にも入っていた油條である。揚げたてのを一本買い、歩きながら食べる。中国でも、同じようなことをしたなと、なつかしく思い出す。中国人は朝食で露店の油條を食べることが多い。歩道にテーブルを出し、そのわきで揚げている。
次に、ゴマ揚げ団子である。黒あんを白玉団子で包み、ゴマをまぶして揚げたものだが、こってりとした黒あんの味が印象的。日本人の舌に合うようで、あちこちの店先でゴマ揚げ団子を売っているし、また、それを買う人は多い。ゴマ揚げドーナツもある。
次に、肉マンとあんマンである。店先の蒸籠で湯気を立ち昇らせながら、蒸しているのをひとつづつ買って食べたが、ビッグサイズで、フーフーいいながらやっと食べきるほどのボリュームだ。
饅頭というのは、中国北部では、麺と並んで主食となる食べ物だが、蒸し上げた饅頭のなかには何も入っていないものが多い。パンのような食べ方で、おかずと一緒に食べる。 肉マンのように具の入っているものは包子といっているが、中に入る肉の違いによって牛肉包子とか羊肉包子、猪肉(豚肉)包子などの種類がある。
最後はチマキだ。笹の葉に包み、三角形に巻き上げて蒸した格好は日本のチマキに似ているが、味はまるで違う。日本のチマキのような淡白な味ではなく、ギトッと、油ぎっている。中には豚の脂身がはいっている。
肉マン、あんマンがボリュームたっぷりだったので、チマキを食べ終わるころには、うごくのが苦しいほどの満腹感を感じるのだった。
腹ごなしに横浜港に面した山下公園を歩き、日が暮れると中華街に戻った。
食べおさめは、コースの夕食。一人でも食べられる広東料理店に入った。そのメニューは皮蛋豆腐(冷しピータンと豆腐)、油淋鶏(揚げた鶏の香味ソースかけ)、春巻、焼売、葱油麺(ねぎそば)、それとデザートの杏仁豆腐だ。
こうして中華街を食べ歩くと、中国を味わうのと同時に、これが海外に向けて開けた横浜の味なのだと、強く実感するのだった。