賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの1万円旅(5):日本橋→出雲崎、一気歩き300キロ!

(『旅』1994年6月号 所収)

 

 1994年3月10日14時、ぼくは東京・日本橋の日本国道道路元標の前に立った。ザックを背負い、カメラの入ったバックと水筒を肩にかけ、ジャンパーにジーンズという格好。これから新潟の出雲崎を目指して歩くのだ。地図を見ると約300キロ。その間をただ歩くのではなく、究極の「1万円旅」に挑戦し、全泊、シュラフのみで野宿するつもりなのである。

 

『旅』編集部の竹内正浩さんと渡辺香織さんが見送りにきてくれる。渡辺さんは手づくりのお弁当を持ってきてくれる。ありがたい!

 オフロードバイク誌『BACK OFF』編集部の丹羽和之さんも来てくれる。彼とは前年の12月に雪中ツーリングをし、雪中野宿をした仲なのだ。丹羽さんにはカンロあめとチョコレートを差し入れにもらったが、これから先、このカンロあめにはずいぶんと助けられることになる。

 

 竹内さん、渡辺さん、丹羽さんの見送りを受け、14時30分、日本橋を出発。あいにく雨が降り出したが、ぼくの心は燃えていた。

「なんとしても、出雲崎まで歩き通すのだ!」

 

 日本橋から国道17号(中山道)をたどる。JRの神田、秋葉原と駅前を通り、右手に神田明神、左手に湯島聖堂を見ながら本郷へ。いつもの見なれた東京の町なのに、今日は違う。新潟に向かって歩きはじめると、目に入ってくる東京が、キラキラ輝いて見えるのが不思議だ。今までに、これだけ胸をときめかせて東京を歩いたことがあっただろうか。新しい世界に通じる扉を自らの手で開いたような感動を味わうのだった。

 

 雨が上がる。本郷の東大赤門前を通り、JR巣鴨駅へ。そこから旧道に入る。とげぬき地蔵の参道。ワサワサとにぎわっている。今川焼きや人形焼き、あんころ餅の店が目に入ってしまう。つばを飲み込み、グッと我慢して通り過ぎる。そのまま板橋まで歩いた。江戸時代、東海道の品川宿や甲州街道の内藤新宿と同じように、ここは中山道の第一宿目の宿場であった。

 

 ふたたび国道17号を歩く。志村には、日本橋から数えて3番目になるという一里塚が、ほぼ完全な形で残っていた。都営地下鉄の志村坂上駅前にある。国道17号はバイクで何度、走ったかわからないが、「志村の一里塚」は目に入らなかった‥‥。これが、歩く旅のよさなのだ。

 

 日が暮れる。それとともに足が痛くなり、気分も重くなってくる。ほんとうに新潟まで歩けるのだろうか…と、気が弱くなってくる。東京と埼玉の境を流れる荒川まで来ると、自販機で缶緑茶(110円)を買い、渡辺さんがつくってくれたお弁当を食べる。肉、卵、サヤエンドウの三色弁当で、それに鶏のから揚、炒めもの、ミニトマト、デザートがついた豪華版。缶緑茶を飲みながらお弁当を半分食べ、半分は残しておく。

「おかげで元気がでましたよ、ありがとう渡辺香織さん!」

 

 荒川にかかる戸田橋を渡って埼玉県に入り、夜道を歩く。これから毎日、夜中の12時までは歩くつもりなのだ。浦和を通り、JR埼京線の北与野駅を過ぎた「グリーンプラザ与野」というコイン洗車場の片すみにシートを広げ、シュラフを敷いて一夜の宿にする。渡辺さんのお弁当の残り半分を食べ、23時30分、シュラフにもぐり込む。

 

 荷物を極力軽くしコンパクトにするため、持ってきたのはペラペラのシュラフなので、コンクリートから冷気がジンジン伝わってくる。体をエビのように曲げ、横向きになって寝るのだが、1時間もすると体は氷のように冷たくなる。寝返りを打ち、今度は逆向きになって寝る。そんなことを夜明けまでの間で何度かくり返して眠るのだ。

 

 なぜ、そんな薄いシートとペラペラのシュラフなのかといわれそうだが、すこしでも快適な野宿をしようとしてウレタンのマットとか厚手のシュラフを持ったら、それだけで大荷物になり、きわめて歩きにくくなってしまうからだ。徹底した軽装備で300キロを歩き通そうというのが今回の徒歩旅の作戦だ。

 

 5時半、起床。シュラフとシートをクルクルッとまとめ、ザックに詰め込み、5分後には出発だ。大宮、宮原、上尾と国道17号を歩く。JR高崎線が並行して走っている。上尾から旧中山道に入ったが、急に人の匂い、生活の匂いが感じられるようになり、うれしくなってしまう。「セブンイレブン」であんぱん(90円)を買い、歩きながら食べて朝食にする。

 

 桶川、北本、鴻巣と中山道の宿場を歩く。桶川では古い土蔵造りの家が目立つ。間口は狭いが、ウナギの寝床のように、奥に細長い。北本では、北本天神の紅梅、白梅が満開だった。鴻巣は人形の町。人形店が軒を連ねている。鴻巣からふたたび国道17号を歩く。

 

 それにしても腹がへった…。コーヒーも飲みたい…。とうとう我慢できずにファミリーレストランの「すかいらーく」に入り、日替わり定食を食べる。751円の出費は大きい。そのかわり、コーヒーのお替わりを全部で4杯も飲んだ。「まあ、いいか」と自分で自分に納得させる。751円も使って‥‥という、ちょっとうしろめたい気持ちがあるからだ。

 

 夕食はコンビニの「ファミリーマート」で買った食パンとマーガリン、それと八百屋で買ったニンジン。この3点セットが、これからの旅の主食になる。食パンを2つに折ってマーガリンをつけ、生のニンジンをおかずにして食べるのだ。

 

 ぼくは20歳の春に旅立った「アフリカ一周」を皮切りに、20代の大半を費やしてバイクを走らせ世界の6大陸を駆けめぐった。その毎日はまさに極限の貧乏旅行の連続で、宿泊費には一銭も使わずに野宿をくり返した。そのおかげで、ぼくの体はどこででも寝られるようになっている。ガソリン代は削れないので、徹底的に食費を削った。パンにマーガリン、ニンジン、タマネギというのは、ぼくの決まりきった食事になっていた。泣きたくなるほど辛くなることもあったが、それがぼくにとっては唯一の、旅をつづけられる方法だった。このような経験のおかげで、貧乏旅行には滅法強いカソリなのである。

 

 吹上、行田と通り、熊谷で夕暮れを迎える。

 関東平野の片すみで食パン・マーガリン・ニンジンの3点セットの夕食を食べていると、わずかな金を持って世界を駆けつづけた20代のころの、あの旅への熱い想いが、フツフツと音をたててよみがえってくるようだった。

 

 熊谷を過ぎると日が暮れる。夜間は歩くことだけに全精力を投入し、距離を稼ぐ。時々、つまさき立ちで小走りに走る。かえってそのほうが、足の裏がベタッと地面に付かないので楽だった。

 

 深谷から本庄へ、旧道を歩く。本庄着24時。真夜中の旧中山道沿いの町並みは静まりかえっている。中心街を通り抜けたところにある「金鑚神社」の境内を一夜の宿にさせてもらう。シート、シュラフを敷き、その上に座り込み、食パン・マーガリン・ニンジンの夜食を食べ、シュラフにもぐり込む。時間は24時30分になっていた。

 

 一夜の宿とさせてもらったので、「金鑚神社」には奮発して100円の賽銭をあげ、5時45分に本庄を出発。県境の神流川までは旧中山道を歩く。街道沿いの旧家の庭にはミツマタの黄色い花が咲いている。ツバキやチンチョウゲの花も咲いている。チンチョウゲの花の香りが旧街道にまで漂ってくる。

 

 小さな橋の近くには「泪橋の由来」の碑。それには、中山道沿いの住民たちの苦労が刻み込まれていた。江戸時代、住民たちは伝馬(通信用の馬)の苦役を課せられ、農繁期でも”酷寒風雪”の日でもおかまいなしにかり出された。そんな伝馬にたずさわる男たちは、この橋でしばしの憩いをとったが、家族を想い、我が身のはかなさを嘆いて涙を流したという。それで泪橋なのだが、いかにも江戸五街道のひとつ、中山道にまつわる話ではないか。

 

 国道17号に出る。利根川の支流、神流川にかかる橋を渡り、群馬県に入る。橋の袂には「神流川古戦場跡」の碑。天正10年(1582)、織田信長が京都・本能寺で倒されると、厩橋(前橋)城主として関東管領の地位にあった信長の重臣滝川一益は、すぐさま京都に向かおうとした。が、この地で武州・鉢形城(寄居)の北条氏邦の軍勢にはばまれ、激しい戦いとなり、神流川に浮かぶ屍は2千数百にものぼったという。「神流川古戦場跡」碑も東京・志村の「一里塚」と同じことで、何度もバイクでこの橋を渡ったが、気がついたのは今回が初めてであった。

 

 神流川の河原で食パン・マーガリン・ニンジンと缶紅茶の朝食をすませ、旧道で倉賀野へ。町の入口が中山道と日光例幣使街道の追分になっている。そこには「右 江戸道、左 日光道」と彫り込まれた常夜燈と道標が立っている。昔の追分がどのようなところだったのか、それがとってもよくわかる。倉賀野の町の中に入っていくと、「本陣跡」や「脇本陣跡」、「高札場(幕府の掲示板)跡」などの碑が見られる。倉賀野は中山道の宿場町の面影を「東京→高崎」間では一番濃く残していた。

 

 高崎では「可楽」という中華料理店でラーメンライス(550円)を食べたが、

「クワーッ、タマンネー!」

 という声が出るほど腹にしみた。何かをおいしく食べようと思ったら、腹をトコトンすかせるのが一番の方法。ラーメンのスープは最後の一滴まで飲み干した。

 

 ところでこのラーメンライスは、ぼくのバイク旅の定番メニュ-になっている。とくに寒風を切って走るときなど、ラーメンライスを食べると生き返る。冷えきった体を内から暖めてくれるだけでなく、体の芯からパワーが湧き上がってくる。ラーメンとライスの取り合わせが絶妙なのだ。

 

 ラーメンライスでパワーをつけたところで、旧中山道を歩き、高崎警察署に近い住吉町の交差点まで行く。そこで中山道は左へ。直進する道が三国街道になる。交差点角の菓子店の“三国だんご”のはり紙以外に中山道と三国街道の分岐点を感じさせるものはなかった。

 

 東京から高崎まで、ずっと中山道を追ってきたので、さらに中山道を歩きたくなる。

「今度は高崎から碓氷峠を越えて信州に入ろう。和田峠を越えて下諏訪まで歩こう」

 そう心に決めて中山道に別れを告げ、交差点を直進し、三国街道に入っていく。JR信越本線の北高崎駅のすぐわきを通るが、踏切は“三国街道踏切”になっていた。

 

 三国街道は雨。折りたたみ傘をさしながら歩く。三国街道第一番目の宿場、金古(群馬町)を通り、前橋市をかすめ、吉岡町に入るころには雨は上がった。左手に榛名山の峰々が大きく見えている。渋川で日暮れ。食パン・マーガリン・ニンジンの夕食を食べる。

 

 渋川から国道17号を歩く。JR上越線が国道に並行して走っている。沼田までがいやになるほど遠く長い。渋川から沼田までの距離がこんなにもあったのかと改めて思い知らされる。これも歩きのよさというものか。やっとの思いで沼田を通過し、国道を疾走する大型トラックの轟音におびやかされながら、24時30分、後閑に着く。

 

 24時間営業の「セブンイレブン」で2個入りのおにぎり(215円)を買い、歩きながら食べる。新治村に入り、国道17号沿いの休憩所で足を止めたのは午前2時。21時間15分、歩いた。木のベンチにシュラフを敷き、食パン・マーガリン・ニンジンの夜食を食べてシュラフにもぐり込んだのは午前2時15分。上越国境の山々から吹き降ろしてくる風が、身震いするほどの冷たさだ。

 

 翌朝は6時に出発。早朝の新治村の寒さは真冬と変わらない。手はかじかみ、あっというまに紫色に腫れあがってしまう。

 国道17号から旧道に入り、台地上の須川宿を通る。明治7年に新道が開通し、三国街道は赤谷川沿いの湯宿温泉を通るようになったが、須川宿はメインルートから外れたことによって昔の宿場の面影を色濃く今にとどめている。国道20号から外れた旧甲州街道の宿場、野田尻宿(山梨県上野原町)によく似ている。

 

 ふたたび国道17号に出る。三国街道の猿ケ京温泉へ。いつもならば、温泉でまずひと風呂というところだが、今回は入浴料を払ってはいられないので温泉はパス。バスの待合所で冷たい風を避けながら食パン・マーガリン・ニンジンの朝食を食べ、ここからまた旧道を歩く。集落が途切れると雪道だ。ザクザク音をたてて雪を踏みしめ、三国街道の上州側最後の宿場、永井宿まで歩く。

「さー、三国峠だ!」

 ほんとうは、旧道で三国峠を越えたかったが、峠はまだ3、4メートルの積雪で、とてもではないが歩けないということで、国道17号を登っていく。

 

 標高800メートル、900メートルと、高度を上げるにしたがって新潟側から吹き降ろしてくる風は一段と冷たさを増す。標高1000メートル地点を過ぎるとまもなく三国トンネルだ。

 群馬・新潟県境の三国トンネルには命がけで入っていく。トンネルの幅が狭いので、大型トラック同士がすれ違う時など、トンネルの側壁にペターッとはりつかなくてはならない。背中スレスレに大型トラックが走り過ぎていく。もう、生きた心地がしない。トラックのドライバーも、まさか人が歩いているとは思わないので、ヘッドライトに浮かび上がったぼくの姿を見たときは、さぞかし驚いたことだろう。

 

全長1218メートルの三国トンネルを抜け、新潟県に入った時は、

「やったゼーッ!」

 と、カソリ得意のガッツポーズ。ついに、最大の難関を突破したのだ。それにしても、歩いて三国峠の三国トンネルを抜けるのが、こんなにも難しいとは考えてもみなかった。

 

 三国峠を越えると、春はいっぺんに遠のいた。冬とまったく変わらない風景になる。国道の路面にこそ雪はなかったが、路肩の雪はぼくの背丈をはるかに超えている。標高1000メートル地点まで下がると、デジタルで気温が表示されていたが、時間は正午過ぎ、天気は青空が広がっているというのに、マイナス4度。寒いはずである。

 

 三国峠を下ると三国街道の浅貝宿。といっても、宿場の面影はまったくない。苗場スキー場で滑るカラフルなスキーウエアのスキーヤーたちであふれかえり、なにか、ぼくだけが場違いな世界に飛び込んだかのような錯覚にとらわれる。腹をすかせてトボトボ歩いている自分がみじめになってくる。

「よし、こうなったら豪勢にいこう!」

 パン屋でレーズンブレッドとハムサンド(390円)を買い、“豪勢な昼食”を食べながら火灯峠を登っていく。

 

 浅貝宿から湯沢までの間は、火灯峠と芝原峠の2つの峠を越える。バイクで走っていると、とくに火灯峠などは峠だとは気づかないままに越えてしまうが、歩いてみると峠だということがはっきりわかる。天気は崩れ、強風にのって雪が舞う。タオルでほおかぶりして歩く。火灯峠のスノーシェルターを抜け、二居宿に下っていくと、雪は勢いを増す。寒さにたまらず食堂に飛び込み、“豪勢な昼食”にひきつづいてラーメン(450円)をすすった。今回はすこしでも節約するため、ライスなしでラーメンのみだった。

 

 二居宿からまた恐怖のトンネルを抜け、貝掛温泉の前を通り、三俣宿で日が暮れる。浅貝、二居、三俣は“三国三宿”と呼ばれているが、今では3宿ともに、三国街道の宿場町の面影はない。

 

 あいかわらず雪の降りつづく中、芝原峠を越えて湯沢へと下っていく。19時、湯沢着。自販機のコーンポタージュを飲みながらいつもの食パン・マーガリン・ニンジンの夕食を食べ、六日町を目指す。

 

 湯沢を過ぎると、雪質が変わった。それまではサラサラして体にまとわりつかない雪だったが、それが、水分を含んだベタッとべとついた雪になる。風がおさまったので、傘をさして歩く。石打を過ぎると小降りになり、塩沢を過ぎるとほとんどやんだ。

 

 24時、六日町着。中心街を通り過ぎたところにある「新潟靴流通センター」というディスカウント店の軒下を借りる。スニーカーやソックスだけでなく、ジーンズもグッショリ濡れているので、まずは着替えだ。それから定番メニューの食パン・マーガリン・ニンジンの夜食を食べ、シュラフにもぐり込む。時間は24時30分。ジンジン冷え込む夜だった。

 

 翌日は、夜が明けても、すぐには起きられない。東京からここまで歩いてきた疲れがズッシリと溜まっている。もうちょっと、もうちょっと‥‥で、起きたのは6時20分。出発は6時半。前日の天気とはうってかわって好天気。雲ひとつない快晴だ。朝日を浴びた雪原の輝きがまぶしい。「昨日は地獄、今日は天国」といったところで、天気がいいと、それだけで鼻唄気分になってくる。

 

「セブンイレブン」で買ったコッペパン(90円)を歩きながら食べ、それを朝食にする。いつもとちょっと違う食事というだけでうれしくなる。人間というのは単純なものだ。それがこうした旅をしていると、よくわかる。右手に見える八海山(1775m)の堂々とした山の姿が印象的だ。

 

 六日町から大和町に入ると、駒ヶ岳(2030m)が見えてくる。さらに小出町に入ると八海山と駒ヶ岳の間に中ノ岳(2085m)も見えてくる。越後三山が顔をそろえたのだ。信濃川最大の支流、魚野川の清流が手前を流れ、その向こうに雪の越後三山がそびえてる風景は、強烈に目に焼きつく。まさに越後路の魚沼地方を象徴している。ぼくはこの風景が大好きで、

「カソリさんの日本で一番好きな風景は?」

 と、聞かれるたびに、“魚野川越しの越後三山”と答えている。

 

 そんな小出町の国道17号沿いに虫野という集落がある。そこが妻の故郷。突然ではあったがフラッと妻の実家に立ち寄った。義理の父母ともに東京から歩いてきたというとビックリした顔をする。ちょうど昼時だったので昼食を御馳走になった。新潟産こしひかりの本場、魚沼地方だけのことはあって、ご飯のうまさは格別だ。母はさらに持ちきれないほどのおにぎりをつくって持たせてくれた。

 

 生き返るような思いで国道17号を歩き、小出町から堀之内町に入った時のことだ。軽4輪がキューッとブレーキ音をきしませて止まる。降りてきた女性に、

「カソリさんですよね!」

 と、声を掛けられたのだ。近くの広神村の桜井まり子さん。4歳になるというお嬢ちゃんの淑乃ちゃんを連れている。桜井さんは、「カソリさんらしき人物が、17号を歩いている」という情報をキャッチすると、文具店で色紙とサインペンを買い、この近辺の17号を行ったり来たりしたという。「やっとみつけましたよ」といって喜んでくれたのだ。

 

 桜井さんは「桜井輪店」というバイク屋のおかみさん。ご主人と一緒に店をやっている。5歳の雄貴くんを筆頭に、淑乃ちゃん、2歳の時生くん、0歳の土筆くんの4人の子供のお母さんでもある。

「世界を駆けるゾ!」

 と、色紙に書き、歩き出そうとすると、

「ぜひとも食費の足しにして下さい」

 といって、桜井さんは紙づつみをさし出す。何度も断ったが、断りきれず、ありがたくいただくことにした。中には2000円入っていた。ギリギリの究極の貧乏旅行挑戦中に2000円もの収入があったのだ。

 

 信濃川と魚野川が合流する川口に着いたのは夕暮れ。きれいな夕焼けの空だった。夕食におにぎりを食べ、長岡を目指して国道17号を歩く。信じられないのだが、長岡に近づくと、また雪が降り出した。

「あんなに、いい天気だったのに…」

 

 長岡到着は24時。中心街を通り抜け、8号(北陸道)との交差点に出る。そこが東京からずっと歩いてきた17号の終点であるのと同時に、高崎からの三国街道の終点でもある。だが、それらしき表示は何もない。この交差点からは352号で出雲崎へ向かう。

 

 雪と戦いながら歩き、信濃川にかかる蔵王橋を渡る。狭い橋で、通り過ぎる車にさんざん水しぶきをあびせかけられた。クソーッ。やがて国道沿いに、24時間営業の無人のコイン精米所をみつけ、そこで歩みを停める。時間は午前1時半。この時間にまさか精米に来る客もいないだろうと、そこで寝かせてもらう。残りのおにぎりを食べ、さらに食パン・マーガリン・ニンジンのいつもながらの夜食を食べ、シュラフにもぐり込む。時間は午前2時。床が鉄板なので、氷の上に寝ているような冷たさだ。それでも風雪をさえぎってくれる屋根とアルミサッシのドアがあるだけでもありがたかった。

 

いよいよ、「日本橋→出雲崎」の最終日を迎えた。北陸自動車道の下を通り抜け、長岡市から三島町に入る。すると前方にはゆるやかに連なる頸城丘陵の山並みが見えてくる。「あの向こうが、日本海だ!」

 

 ゴールが近づき、胸が躍る。それにしてもコロコロとめまぐるしく変わる天気で、音もなくスーッと黒雲が忍び寄ってくるとチラチラ雪が降り出し、黒雲が通り過ぎるとまた青空が広がり、しばらくすると黒雲が空を覆うといったくり返しなのだ。

 

 いつもの朝食を食べ、頸城丘陵の山中に入っていく。中永峠を登る。日本橋で丹羽和之さんが差し入れてくれたカンロあめの最後の一粒をなめる。このあめの甘さが、どれだけ疲れをいやしてくれたことか。“カンロあめ効果”は大きかった。

 

 峠のトンネルを抜け出ると、そこは出雲崎町。あと、もう一息だ。足取りも軽く峠道を下り、JR越後線の出雲崎駅のわきを通り、日本海の海岸へ。

 出雲崎海岸の入口にある「良寛記念館」のバス待合所でパン・マーガリン・ニンジンの最後の食事。残ったものも全部食べつくし、水筒の水も飲み干す。この食パン・マーガリン・ニンジンの食事のおかげで「東京→出雲崎」6日間の全出費は4243円ですますことができた。1日平均700円。1万円をはるかに切る額だ。

 

 3月15日11時30分、出雲崎の海岸に到着。足の裏はマメだらけになっているが、その痛みも忘れ、高台に立ち、日本海に向かって思いっきり叫んでやった。

「万歳! 出雲崎だ!!」

 300キロを歩ききった喜びにしばしひたったが、それと同時に「これでもう、歩かなくていいんだ」という安堵感をも強く感じた。

 

「日本橋→出雲崎」を歩いた6日間というものは、日本を世界を駆けめぐってきた自分のこれまでの人生をギューッと凝縮したようなもの。なにしろぼくは“貧乏旅行のカソリ”なのだから。とくに20代のころの旅というのは、この「日本橋→出雲崎」以上の貧乏旅行の連続で、それを1年とか2年という長期間、つづけた。

 

 それともうひとつ、今回の「日本橋→出雲崎」を歩いたことによって、自分の体の中で眠りかけていた野性の血が、よびさまされたような気がした。ぼくの野性の血がまた騒ぎだしたのだ。

「野性の血をたぎらせて、また、新しい世界へと旅立っていこう!」

 

 出雲崎にゴールすると、桜井まり子さんにいただいた2000円で食事にした。良寛堂の隣りにある「まるこ食堂」に入り、ビール(550円)で一人、乾杯。タイ、ヒラメ、甘エビの刺し身定食(1300円)を食べた。これほどうまい食事というのも、そうそう食べられるものではない。出雲崎から長岡まではバス(600円)に乗り、長岡からは青春18きっぷ(2260円)を使って鈍行列車を乗り継ぎ、東京に戻った。

 全費用6953円の「東京-出雲崎」の往復。最後にちょっと贅沢したが、それでもはるかに「1万円」を下まわる額だった。

 

■後日談(2008年9月記す)

 この「東京→出雲崎」の徒歩旅は、ほんとうにきつかった‥。

 今までの、自分のすべての旅の中でも、一、二を争うきつさ。今だに、まだ足のまめの上にさらにまめができ、それでも歩きつづけたあの痛みがよみがえってくるほど。この徒歩旅のきつさの証明のようなものだが、このあとすぐにぼくはバイクで転倒し、鎖骨を折ってしまうのだ。「転ばぬカソリ」が。

 

 長岡から列車で自宅に戻ると、その足で今度はバイクで伊豆に向かい、湯ヶ野温泉でひと晩、泊まった。翌日、大鍋林道→カンス林道→長九郎林道と伊豆の林道を走り、最後が萩ノ入林道だった。あとわずかで舗装路に出るというところで、痛恨の転倒。なんでもないようなところだった。どうして転倒したのかわからないくらいで、受け身もとれず、全身を強打した。とくに右半身を強く打ち、そのため右肩の鎖骨を折った。

 

 幸い河津営林署の車が通りがかり、河津町の病院に運ばれた。右肩鎖骨の骨折は2ヵ所で、1ヵ所はポキンと折れる単純な骨折だったが、もう1ヵ所は骨が砕けて飛び散る粉砕陥没骨折。

 この右肩の骨折で、ぼくは原稿がまったく書けなくなってしまった‥‥。

 

 だが、“ただでは起きないカソリ”の本領を発揮し、動く左手でたどたどしくもワープロで原稿を打ったのだ。それがぼくがワープロで原稿を打つきっかけになった。なにしろ“天下の悪筆カソリ”なので、ワープロ原稿になったとき、各誌編集部のみなさんは、

「カソリさんの原稿が読めるようになった」

 といって、おおいに喜んでくれた。

「みなさん、こんなに喜んでくれるのか」と、驚かされた。

 ということで、それ以降、ぼくの全原稿がワープロに変わった。それが今のパソコンにつながっている。

 

 この「東京→出雲崎」の300キロを6日間で歩き通せたのは、サッカーをやっていたおかげだと思っている。

 40を過ぎても、草チームの現役選手としてプレーしていたのだ。

 ぼくはフォワードで、さすがに40代後半になると得点能力がガクッと落ちてしまったが、それまでは“点取屋カソリ”の名をほしいままにし、得点数が出場試合数を絶えず上回っていた。つまり平均すれば、1試合に1点以上は入れていたということになる。

 

 中学生のときにはじめたサッカーを20代も、30代も、そして40代も、ずっとつづけてやってきた。それがどれだけ自分の体力維持に役立ったかしれない。

 だが、50を過ぎると、それも今は昔‥‥。

 60を過ぎた今では、

「あー、もう一度、現役のサッカー選手に戻りたい!」

 と、心底、熱望している。