賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」後編:第1回 シドニー→アデレード

※全行程4134キロ(ダート3本875キロ)

 (『バックオフ』(1997年3月号 所収)

             

 1996年9月15日は、ぼくにとっては、一生涯、忘れることのできない記念すべき日だ。「オーストラリア2周後編」(ダート編)の出発日なのである。東京・新宿駅から「成田エクスプレス9号」に乗って着いた成田空港には、なんともうれしいことに、BO編集部のブルダスト瀬戸と、我ら『木賊軍団』のマドンナ、中田(現姓瀬戸)静香さんが見送りにきてくれた。2人と握手をかわし、12時00分発SQ(シンガポール航空)997便に乗り込み、「オーストラリア一周」(ダート編)の出発点シドニーに向かう。機上の人となった“豪州の熱風カソリ”、「さー、やるゾー!」と、気合を入れるのだった。

 

さー、地平線を目指して走るゾ!

「オーストラリア2周後編」(ダート編)の出発点は、シドニー郊外の、パラマタの町近くにある「スズキ・オーストラリア」だ。ここに日本から送り出した2台のスズキDJEBEL250XCがある。DJEBEL1号、2号といったところだが、すでに、1号では、全行程3万6084キロの「オーストラリア2周前編」(ロード編)を走り終えている。

 DJEBEL1号は、まったくのノーマルだが、今回、使う2号には、砂漠越えでバッテリーが上がってもいいように、オプショナル・パーツのキックスターターをとりつけてある。

 東京を出発した翌日の9月16日、「スズキ・オーストラリア」の藤照博さんや工藤隆夫さんはじめみなさんの見送りを受け、走り出す。こうして「オーストラリア2周後編」がはじまった。

 

 パラマタからR32でシドニーの中心街へ。まるで旅立ちを祝福してくれるかのような青空が広がっている。「いいね、いいねー!」と、DJEBEL250XCに乗りながら、心ウキウキ気分になる。だがその反面では、「オーストラリア2周後編」(ダート編)を終え、また、シドニーに戻ってくる日がほんとうにくるのだろうか、といった不安をも感じるのだった。

 シドニーの中心街をひとまわりし、ハーバーブリッジに向かっていったところで、DJEBELを止める。目の前には、車の修理工場。中から背の高い青年が出てくる。

「ハーイ」

 と、あいさつをかわすと、彼は、

「先月、バイクでケープヨークまで行ってきたんだ」

 といって、いくつかの情報を教えてくれた。

“バイク大好き人間”に、国境はない。シドニーのような大都会の中でさえも、こうして、見ず知らずの者同士がピピピピッと、気持ちを通じ合わせることができるのだ。

 シドニーのシンボル、ハーバーブリッジを渡りながら、これからの旅の楽しさを予感するのだった。

 

 シドニーから北に60キロほど行ったゴスフォードでは、スティーブ&ステファニー(ステフィー)のカップルを訪ねる。彼らにはロード編の「オーストラリア2周前編」のとき、北部のブルームで出会い、ダーウィンで再会した。奥さんのステフィーはドイツ人で、宝石のデザイナーをしている。突然の訪問だったが、2人はぼくを大歓迎してくれ、夕食後、ビールを飲みながらおおいに話した。

 翌朝、スティーブ&ステフィーと水着を持って、彼らの家から徒歩4、5分の、南太平洋のビーチに行く。砂浜で着替え、9月中旬の、まだ冷たい海で泳いだが、なんともいえない気持ちのよさだった。家に戻ると、海を見渡すバルコニーで朝食。そして北のブリスベーンを目指して出発する。ステフィーはスティーブの目の前でぼくをギュッと抱きしめ、ほほにキスして別れを惜しんでくれた。

 

大分水嶺山脈を越えて西へ、第1本目のダートに突入!

 シドニーから北に1000キロ、オーストラリア第3の都市、ブリスベーンに到着。ここではAMA(オーストラリアン・モーターサイクル・アドベンチャーズ)のロン・ステインさんとのうれしい再会。AMAは日本の・道祖神と提携しているバイク・ツアー会社で、ロンの世話になった日本人ライダーはきわめて多い。

 その夜は、ロンの家で泊めてもらう。奥さんのマリサは、お父さんがイタリア人、お母さんがイギリス人で、ゲルマンとラテンの血が混じりあった美人。ロンにかぎらないことだが、オーストラリア人の男というのは、外国人女性が大好きなのだ。

 

 ロンの手づくりの夕食をご馳走になる。骨つき肉にマッシュポテトとゆでたインゲンを添えたもの。夕食のあと、軽いタッチのビール、VB(ビクトリア・ビター)を飲みながら、ロン&マリサとおおいに話す。北クイーンズランドで、ブッチャー(肉屋)をやっていたロンのおじいさんの話がすごくおもしろかった。

 滅法、ケンカが強く、“強きをくじき、弱きを助ける”といった性格のおじいさんは、あるとき、アボリジニ(オーストラリアの原住民)いじめをするポリスを3、4人まとめて殴りとばし、牢屋にぶちこまれたことがあるという。ロンはそんなおじいさんの血を色濃く引いている。

 

 ロン&マリサに別れを告げ、ブリスベーンからR54(ワレゴ・ハイウエー)を西へ。グレート・ディバイディング・レインジ(大分水嶺山脈)を越える。大陸の東岸に並行して、南北に5000キロあまりも連なるこの山脈の西は、一望千里の広大な世界。毎日ただひたすらに、地平線を目指して走るようになる。空も大地も、超デッカイ世界なのだ。

 ブリスベーンから内陸のバーズビルに向かうこのルートは、1993年に、『豪州軍団』のみなさんと一緒にエアーズロックを目指して走ったルートなので、グググッとなつかしさが胸にこみ上げてくる。

 

 ローマ、チャールビルと通り、ブリスベーンから西に1200キロ、ウィンドラという人口が100人にも満たない小さな町に到着。ここでDJEBELの17リッター・ビッグタンクを満タンにし、左側のバックミラーを取り外す。ダートで万が一転倒しても、クラッチレバーのハンドル・バーへの取り付け部のブラケットにダメージを与えないためだ。

 ウィンドラから幅の狭い、1車線分の舗装路を100キロほど走ったところで左折し、「オーストラリア周後編」(ダート編)の記念すべき!?第1本目のダートに入っていく。バーズビル・ディベロップメンタル・ロードだ。オーストラリアには、このようなディベロップメント・ロード(開発道路)が何本もある。

 

DJEBELよ! あれがバーズビルの灯だ!!

 待ちに待ったダートなので、バーズビル・ディベロップメンタル・ロードを一歩、走りはじめると、もう、うれしくて、うれしくてどうしようもない。

「おい、DJEBELよ、ダートだ。ダートだ~!」

 と、ハンドルを握りながら、DJEBELに思わず声をかけ、その喜びを分かち合う。我ら“オフロードライダー”にとっては、やっぱり、なんたって、ダートが一番なのだ。

 

 交通量のほとんどないダートを自分一人で走り、DJEBELの巻き上げる土けむりをバックミラーで見ていると、ダートを走りはじめた喜びとともに、

「今、オーストラリアのアウトバックの世界に入り込んだのだ」

 という実感をも強烈に感じる。この広大無辺の世界を走りきるためには、自分と愛車のDJEBELが一心同体になってあらゆる困難を乗り越えていかなくてはならない。人の力に頼れないのが、オーストラリアのダートの世界。下手すると、命をも落としかねない厳しさを持っている。

 

 ダートに入り100キロほどで、ビトゥータに着く。何もないところに、ポツンと1軒ロードハウスがある。その中にパブもある。カウンターに座り4X(フォーエックス)のカンビールを飲んでいると、年老いた店の主人にいわれてしまった。

「誰もいない、こんなに広いところを一人で走って‥‥、もし何かあったらどうするんだ。生きては日本に帰れないゾ。悪いことはいわない、誰かと一緒に走りなさい」

「いやー、そうですね」

 と、困ったような顔をするカソリだった。

 

 ビトゥータを過ぎると、半月ほど前に降ったという大雨の影響で、路面はかなり荒れ、深いワダチができていた。コルゲーションや砂溜まりの区間もあった。

 雲ひとつない西の空に、日が落ちていく。地平線に沈む夕日が見事。ナイトランの開始だ。明るいうちは、それほど、どうということもない砂道も、ナイトランになると、とたんに走りにくくなる。砂にハンドルをとられ、転倒しかかり、何度も冷やっとするのだった。

 降るような星空のもとを走る。やがて地平線のかなたに、ポツンと灯が見えてくる。バーズビルだ。感動のシーン。だが町に着くまでが長い。さらに10キロも、15キロも走ってやっとバーズビルに到着。「バーズビルホテル」のパブで、まずはビールで乾杯。そのあとレストランでカンガルー肉のグリルを食べるのだった。

 

520キロのロングダートを激走!

 バーズビルでは、キャラバンパークに泊まった。いつもの、“カソリ流”で、たき火のわきでの、シュラフのみのゴロ寝。火が消えたあとの夜中の冷え込みが、けっこうきつかった。

 6時30分、日の出。今日も、雲ひとつない快晴だ。寝起きのシャワーを浴びる。キャラバンパークは貸切り状態。ほとんどキャンパーはいなかったが、それでも係官が4駆でやってきて、しっかりと、5ドル(450円)を徴収していった。

 

 DJEBELを走らせ、バーズビルの町をグルリとひとまわりしてみる。といっても、10分も走れば、町のすみずみまで行かれるのだが‥‥。

「バーズビルホテル」の前に建つ、1936年の“テッド&ピーター”と1939年の“シンプソン砂漠探検隊”の、シンプソン砂漠横断の両記念碑をしっかりと目にしたところで、シェルのガソリンスタンドに行く。ここで40ドルを払い、“デザート(砂漠)パス”をもらう。シンプソン砂漠横断には、このパスが必要。“デザート・パス”を手にし、シンプソン砂漠横断への夢がかぎりなく広がっていく。シンプソン砂漠は、バーズビルの西側に広がる大砂漠だ。

 

 9時、バーズビルを出発。520キロのダート、バーズビルトラックで南のマリーに向かったが、今度はきっと、シンプソン砂漠を横断してこの町に戻ってくるゾと、固く決心をするのだった。

 バーズビルトラックは、よく整備された、走りやすいダート。80から90キロぐらいで突っ走る。バーズビルから100キロぐらい走ると、シンプソン砂漠から東に延びる砂丘群を越える。その先は、一面に赤い小石をばらまいたようなストーニー砂漠。『豪州軍団』の面々と1993年にこのルートを走ったときは、何年ぶりという大雨で、平原は一面水びたしになっていたが、今回はカラカラ天気で、何本か渡った川には、一滴の水も流れていない。オーストラリアのダートは、大雨が降ると、その様相を一変するのだ。ドライとウエットでは、全然、違う。

 

 9時にバーズビルを出発、520キロのダートを走り、16時、マリーに到着。その間は無人の荒野がつづくが、途中に1ヵ所、ムンゲラニにロードハウスがあり、そこで給油と食事ができる。マリーからさらに78キロのダートを走り、アデレードへ。計3本875キロのダート走行は、「オーストラリア2周後編」(ダート編)のちょうどいい肩ならしになった。