賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの峠越え(27) 中国編(10):因幡の峠(パート1) (Ridges in Chuugoku Region)

(『月刊オートバイ』1993年8月号 所収)

 

 現在の鳥取県は昔の国名でいえば、因幡(いなば)と伯キ(ほうき)の2国が一緒になっている。鳥取県の東半分が因幡の国で、西半分が伯キの国ということになる。

 鳥取市や鳥取砂丘のある方が因幡で、倉吉市や米子市、境港市、そして中国地方の最高峰大山(1729m)のある方が伯キである。

 

 今回の鳥取県の峠越えでは最初に因幡、次ぎに伯キの峠を越えた。

 因幡といえば「因幡の白兎」で知られるように、神話の世界でもある。

 因幡は兵庫県の但馬と播磨、岡山県の美作に接しているが、扇ノ山(1309m)や氷ノ山(1510m)、那岐山(1240m)など西日本の名山がそびえる国境地帯にはいくつもの峠があり、絶好の峠越えのフィールドになっている。林道も何本もある。

「さー、行くぞ!」

 

ミカンの花の香り

 タイ→ラオス→ベトナム→カンボジア→タイと、スズキRMX250Sで1万キロあまりを走った「インドシナ一周」から帰国するとすぐに、因幡の峠越えに出発した。

 1993年5月26日のことだ。

 

 5時、夜が明けると神奈川県伊勢原市の自宅を出発。峠越えの相棒はスズキDJEBEL250だ。

 秦野中井ICで東名に入り、早朝の高速道を突っ走る。天気は快晴。うれしくなってしまう。富士山がよく見える。

 

 神奈川から静岡へとDJEBEL250で東名を走っていると、どこからともなく甘い香りが漂ってくる。頭がクラクラッとするほど。それはミカンの花の香り。とろけるような甘い匂いをかいでいると、

「あー、今、日本にいるんだ。日本に帰ってきたんだ」

 という思いにとらわれた。

 

「インドシナ一周」では苦労した。結局、1年がかりの旅になってしまった。バイクで走りまわれるようなところではないので、難しさも当然のことだが、それにしても壁が厚かった。

 その厚い壁に何度もはじき返され、そのたびに力をふりしぼってまた立ち向かっていったのだが、こうして「インドシナ一周」を成しとげてしまうと、胸の中にポッカリと大きな穴があいたような虚しさというか、寂しさを感じてしまうのだ。目の前にいつもあった、夢中になって追いかけていたものが、フーッと消えてなくなってしまったような気分。

 

 現在進行形だった「インドシナ一周」が過去形になってしまい、やりきれないような虚しさ、寂しさを感じて今回の「峠越え」に旅立った訳だが、こうして東名を走り、ミカンの匂いをかいで日本を実感したとき、ぼくの体にはまた新たな力がよみがえり、旅立った喜びを素直にかみしめることができた。

 

USスズキの思い出

 6時半、日本坂PA着。カップヌードルの朝食。そのあとカンコーヒーを飲んで出発。列車の途中下車ではないが、浜松ICで東名を降り、国道1号を走り、スズキの本社に寄っていく。

 二輪営業部の滝沢さん、安藤さんにお会いする。

 RMX250Sでの「インドシナ一周」では、ずいぶんとお世話になったので、お礼をいう。本社のみならずタイのスズキでも、ラオスのスズキでもお世話になった。

 

 滝沢さん、安藤さんにひとしきり「インドシナ一周」の話をしたところで、滝沢さんは2輪輸出部門の最高責任者の谷さんを呼んでくれた。

 なつかしい!

 谷さんとは思わず握手をかわしたが、20年ぶりの再会だ。

 

 1971年、ぼくはスズキ・ハスラーTS250で「世界一周」の旅に出た。出発点のパキスタンのカラチからカイバル峠を越えてアフガニスタンに入り、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビアと西アジアを横断し、アラビア半島のジッダからアフリカに渡った。

 

 スーダンのポートスーダンからアフリカ大陸を横断し、ナイジェリアのラゴスを出発点にしてサハラ砂漠を縦断。ニジェールのアガデス経由でサハラを縦断し、アルジェリアのアルジェに到着。日本人ライダーにとっては、初めてのサハラ縦断だった。

 

 そのあとヨーロッパに渡り、イギリスで仕事をして資金をつくり、船でカナダのモントリオールへ。アメリカ大陸を横断し、バンクーバーからアメリカに入り、シアトル、サンフランシスコと通りロサンゼルスに到着したところでUSスズキを訪ねた。

 

 USスズキではみなさんによくしてもらった。そのとき何かとぼくの面倒をみてくださったのが谷さんだった。

「野宿ばかりじゃ大変だったでしょ。たまにはホテルにでも泊ってゆっくりしたらいい」 といってホテルを用意してもらい、レストランで夕食をご馳走になった。

 

 ロサンゼルス到着時には、ぼくの所持金はほとんど底をついていたが、どうしてもアラスカ・ハイウェイを走ってアラスカのフェアーバンクスまでは行きたかった。

 それを知った谷さんはUSスズキのアメリカ人社長に話してくれた。すると社長みずから募金箱を持って社内を歩き、みなさんからのカンパを集めてくれたのだ。

「あれから20年以上もたっているなんて…」

 あまりの時間の速さに驚かされるとともに、あの時のUSスズキでの思い出がつい2、3日前のことのように鮮やかによみがえってくるのだった。

 

播磨の一の宮に参拝

 浜松のスズキ本社から国道1号を走る。浜名湖畔でひと休みしたあと、愛知県に入り、豊川ICで再度、東名に入った。時間は11時。

「さー、DJEBELよ、行くぞ!」

 高速道を西へ、西へとひた走る。

 

 東名→名神→中国道と走り、15時、中国道の山崎ICに到着。伊勢原から600キロ。山崎は揖保川中流の盆地の町。ここが「因幡の峠」の出発点になる。

 山崎からは国道29号を北へ。兵庫・鳥取県境の戸倉峠を目指す。揖保川の清流を見ながら走ると、あっというまに山中に入っていく。山々の緑が目にしみる。新緑から濃緑へと変っていく季節で、DJEBELに乗りながら日本の自然を楽しむのだった。

 

 山崎町から一宮町に入り、伊和神社を参拝。ここは播磨の一の宮。

 一宮という地名は日本各地にあるが、それは大半がそれぞれの国の「一の宮」に由来している。ぼくは一の宮に出会うと、バイクを停めて参拝するようにしている。

 兵庫県は旧国名でいうと播磨、但馬、摂津、丹波、淡路の5国から成っているが、それぞれの国には一の宮がある。いつの日か、全国の一の宮をめぐりながら日本を一周したいと思っている。

 

因幡街道の戸倉峠

 伊和神社のある一宮町から波賀町に入ると、国道29号の因幡街道の交通量はガクッと減る。気分よく走れる街道だ。

 引原ダムの音水湖を見ながら走り、兵庫・鳥取県境の戸倉峠へ。峠下が戸倉の集落。「戸倉スキー場」とか「新戸倉スキー場」といったスキー場の看板が目につく。戸倉峠周辺は、西日本でも有数の積雪地帯なのだ。

「流しソーメン」を名物にしている街道沿いの店も目についた。

 

 戸倉から戸倉峠への登りが始まる。樹林の中の峠道。勾配は急だ。グングンと高度を上げ、全長742メートルの戸倉トンネルで戸倉峠を越える。トンネルを抜け出ると、鳥取県の若桜町。山陽から山陰に入ったのだ。

 

 国道29号は兵庫県側では因幡街道と呼ばれている。その同じ街道が鳥取県側では播州街道と呼ばれている。播磨・因幡国境の戸倉峠は、因幡街道と播州街道の境にもなっている。

 山陽と山陰を結ぶ戸倉峠は昔からに重要な峠。とくに阪神と山陽を結ぶ最短路なので、戦国時代の末期、豊臣秀吉の軍勢は姫路城からこの戸倉峠を越えて、鳥取城を攻め込んだ。そんな歴史もある。

 

 戸倉峠は標高891メートル。戸倉トンネルは標高788メートルの地点を貫いている。鳥取県側の下りは、兵庫県側の登りに比べるとゆるやか。スーッという感じで下り、若桜の町に入っていく。ここは播州街道(若桜街道)の宿場として栄えた町だ。

 

 若桜鉄道の終点、若桜駅前の喫茶店でコーヒーブレイク。コーヒーを飲みながら、鳥取県の地図を広げる。ぼくにとっては至福の時だ。

「鳥取までやって来た」

 といった旅の情感にしばし浸った。

 コーヒーを飲み終えると、国道29号で鳥取に向かった。

 

夕暮れの鳥取砂丘

 17時30分、鳥取に到着。伊勢原から700キロだ。西へ西へと走ってきたので、日はまだ高い。すぐに鳥取砂丘に向かう。

 鳥取砂丘にはいままで何度か来ているが、日本の中でも、ぼくの好きなポイントのひとつだ。

 

 鳥取の中心街から5キロほどで鳥取砂丘に着く。駐車場のDJEBELを停め、砂丘を歩く。夕暮れの鳥取砂丘にはほとんど人影はない。息を切らして砂丘に登る。

「ハーハー」息を切らして、同じようにして砂丘を登ったサハラやアラビア半島、イラン、アタカマ砂漠…などの世界の砂丘が思い出される。

「あー、サハラに戻りたい!」

 鳥取砂丘の砂の壁を崩しながら登っていると、想いはサハラへと飛んでいく。

 

 砂丘を登りつめ、砂丘のてっぺんに立った。目の前には日本海が広がっている。日本海は水平線に近づいた夕日に照らされ、赤々と染まっている。しばらくは砂の上に座り込み、日本海に落ちていく夕日を眺めた。

 

 名残惜しい鳥取砂丘を後にし、国道9号で兵庫県境へ。20キロほど走ると、鳥取・兵庫県境の蒲生峠に到着。古くからの山陰道の峠で、ここは要衝の地。江戸時代には参勤交代の大名行列が越えた峠でもある。

 蒲生峠を貫く蒲生トンネルでいったん兵庫県に入り、そこで引き返し、今度は蒲生峠の旧道を越えて鳥取県に戻った。そして峠下の岩井温泉「大和旅館」に泊った。

 

 

■MEMO

伊勢原→岩井温泉 772キロ

今回の「峠越え」で越えたのは国道29号の戸倉峠と国道9号の蒲生峠の2峠。ともに鳥取・兵庫県境の峠だが、戸倉峠は因幡・播磨国境の峠、蒲生峠は因幡・但馬国境の峠ということになる。

 

 

■ワンポイントアドバイス

 5月号の「上信国境南部の峠」を読んでくれた群馬県南牧村の高校生からお手紙をもらった。

「じつは、大上峠から余地峠へのところで登場する店のオバちゃんに、『オートバイ』誌を見せたところ、こんな小さなお店を…といって、大喜びしていました。賀曽利さんにお礼の手紙を書きたいといってました。ぼくはこの店のオバちゃんをよく知っていますが、本当にいい人ですよ。熊倉では、マジで1軒しかない店で、ぼくもよく世話になっています。読者のみなさんいも、ツーリングの途中で、ぜひとも寄ってもらいたいと思います」

 お手紙、ありがとう。あのお店の親切なオバちゃんにも、どうぞよろしく伝えてくださいね。

 

 ところで熊倉というのは、上信国境の余地峠の、上州側の峠下集落で、ぼくはこの熊倉のような峠下集落が大好きなのだ。

 峠を越える前に、また越えたあとに、峠をはさんだ2つの峠下集落にはできるだけ立ち止まるようにしている。

 峠下の集落では、峠にまつわるいろいろな話を聞けるし、伝統的な文化が一番濃く残っているのも峠下の集落なのだ。ということで峠下の集落というのは「峠越え」のキーポイントになっている。

 

 

■カソリの温泉コーナー

 今回の「因幡の峠(パートⅠ)」では、国道9号の鳥取・兵庫県境に近い岩井温泉「大和旅館」に泊った。

 岩井温泉の歴史は古い。平安の昔、都から病に苦しむ藤原冬人が岩井の地にやってきた。すると神女があらわれ、「我は医王なり。汝を待つこと久し」といって杖で岩を打つと、温泉がコンコンと湧き出た。驚いた冬人が湯を浴びると、不思議なことに病はたちまちのうちに癒えたという。

 

 冬人はすぐさま浴場を開き、さらに医王の像を彫り刻んで湯栄山如来寺を建立してまつった。その後、冬人は「岩井の長者」として人々に慕われたという。

 

 今回の「温泉コーナー」では、この岩井温泉をモデルにして、ぼくがふだん、どのようにして温泉を探し、温泉宿を探しているかを順を追ってみなさんにお伝えしよう。

 

①どこの温泉にしようかな?

 ぼくはふだん、宿を予約して旅立つことはまずない。オートバイツーリングの毎日というのは、何が起きるかわからないので、自分の行動をしばることはできるだけしたくないのだ。そこでひと晩泊まる温泉地を決めるのはその日の昼過ぎか午後ということになる。夕方になって決めることもある。

 

 今回は中国道の山崎ICを降りた時点で決めた。とにかく鳥取県でなくてはならない。地図を広げ、鳥取県の東半分、因幡に的をしぼる。すると鳥取温泉や吉岡温泉、浜村温泉、鹿野温泉などがあるが、ぼくの目は瞬間的にパッと国道9号の蒲生峠近くにある岩井温泉をとらえる。「峠のカソリ」なので、当然、峠近くの温泉の方がいい。こうして岩井温泉が決まった。

 

②さて、宿だ…

 岩井温泉に決めたあとは宿だ。ぼくは宿泊はできるだけ温泉宿と決めているので、いつも『全国温泉案内』(JTB)を持ち歩いている。北海道から沖縄までの1800湯が紹介されている。この『全国温泉案内』の巻末には、それぞれの温泉地にある主な温泉宿の電話番号と宿泊料金がのっている。その料金を目安にして宿を決めるのだ。

 

③温泉宿に電話する

 中国道の山崎ICを降りたのは15時だったが、以上のようにして決めた岩井温泉の「大和旅館」に電話すると、なんともラッキーなことに泊れることになった。料金を確かめると1泊2食で8500円。いいだろう。しかし、このようにして最初の電話で宿が決まることはあまりない。1人ではダメだとか、満室だといって断られたり、料金で折り合わなかったり…。そういうときは何軒にも電話をかけることになる。

 

「大和旅館」のおかみさんには、「遅くても7時までには着きますから」といって、夕食の用意もしてもらう。こうして宿が決まると、その後の時間は目いっぱい走りまわることができるのだ。