「オーストラリア2周」前編 第11回:ケアンズ→ブリスベーン
(『月刊オートバイ』1997年11月号 所収)
オーストラリア最北端のケープヨーク往復の2000キロを走り終え、ケアンズに戻ってきた。そしていよいよ、「オーストラリア一周」のゴール、シドニーを目指して太平洋岸を南下していく。
その途中では、最後に、もう一度、どうしてもあの広大なオーストラリアのアウトバックの世界を見たくなり、太平洋岸の町タウンズビルから内陸の町テナントクリークまでの往復3000キロを走るのだった。
「オマエを逮捕する!」
ケアンズからR1のブルースハイウエーを南へ。スズキDJEBEL250XCは、ケープヨーク往復2000キロのダート走行をものともせずに、いつものような快調なエンジン音を響かせて走る。
「ありがとうDJEBELよ」
と思わず声をかけてしまう。
右手にはグレート・ディバイディング・レインジ(大分水嶺山脈)の山々が連なる。海岸と山々の間は、一面のサトウキビ(シュガーケーン)畑になっている。“ケーンレイルウエー”と呼ばれるトロッコ列車がガッタンゴットンと、収穫したサトウキビを満載にしてミル(製糖工場)に向かっていく。
ケアンズから100キロ南のイニスフェイルという町を過ぎたところで、事件!?が起きた。
交通量がガクッと少なくなったのをいいことにDJEBELを止め立ションした。ところがそのとき、何とも運の悪いことにパトカーが通り過ぎたのだ。パトカーは急ブレーキをかけ、Uターンして戻ってくる。
2人の警官はすごい形相で、
「ここで何をしていた」
と怒鳴り声をあげると、手錠を取り出し、
「アレストYOU(オマエを逮捕する)ゴーTOジェイル(監獄行きだ!)」
というではないか。
2人の警官の真剣な顔つきを見て、心底、ヤバイと思ったがどうしようもない。ついつい、日本的感覚で立ちションをしてしまったことを悔やんだ。
とにかく2人の警官に平身低頭してあやまりつづけたが、それが功を奏し、警官の表情はやわらぎ、手錠をひっこめた。助かった!
「免許証を見せなさい」
といわれ国内の免許証と合わせて国際免許証を差し出した。警官は国際免許証はチラッと見ただけで、そのあと日本の免許証を興味深そうに見る。
「ハブ・ア・ナイスホリデー」
の言葉を残し、警官の乗ったパトカーは走り去る。ここまで一度も捕まっていないのに、危うく立ちションで捕まるところだった。ほんとうに助かった。
迷走カンガルーだー!
ケアンズから350キロ南のタウンズビルでR1をいったん離れ、R78→R66で内陸に入っていく。トレンズ・クリークという小さな町のキャラバンパークで泊まる。レストランで夕食にし、そのあとパブでビールを飲みながら店の主人のレイズの話を聞いた。
おもしろかったのは、この町のゴルフ場の話し。人口100人にも満たない小さな町なのにここには9ホールのゴルフ場があるのだ。その入会金はたったの5ドル(約450円)。レイズは日本だったら、何万ドルも払うのだろうといって笑う。彼は日本のゴルフ場の会員権のバカ高さをよく知っていた。
大分水嶺山脈を越え、ヒューエンデン、リッチモンドといった町々を通り過ぎると、前方には一望千里の大草原が広がる。草の海は風に吹かれて揺れる。
360度の地平線。ただひたすらに地平線を目指して走りつづける。強烈な太陽光線が肌に突き刺さってくるようだ。
夕方、鉱山町のマウント・アイザに到着。そこからナイトラン。クイーンズランド州とノーザンテリトリーのボーダー(州境)の町、コーモウエルに向かったが、その間ではひんぱんにカンガルーが飛び出してきた。
カンガルーと衝突したらそれこそ命にかかわることなので、ものすごい恐怖心はあるが、またそれとは別に、カンガルーがとびだしてくるたびに、
「おー、これだよ、これ!」
と、再びオーストラリアのアウトバックの世界を走っているという満足感に浸るのだった。
この間で一番ヒヤッとしたのは、“迷走カンガルー”の飛び出しだった。右から飛び込んできたのだが、からくもハンドルでかわした。ところがその“迷走カンガルー”は左側の路肩で急ブレーキをかけ、何を思ったのか、Uターンして、今度は左側から飛び込んできた。まったく予期できなかったカンガルーの動きにあわや衝突の間一髪のピンチ。急ブレーキをかけたDJEBELのフロントタイヤ、スレスレにカンガルーはジャンプしていった。
コーモウエルのキャラバンパークで泊まり、翌朝、ノーザンテリトリーみ入っていく。暑さは一段ときつくなり、熱射病でブッ倒れるのではないかと心配になるほど頭がクラクラしてくる。バークレー・ホームステッドのロードハウスに着いたときは、冷たい水とコカコーラを何本もガブ飲みした。
こうして、タウンズビルから1500キロの内陸の町テナントクリークに着いた。ここを折り返し地点にして、またタウンズビルに戻るのだ。
YHのバーベキュー
テナントクリークでは、ユースホステルに泊まった。YHとはいっても、バックパッカーズのような自由な雰囲気のところだった。ここでなんと、カブでまわっている“ベンジー”に再開する。彼とはアデレードのバックパッカーズの「ラックサッカーズ」で会っている。
「いやー、いやー」
と何度も握手をかわす。ベンジーは日本からカブを送り出したので、日本の国際登録ナンバー。それも“1”なのである。
そのほか自転車でまわっているチャリダーの“チャリ久保”とグレハン(グレイハウンド)のバスでまわっているバスダーのレイコさんがここに泊まっていた。日本人旅行者同士、すぐさま意気投合して、
「今晩は一緒にバーベキュウーパーティーをしよう」
ということになり、さっそくスーパーに買い出しに行く。Tボーンステーキやチキン、ソーセージ、野菜、ワイン、ビールをゴッソリ買って戻る。
ぼくが肉を焼き、レイコさんがサラダをつくり、ベンジーが米の飯を炊き、チャリ久保がみそ汁をつくる。さっそくカンビールで乾杯! 肉もサラダも食べ放題のボリューム。ビール、ワインをチャンポンで飲むほどに話しのボルテージが上がっていく。
ベンジーは酔っぱらったふりをして、
「オレの嫁さんになってくれ」
と、レイコさんを強引に口説く。チャリ久保も負けずに、
「自分も本気だ!」
とかなんとかいいながら、レイコさんにプロポーズする。なんとレイコさんは一夜にして、2人の男からプロポーズされたのだ。レイコさんはそれほどチャーミングな女性。歳は22、3といったところか。
レイコさんは賢いのだが、ベンジーにはTシャツに、チャリ久保には新しい軍手に、
「私に追いついたら、結婚してあげる-REIKO」
と、マジックで書いた。レイコさんは夜行バスでテナントクリークから670キロのマウントアイザに向かうのだが、カブとチャリではどんなに頑張っても追いつけるはずがない。
楽しかったバーベキューパーティーは午後10時でお開きになる。レイコさんは22時30分発のグレハンでマウントアイザに向かうのだ。我々、男どもはベンジーのカブに3人乗りしてグレハンのバスターミナルにレイコさんを見送りに行く。
「レイコ、気をつけて行けよ」
と、投げキスを送りながらの盛大な見送りだ。恥ずかしがって顔を赤らめるレイコさん。まわりのオージーたちは笑っている。定刻どおり、グレハンの大型バスはターミナルを出発し、夜道を走り出していった。
レイコを追いかけろ!
翌朝、ベンジー、チャリ久保と一緒に朝食を食べ、2人に別れを告げてマウントアイザへ。600キロを走り、夕方、マウントアイザに到着。バックパッカーズに行くと、これはかなり期待していたことだったが、レイコさんに再会することができた。さっそく彼女と夜の町を歩き、マクドナルドでハンバーガーを食べ、コーヒーを飲みながら話した。
「ベンジーもチャリ久保もバカだねー。レイコさんに追いつこうと思ったら、カブもチャリも捨ててグレハンで乗ればよかったのに」
と、話題の中心はもっぱらベンジーとチャリ久保のことだ。
翌朝は、バックパッカーズの食堂でレイコさんに朝食をご馳走になり、8時発のタウンズビル行きのグレハンに乗る彼女と一緒にバスターミナルへ。
「レイコさん、また、タウンズビルで会おう。これからグレハンと勝負するからね」
と彼女にいって、ぼくはグレハンよりも15分前の7時45分にマウントアイザを出発した。タウンズビルまでの900キロを一気走りするのだ。レイコさんはタウンズビルのYHに泊まることになっている。グレハンのタウンズビル到着は11時間後の19時。それより2、3時間ぐらいまでの遅れはよしとしよう。
「頼むゾ、DJEBELよ」
と、昇ってまもない朝日に向かって突っ走る。丘陵地帯のワインディングを駆け抜け、真昼の大平原地帯の熱暑地獄を突破し、最後に夕暮れの大分水嶺山脈を越え、18時50分にタウンズビルに着いた。やったゼー!
すぐさまYHに行く。レイコさんはまだ着いていなかった。
「レイコに会いたい!の一心でグレハンをブッチギリました。夕食、一緒に食べにいこう」
と、レイコさん宛のメッセージをレセプションのおばチャンに手渡す。レイコさんがYHに到着したのは、それから1時間ほどたってからのことだった。
「グレハンはカソリさんを追い抜くことができなかったのね」
と、レイコさんは驚きの表情だ。彼女と町に出、メキシコ料理店で夕食にする。ワインで乾杯! 900キロの一気走りで体はクタクタなのに、気分は不思議なほどウキウキしていた。これというのも“レイコ効果”なのだろう。
YHに戻ると、これから北へケアンズからケープヨークまで行くというレイコさんに、「これでほんとうに最後だね」
と、別れを告げた。
翌朝、6時にYHを出発。なんともうれしいことに、レイコさんは早起きしてぼくを見送ってくれる。彼女のやわらかな手をギュッと握りしめ、さよならをいって走り出す。YHの前で手を振るレイコさんの姿は、あっというまにバックミラーから消える。胸の中にポッカリと穴のあいたような寂しさをかみしめながら、R1のブルース・ハイウエーを南へ、南へ、ブリスベーンへと走るのだった。
■ワンポイント・アドバイス
今月号で走った太平洋岸のタウンズビルから内陸のテナントクリークまでのルートのうち、マウントアイザからコーモウエルまでの200キロがナイトランだった。その間では、本文でもふれたように“迷走カンガルー”を含めて10回以上ものカンガルーの飛び出しがあった。
今回の3万6000キロに及ぶ「オーストラリア一周」では1万キロ以上のナイトランをしたこともあって、トータルすると70回以上のカンガルーの飛び出しがあったが、このマウントアイザ→コーモウエル間が一番のカンガルー地帯だった。
カンガルーは日が落ちると、モロに車やオートバイのライトをめがけてジャンプしてくる。そのときの恐怖感といったらなく、ニアミスのときなど、いつまでも体がガタガタ震えてしまうほどだ。夜間でも時速100キロ前後で走るので、危険このうえもない。カンガルーとのクラッシュで命を落とすドライバーやライダーは少なくない。
カンガルー対策として車は頑丈な“ルー・バー”をとりつけているが、それでも大型のカンガルーとクラッシュすると、車がふっ飛ばされることがある。そのため、オーストラリア人のドライバーというのは、その怖さを知っているので、カンガルーにはすごく怯え、夜間になると幹線道路でもガクッと交通量が少なくなるほどだ。
ぼくが平気な顔して夜間もガンガン走っているので、出会ったオーストラリア人にはよく、
「おー、カミカゼ!」
といわれたものだ。
今回の「オーストラリア2周」で7万2000キロ走った。
全部を合わせると、120回以上のカンガルーの飛び出しがあった。
1度もクラッシュしなかったのはすごくラッキーだったが、それはDJEBELの大型ライトによるところが大きい。DJEBELのライトのよさは、単に明るくて遠くまで照らすだけでなく、照射範囲がきわめて広いのだ。そのため、カンガルーが路肩を飛び出す瞬間をキチッとキャッチできる。その効果は絶大だ。
■1973年の「オーストラリア2周」
今回走ったR66は、1973年の「オーストラリア2周」のときにも走った。
そのときは太平洋岸のロックハンプトンからエメラルド、ロングリーチと南回帰線上の町々を通り、マウントアイザへ。さらにコーモウエルからノーザンテリトリーに入り、今回と同じようにテナントクリークの町まで行った。
現在でこそ、R66というのは太平洋岸と広大な内陸を結ぶ重要な幹線で、全線が2車線の舗装路になっているが、当時はかなりの区間がダートだった。
このR66のダートでは、なんともはや苦労を重ねて走った。
路面が乾いていれば、何ら問題のないのだが、すでに北部地方は雨期に入り、雨にやられたダートはツルツルヌタヌタ状態になっていた。
まったく平坦なところだと、なんとか走れるのだが、ゆるやかな登りになると、ツルツル滑って走れなくなる。両足をバタバタさせて、必死の思いで坂を登ったのだ。気の毒だったのは大型のトレーラーで、坂の途中でスタックし、全く動けず、ドライバーはあきらめ顔だった。
ヌタヌタ道のR66との戦いははてしなくつづいた。ネチネチした泥がフェンダー内につまり「オーストラリア一周」のオートバイ、スズキ・ハスラーTS250は泥だるまになって動けなくなる。仕方なくフロントもリアもフェンダーをはずし、ヨタヨタしながら走ったのだ。
今回、R66の2車線の舗装路を走りながら、1973年の「オーストラリア2周」のR66での悪戦苦闘が思い出されてならなかったが、1本のルートの変化に23年という年月の流れを見るのだった。
それと、R66でのもうひとつの思い出は、野宿である。
1973年の「オーストラリア2周」では、大半が野宿だったが、R66を走ったときは、マウントアイザからコーモウエルを通り、ノーザンテリトリーに入ったところで野宿した。ぼくの当時の野宿の仕方というのは、今と同じで地面にシートを広げその上でシュラフのみで寝るというものだった。
夜中に体がやけにチクチクするので目が覚めたが、なんと、シュラフの中は気持ち悪くなるほどのアリ‥‥。アリの巣の上で寝てしまったのだ。このアリが獰猛で、体に食らいつくと、なかなか離れない。プラプラぶらさがっているアリを1匹づつむしりとったが、そのあとがヒリヒリ痛んだ。痛みだけではなく、臭いがきつい。ツーンと鼻につくのだ。シュラフを何度もパタパタさせてアリをとったが、このいやな臭いはその後、何日もシュラフに残った。
結局、そこではもう寝る気にもならなかったので、荷物をまるめ、ハスラーのエンジンをかけ、真夜中のR66をテナントクリークへと走ったのだった。