賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」前編:第10回 ケアンズ→ケアンズ

 (『月刊オートバイ』1997年10月号 所収)

 

 太平洋岸のケアンズからは、オーストラリアの大陸最北端の地、ケープヨーク(ヨーク岬)へ。その間の1000キロは、ほぼ全線がダートなのだ。

 ケープヨークへの道は、オーストラリアでも有数のハードなダートコースで、2輪4輪のオフロードファンのメッカになっている。

 オフロードバイク、4駆のグループが続々とケープヨークを目指していたが、総勢18名の日本人ライダーのグループにも出会った。彼らとのキャンプは忘れることができない!

 

“マジック”の店で

 ケープヨークへの出発点のケアンズでは、「ウェニー・レオナルド・モーターサイクル」でスズキDJEBEL250XCのタイヤ、チェーン、スプロケットの交換をした。

 このショップのオーナーのレオナルドさん(愛称マジック)は、オートバイが大好き。オーストラリアン・サファリをはじめとして、エンデューローやモトクロス、ロードレースと幅広くレースに参戦し、好成績を残している。

 ケープヨークにも、何度もオートバイで行ったことがある。地図を広げ、ケープヨークへのいろいろなルートの情報を彼から得ることができた。

 

 そればかりではない。ショップの一角には、プライベートのワークショップを持っている。それを見て、あっと驚いてしまうのだが、そこにはレストアした旧車が新車同然の輝きで並んでいるのだ。すごい!

 1962年型マチレス650や68年型のトライアンフ、69年型のBSAロイヤルスター、73年型のカワサキZ1‥‥と、すべてスクラップ同然のを見つけてきて、それをつくり直したものばかりなのだ。

「これが私の一番のホビー!」

 と、レオナルドさんはこともなげにいうが、20人以上もの従業員のいる大きなショップの社長業をしているので、ホビーのほうは、仕事が終わったあと、一人、プライベートのワークショップにこもってやるという。

 

 やはりオートバイが大好きな奥さんと3人でコーヒーを飲みながら話したが、

「マジック(レオナルドさんの愛称)ったら、いつまでたっても子供のような人なんだから」

 と、奥さんは笑いながらそういっていた。

「ウェニー・レオナルド・モーターサイクル」は新車のみならず中古車の在庫も豊富なので、ここでオートバイを買って「オーストラリア一周」に旅立つ日本人ライダーも多い。

 レオナルドさん夫妻の見送りを受け、昼過ぎにケアンズの町を出発するのだった。

 

ケープヨークに出発!

 ケアンズから北に向かって走りはじめる。DJEBELのハンドルを握りながら、

「さー、行くゼ! 目指せ、ケープヨーク!」

 と、カソリ、腹にグッと力を入れ、気合を入れた。

 熱帯雨林の緑濃いキュランダ山地の峠を越え、マリーバの町を通り、ケアンズから250キロのレイクランドに着く。ここからいよいよ、はてしなくつづくロングダートに入っていく。

 レイクランドのロードハウスでジェベルの17リッタータンクを満タンにし、レストランで冷たいコカコーラを飲みながらハンバーガーを食べ、ケープヨークへのダートを走り出す。

 

 ケープヨーク半島の幹線、ペニンスラー・ディベロップメンタル・ロードを行く。道幅は広い。交通量もけっこうある。大型トレーラーのロードトレインとすれ違うと、ものすごい土煙りに見舞われる。一瞬、何も見えなくなる。ところどころ、砂深い。洗濯板状のコルゲーションのきつい区間もある。

 日が暮れる。ダートナイトラン。あまり気分のいいものではない。速度を10キロほど落としてカンガルーの飛び出しや牛との衝突に気をつける。

 19時、ケアンズから400キロのハンリバー・ロードハウスに到着。キャラバンパークに泊まる。レストランで冷たいビールをキューッと飲んだあと、Tボーンステーキの夕食にする。

 

 ここで、10数台の日本人ラーダーがケープヨークに向かっていったという情報を得る。それも、つい昨日のことだという。きっと、“七夕ケアンズ組”に違いないと思った。

“七夕ケアンズ組”というのはオーストラリを走りまわっている日本人ライダーたちが、7月7日の七夕の日にケアンズに集合し、ケープヨークまで一緒に走ろうというグループなのだ。

 旅の途中で出会った日本人ライダーからは、何度となく、その話しを聞いたことがある。うまくすれば、明日中にも、彼らに追いつけるのではないかと期待するのだった。

 

七夕ケアンズ組

 ハンリバー・ロードハウスのキャラバンパークでの夜明け。シュラフから這いだして起きると、すばやくトイレ、シャワーとすませ、チーズサンドの朝食を食べ、6時半に出発。早朝の空気がすがすがしい。森の向こうに昇る朝日を見ながら走る。

 道はアップ&ダウンの連続。まるでジェットコースターに乗っているようなものだ。コルゲーションがきつい。スピードを落とすとガタガタガタガタとものすごい振動にやられるので、80キロ以上をキープし、高速で突っ走る。

 

 マスグレイブを通り、10時、ケアンズから550キロのコーエンに到着。ここはちょっとした町になっている。町中のキャンプ場でケープヨークに向かう4駆の日本人グループに出会った。彼らはなんと“七夕ケアンズ”の車組で、前夜はここで全員がキャンプし、オートバイ組は一足先に出発したという。

 11時半、ケアンズから620キロのアーチャーリバー・ロードハウスに到着。ケープヨークへの最後の給油ポイント。ここでついに“七夕ケアンズ組”に追いついた。総勢18人の“七夕ケアンズ組”のオートバイがズラズラッと並んだ光景は壮観!

“七夕ケアンズ組”の面々とは狂喜乱舞といった感じで出会いを喜びあった。

 

 18人の中にはGOTO姉やケンちゃんらのダーウィン組、モトさん、ゴリラーマンのキャサリーン組、アリススプリングス組の隊長がいて、うれしい再会となった。

 そのほか右足を骨折してギブスを巻いたままで走っているガンちゃん、プレンティー・ハイウエーのダートで骨折し、つい最近まで松葉杖をついていたマツバ、やはりオーストラリアで事故り、日本でリハビリして帰ってきたばかりのコースケ、シンプソン砂漠で遭難しかけた女性ライダーのゲンタ、スポークを10本も折り、ヒッチバイクでケアンズにたどり着いた女性ライダーのユキちゃん‥‥と“七夕ケアンズ組”は多士済々のツワモノ軍団だ。

 

 みなさんと一緒にキャンプしようということになり、アーチャーリバーを出発。ケアンズから670キロ地点で、カーペンタリア湾岸の鉱山町ウエイパに通じる幹線のペニンスラー・ディベロップメンタル・ロードと分かれ、ケープヨークに通じる悪路のテレグラフロードに入っていく。

 ケアンズから740キロ地点で、ウエンロック川にさしかかる。川幅2、30メートルほど。橋はかかっていない。川の手前でDJEBELを止め、歩いて川を渡り、偵察する。水量が多く、流れも速い。深さは膝上といったところだ。川を渡ったところにザックを置いて戻り、今度は空身で川渡りをする。

「さー、行くゾ!」

 と、気合一発、転倒しないように、エンジンを水没させないように気持ちを集中させて川を渡りきる。成功!

 

 ウエンロック川の岸辺でキャンプする。焚き木を集め、火を燃やす。同行の4駆がゴソッとカンビールを積んでいるので、それを分けてもらい、カンビールで「ケープヨークに乾杯!」をくり返す。

 焚き火を囲み、カンビールを飲みながら“七夕ケアンズ組”の面々と話した。みなさんの話しがおもしろい。

 1000キロ近い無給油区間のあるナラボー平原を横断したジョーユーは、“カソリ式”の野宿にトライしようと、テントなしで走った。ところが途中でさんざん雨にやられ逃げ場もなく、ひどい目にあったという。

 

 女性ライダーのゲンタもナラボー平原を横断したが、やはり雨にやられ、ズボズボの泥道と大格闘した。最後にはすこしでも荷物を軽くするために、余分なガソリンと水も捨てたほど。だが、しっかりとカンビールだけは持って走ったという。

 女性ライダーのユキちゃんはぼくの『50㏄バイク日本一周』と『50㏄バイク世界一周』の2冊を読んで旅に出たという。なんともうれしい話ではないか。

 4駆のドライバーのノリさんは、DR350でシンプソン砂漠を横断した。地図を広げ、懐中電灯の明かりで照らしながらシンプソン砂漠横断ルートのいろいろな情報を教えてくれた。ぼくはこの「オーストラリア一周」のあと、いったん日本に帰り、2度目の「オーストラリア一周」をするのだが、まっさきにシンプソン砂漠を横断した。このときノリさんから得た情報が大きな力になってくれた。

 

ケープヨークに立つ!

“七夕ケアンズ組”は、翌日はエリオット滝のキャンプ場でキャンプする予定になっていた。ぼくは一足先に出発し、オーストラリアの大陸最北端の地ケープヨークまで行き、そこからエリオット滝まで戻り、もう一晩、みなさんと一緒にキャンプすることにした。

 翌朝は夜明けとともに出発。40キロほど走ると、テレグラフロードの旧道と新道の分岐点。よりハードなダートの旧道を行く。道幅は狭くなり、路面には深い溝ができている。ズボズボの深い砂道もある。ガンショット川など何本もの川を渡る。

 

 カジバに乗るオランダ人のレイ、DR600に乗るオーストラリア人のグレンに出会う。しばらく一緒に走ったが、2人とも重装備。軽装備のぼくのDJEBEL250XCのほうがはるかに速いので、2人に別れを告げ、ケープヨークへと急ぐ。なんとしても、ケープヨークに立ち、来た道を今日中にエリオット滝まで戻りたい。

 ケープヨーク半島最大の川、ジャーディン川をフェリーで渡る。フェリー代は往復30ドルと目の玉が飛び出るほど高い。まー、仕方ないか。それよりも、問題は帰りの便で、夕方の5時で止まってしまう。なにがなんでも、それまでに戻ってこなくてはならない。

 12時、ケアンズから940キロのバガマの町に着く。冷たいコーラをガブ飲みし、給油し、ケープヨークへ。あと30キロほどだ。

 

 岬の周辺は緑濃い熱帯雨林。ジャングルの世界。海はまったく見えない。道の行き止まり地点の駐車場にDJEBELを止め、熱帯雨林の中の遊歩道を歩く。10分ほど歩くと、突然、広々とした砂浜に出る。海の青さが強烈だ。そこから北に突き出た岩山の先端がケープヨーク。岩山の尾根道を歩く。汗が吹き出してくる。

 ついに立ったゾー! 大陸最北端のケープヨークだ! まさに感動の瞬間。そこには、「みなさんは今、オーストラリア大陸の最北端の地に立っています」

 と、英語で書かれてあった。

 

 ケープヨークからは、すぐさま、来た道を引き返す。バガマでもう一度、給油し、ジャーディン川のフェリー乗り場へ。セーフといった感じで、5時前に到着した。ここでXR600に乗るオーストラリア人のアンドリューに出会い、一緒にエリオット滝のキャンプ場に行く。

 日が暮れる。きついダートナイトランの連続。やっとの思いでキャンプ場に着いたのは夜の8時過ぎ。“七夕ケアンズ組”の面々と、再会を喜びあった。

 翌朝、ぼくとアンドリューはケアンズを目指して南へ、“七夕ケアンズ組”の面々はケープヨークを目指して北へと走っていった。

  

■ワンポイント・アドバイス■ ケープヨーク往復

 太平洋岸のケアンズを出発点&終着点にしてのケープヨーク往復2000キロは「オーストラリア一周」のハイライトシーンといってもいい。

 胸がドキドキワクワクする世界だ。

 メインルートを行くとケープヨークまでの片道1000キロのうち、760キロがダート。ケアンズから250キロのレイクランドを過ぎるとダートに入っていくが、ケアンズから750キロ地点のペニンスラー・ディベロップメンタル・ロードとケープヨークに通じるテレグラフロードとの分岐点までは、それほど問題なく走れる。

 

 テレグラフロードに入ると、道の状態はガクッと悪くなり、何本もの川を渡る。川渡りは要注意だ。急に深くなっているところがあるので、オートバイをいったん止め、自分の足で歩いて渡ってチェックする必要がある。不用意に川に突っ込み、マシンを水没させてしまうと、そのあとがなんともやっかいだ。

 テレグラフ・ロードには、南と北の2区間にわたって、新道(バイパスロード)と旧道に分かれているが、新道をたどると距離が長くなる。また旧道は、北の旧道がかなり荒れている。ということで、南の区間では旧道を走り、北の区間では新道を走るという2輪、4輪が多い。

 

 最大の無給油区間はアーチャーリバーのロードハウスとバガマの町までの間で、新道経由と旧道経由でその距離は違ってくるが、350キロから400キロほどである。17リッタータンクのDJEBELだと予備のガソリンを持つ必要はなかったが、タンク容量の小さなオートバイだと、この間は予備のガソリンを持たなくてはならない。食料はアーチャーリバーのロードハウスとバガマの町のスーパーマーケットで手に入る。

 ケープヨーク半島は10月下旬から5月上旬までが雨期。この間の走行は不可能に近い。シーズンは6月から9月までの乾期ということになる。またケープヨーク往復に要する日数だが、一週間あればできるが、余裕をみて10日間ぐらいがベストだ。

 

■1973年の「オーストラリア2周」

 1973年の「オーストラリア2周」では、ケープヨークどころか、ケープヨーク半島にも入っていけなかった。ケープヨーク半島といったら、まさにアドベンチャーの世界で、そう簡単にオートバイで走れるようなところではなかった。

 また、それ以上に大きく変わったのは、ケープヨークへの出発点になったケアンズの町だ。1973年の「オーストラリア一周」で立ち寄ったケアンズの町というのは、ほんとうに小さな田舎町。それが今では日本人観光客であふれかえる観光の町になっている。

 日本からの直行便がケアンズに毎日飛んでいる。町には日本語を話せる店員のいる土産物屋が並び、日本食のレストランやラーメン屋が何軒もある。23年前の「オーストラリア一周」と比べると、アッと驚く変わりよう。ケアンズはこの23年間で、オーストラリアでは一番変わった町といえる。

 

 ケアンズの周辺には、行けども行けどもといった感じで、広大なサトウキビ畑がつづいている。それは昔も今も変わらない風景なのだが、1973年の「オーストラリア2周」のときには、あちこちで収穫間近のサトウキビ畑を焼いていた。夜が最高にきれいだった。夜空をまっ赤に焦がす巨大な炎は、アラビア半島の夜空を焦がす油田のガスを燃やす炎を思わせた。

 それが今では、サトウキビ畑を焼くのは大気を汚染するということで禁止され、見ることはできない。

 

 今回、ケープヨークからケアンズに戻ると、グレート・バリアリーフのグリーンアイランドに渡った。グレート・バリアリーフというのは、世界最大の保礁(海岸から離れて、これに並行して発達するサンゴ礁)で、その長さはなんと2000キロにも及んでいる。 グリーンアイランドでは、船の底にガラス窓のついたグラスボトムボートに乗り、サンゴ礁の海の世界を眺めた。それはもう、「すばらしい!」の一言につきる。

 色とりどりのサンゴや極彩色の熱帯魚を見ていると、ふと、竜宮城にやってきたような錯覚にとらわれた。

 1973年の「オーストラリア2周」のときにも、やはりケアンズからグリーンアイランドに渡り、グラスボートでサンゴ礁の海をのぞいたが、自然環境の保護には力を入れているオーストラリアなので、その美しさは昔も今も変わりない。