賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

オーストラリア2周(前編):第1回 シドニー→メルボルン

(『月刊オートバイ』1997年1月号 所収)

 

「メッタメタに走ってやる!」

 これがカソリの「オーストラリア一周」、一番の目的。

 みなさんもきっと、そんな気持ちになったことがあると思うが、ぼくは無性にオートバイで長距離を走りたくなったのだ。

 それにはオーストラリアは、ぴったりのフィールド。

 我が愛車スズキDJEBEL250XCを目いっぱい走らせて、自分の体がブッ壊れるくらいまで走りつづるのだ。ぼくの「オーストラリア一周」は距離への挑戦。

「さー、やるゾー!!」

 

うれしい出発

 東京・文京区の共同印刷『オートバイ』校正室で、出張校正を終えた編集の上野賢一さんは一人、ぼくを待っていた。

「やー、ゴメン、遅くなって」

 と、カソリ、平謝りに謝って上野さんに「峠越え」の連載原稿を渡す。この瞬間に、ぼくの「オーストラリア一周」がはじまった。

 わかってもらえるだろうか‥‥、このときのうれしさを!

「これで、行ける!」

 といった気分なのだ。

 出発までの毎日は、時間に追われて超多忙。すべてのことを出発日までに終わさなくてはならないからだ。

 何本もの原稿を死にものぐるいで書きまくったが、それができたのも、「オーストラリア一周」という大きな目標があったからなのである。

 

 1996年5月25日、成田発12時00分のSQ(シンガポール航空)997便で日本を出発。シンガポールでSQ221便に乗り換え、「オーストラリア一周」のスタート地点シドニーには5月26日の早朝、5時30分に到着した。

 シドニー中央駅から電車で30分、パラマタの町へ。東京でいえば、東京駅から中央線に乗って立川へ、といった感じだ。そのパラマタ郊外にスズキ・オーストラリアの2輪オフィスがある。日本から送り出したDJEBEL250XCとの再会だ。

 スターターのセル一発で、エンジンがかかる。いつでも走り出せるように、整備しておいてくれたのだ。軽快なエンジン音に、気持ちは早くも「オーストラリア一周」へと飛んでいく。

 DJEBEL250XCの17リッター・ビッグタンク、ビッグライトを大きな武器にして、「オーストラリア一周」に挑戦するのだ。

 出発前夜は、スズキ・オーストラリアの藤照博さん、工藤隆夫さんにパラマタのチャイニーズ・レストランですっかりご馳走になった。食事をしながら、オーストラリアについての情報、アドバイス等々、いろいろな話を聞かせてもらった。それはすごくありがたいことだった。

 

「オーストラリア一周」の第1日目

 5月28日午前9時、スズキ・オーストラリアのみなさんに見送られて、「オーストラリア一周」に出発だ。

 DJEBEL250XCのエンジンを始動させ、記念撮影を終えたところで走りだす。抜けるような青空。まるで、「オーストラリア一周」を祝ってくれるかのような空の青さ。

 

 まずは肩ならしとでもいおうか、シドニー周辺をまわる。

 R31のヒュームハイウェーを南下する。片側2車線の道。オーストラリアの2大都市シドニーとメルボルンを結ぶ幹線なので、交通量が多い。

 制限速度は110キロだが、これから先の長丁場を考えて、100キロくらいの速度で走る。

 ゆるやかな丘陵地帯に入ると“カンガルーに注意”の標識を見るようになるが、それがいかにもオーストラリアらしい。

 

 シドニーから200キロ、グルバンの町を過ぎたところで、R32からR23に入り、オーストラリアの首都キャンベラへ。

 大分水嶺山脈の標高760メートルの峠を越える。この大分水嶺山脈は、大陸の東側に連なる長さ5000キロ、幅300キロの大山脈だが、全体には、ゆるやかな山並みだ。

 左手にジョージ湖を見ながら走るとキャンベラだ。シドニーから300キロ。キャピタルヒルにあるモダンな国会議事堂を見る。首都キャンベラは、若々しい国、オーストラリアを象徴するかのようなのびやかさ。

 

 キャンベラからさらにR23を南下。そして、クーマの町から大分水嶺山脈のスノーウィーマウンテンスの山中に入っていく。夕暮れ。気温がガクッとさがる。牧場内にあるモーテルに泊まる。1泊40ドル。日本円で約3400円。

 モーテル内のレストランで夕食。スープ、メインディッシュのチキン、デザートのアップルパイというフルコースで14ドル。

 ここでは、オーストラリアの最高峰クシオスコ山を登りにきたシドニーのハイスクールの生徒たちと一緒になったが、ワイワイガヤガヤとにぎやかだ。

 夕食のあとは暖炉の火を囲んで、ハイスクールの先生たちとビールを飲みながら話した。

 

峠のアイスバーンに危機一髪!

 翌朝は、コーンフレーク、トースト、スクランブルエッグ、ハム&ソーセージというボリュームたっぷりの朝食を食べる。10ドル。宿泊費の40ドル、夕食代の14ドル、朝食の10ドルを合わせると64ドル。日本円で約5440円になるが、ほぼ、日本の民宿に泊まるのと同じくらいの料金になる。

 シドニーのハイスクールの先生や生徒たちに別れを告げ、7時30分、ぼくが先に出発。 早朝の寒さは強烈だ。気温は氷点下5度。夜明け前は、氷点下8度まで下がったという。オーストラリアの冬を甘くみていたので、ジャケットもグローブも薄手のもの。DJEBELにこびりついた霜を落として走りだしたが、あまりの寒さにヒーヒーいってしまう。

 

 スノーウィー山脈の中心地、ジンダバインの町を過ぎ、オーストラリアの最高峰、クシオスコ山(2230m)南側の、アルパイン・ウェーを走る。デッドホース峠に向かって登っていく。緑の濃い森林地帯。日本の冬枯れの風景とは違い、常緑樹が多いので,冬でも青々としている。

 デッドホース峠に到達。標高1582メートルの峠で、風が冷たい。峠を越え、オーストラリア最大の川、マレー川の源流地帯に下っていったとたんに、路面凍結。ツルツルのアイスバーン。

「アー!!」

 思わず悲鳴を上げてしまった。峠の登りはまったく凍結していなかったので、アイスバーンに対する心の準備ができていなかったのだ。

 あわやマレー川源流の谷底に転落か、という危機一髪のきわどさだったが、かろうじてバランスを保ち、転倒しないで走ることができた‥。

 アイスバーンを抜け出たときは、ホッと胸をなで下ろした。

 

 デッドホース峠の下りでは、10キロほどのダートを走り、峠を下りきると、広々としたマレー・バレーに入っていく。絵のようにきれいな牧場の風景。牛やヒツジが群れている。いかにもオーストラリア的な風景だ。

 マレー川河畔の町、オルベリーでふたたびヒュームハイウェーのR31に出、グルバン近くのガニングという小さな町で泊まった。

 

 翌朝の気温も、やはり、氷点下。R31を走りだしたとたんにハンドルを握る手の指先がジンジン痛んでくる。DJEBEL250XCのフルカバーの大型ナックルガードがなかったら、とてもではないが、走れなかっただろう。

 丘陵地帯に入ると霧がかかっている。この霧がまた、なんとも冷たい。

「寒いよ、寒いよー」

 と、泣きが入る。寒さに震えながらシドニーに戻った。

 第1弾目のシドニー周遊は1323キロだった。

 つづいて第2弾目のシドニー周遊として、大分水嶺山脈のブルーマウンテンス周辺をまわった。第2弾目は663キロだった。徹底的に寒さにやられた2度の「シドニー周遊」。

 

やったー、カンガルーだ。あわや激突!

 2度の「シドニー周遊」で、肩ならしの走りを終え、メルボルンに向かう。

 海沿いのR1を行く。大分水嶺山脈を越えて内陸を走るR31に比べると、気温が高くなったぶんだけ楽になる。だが、すっかり寒さにやられ、体調がよくない‥。

 今回の「オーストラリア一周」では、大陸をグルリと一周するこのR1をメインコースとし、完璧にフォローするのだ。全長約2万キロのR1は世界最長のハイウェーである。「シドニー→メルボルン」間はR31が幹線なので、R1を走る長距離便の大型トラックは、グッと少なくなる。ローカル色が豊かになり、太平洋沿いの町々の町中をそのまま通り抜けていく。

 そんな町のひとつで昼食にする。歩道にイスとテーブルを並べたレストラン。いかにもオーストラリアらしいビッグなハンバーガーを食べながら、R1の車の流れを眺めた。

 

 シドニーから430キロ、太平洋岸のベガの町を過ぎたところで日が暮れる。

 ナイトラン。

 DJEBEL250XCの飛び抜けて明るいヘッドライトのおかげで、ナイトランがすごく楽だ。交通量が少ないので、対向車がないときはハイビームを使ったが、はるか遠くの反射板まで光り輝く。まるで誘導灯が光る空港の滑走路を走っているような気分になる。

 

 ニューサウスウエルス州最南の町エデンで給油。サービステーションの主人はオートバイの好きな人で、初めてみるDJEBELに興味津々といった顔をする。ビッグタンク、ビッグライトのDJEBEL250XCは目立つので、各地で注目を集めた。

「このバイクは、いつオーストラリアで発売になるのか」

 といった質問を何度か受けた。

 

 エデンを過ぎると、R1は太平洋岸を離れ、森林地帯に入っていく。夜間のせいもあるが、交通量はほとんどなくなる。

 そんな夜の森林地帯を走っていたときのことだ。

 ゆるい左カーブを曲がると、なんと、走行車線上に、かなり大きなカンガルーがチョコンと座っているではないか。

「ワーッ、ヤッター!」

 思わず絶叫。

 が、急ブレーキ、急ハンドルでからくもカンガルーをかわすことができた‥。100キロぐらいの速度で走っていたので、激突していたら命取りになるようなダメージを受けるところだった。しばらくは体の震えが止まらなかったほど。

 

 カンガルーは「オーストラリア一周」の大きな難関。日が暮れると、車のライトをめがけて飛び出してくる。その恐怖感といったらない。カンガルーが原因で大事故になることは、オーストラリアではよくあることだ。そのため車やトラックは、カンガルーをはね飛ばすルー・バーと呼ぶバーをつけている。これ以降、カンガルーの飛び出しで何度もひやっとするが、道路上に座ったカンガルーに出会ったのは後にも先にも、このときだけである。

 

カソリ、ダウン‥

 ニューサウスウエルス州からビクトリア州に入る。あいかわらず、森林地帯がつづく。 夜の10時過ぎになって、ジェノアという小さな村に着いた。1軒だけあるモーテルに泊まる。寒くて寒くてどうしようもない。

 バーの赤々と燃える薪ストーブにかじりついてしまった。

 ビールをキューッと飲んだあと、夕食にする。遅い時間だったのにもかかわらず、食事をつくってくれるというのだ。

 メニューをみると、インドネシア料理のミー・ゴレン(焼きそば)があるではないか。さっそく、それを注文する。そこの主人の奥さんはインドネシア人だった。

 

 ミー・ゴレンを食べ、すこし元気が出たところで、部屋に戻り、バタンキューで眠る。だが夜中にあまりの寒さに目がさめる。寒いはずだ。額に手をやると、かなりの熱‥。

 熱を出すなんて、アフリカでマラリアにやられて以来のこと。さっそくタオルを水で濡らし、頭の上にのせておく。そのあとは、何度もタオルを濡らし、夜が明けるまで、ウツラウツラの状態がつづいた。

 

 翌朝の体調は最悪。もう一晩ここで泊まっていこうかと思ったほどだ。そんな気持ちをなんとか振りきって起き上がった。

 部屋には朝食が用意されていた。ミルクとコーンフレーク、リンゴ、オレンジ。電気ポットで湯をわかし、コーヒーを入れ、トースターでパンを焼く。パンにはバター、ハニー、ベジマイトをつけて食べる。ベジマイトというのは、オーストラリアだけにあるチョレート色をしたペースト。これが慣れるとけっこういける。

「よーし、行くゾ!」

 朝食を食べ終わると、気合を入れ、メルボルンに向かって走り出す。熱はまだあったが、これがオートバイのよさ、走りはじめると、熱っぽさも体調の悪さも気にならなくなった。

 

 ぼくはいつも思うのだが、病気というのは、ほんとうに、気の病いだと思う。

 体調を崩し、熱を出して、

「あー、もうだめだ」

 と寝込んだら、きっと、本物の病気になっていたことだろう。

 出発してから2時間ほど走ったところで、R1沿いのレストエリアで30分ほど眠る。このわずかな時間の睡眠がよかった。目をさますと、グッショリ汗をかいていたが、その汗とともに、熱がスーッと下がっていた。このときの気分のよさといったらない。

 

 シドニーから1044キロ、メルボルンに到着。ここでは、2輪と4輪を統括するスズキ・オーストラリアのオフィスを訪ねた。

 社長の藤原紀男さんに、その夜、「むらさき」という日本料理店で、鍋料理をご馳走になった。熱燗の日本酒を飲み、フーフーいいながらうどんすきを食べた。最後は汁の中にご飯を入れて雑炊にした。

 このうどんすきと雑炊が最高のうまさ。熱を出してあとで、体が弱っていたので、よけいにうまく感じた。

 そのおかげで、弱った体はあっというまに回復していった。

「医食同源」。それを実感。

 

「シドニー→メルボルン」を走ったことによって、体も心も、旅する毎日に慣れたようだ。「もう、大丈夫!」

 ぼくは「オーストラリア一周」に自信を持つのだった。