賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」前編:第2回 タスマニア一周

 (『月刊オートバイ』1997年2月号 所収)

 

 50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50で「日本一周」したときは、日本の最東西南北端の岬に立った。

 これが、我らライダーの習性。最果ての地に、すごく行ってみたくなるものなのだ。

「オーストラリア一周」でも同じこと。その最東西南北端には立つつもりでいた。

 メルボルンからまずは大陸最南端のウィルソン・プロモントリーに行き、次にフェリーでタスマニア島に渡り、オーストラリア最南端の地まで行った。

 タスマニアは、島とはいっても、北海道をすこし小さくしたほどの広さがある。そのタスマニアを一周した。

 

メルボルンを歩く

 メルボルンでは、スズキ・オーストラリアのオフィスがあるニューポート駅前の「ニューポート・ファミーホテル」という1泊25ドル(約2100円)の安宿に泊まった。

 ファミリーホテルという名前とは裏腹に、1階はパブと場外馬券売り場、フットボールの場外券売り場になっている。

 このフットボールというのは、オーストラリア人が一番、夢中になるスポーツ。

 ラグビーと似ているのだが、もっと手を使い、サッカーのようにキックでゴールする激しい格闘技。プロチームのリーグ戦は、テレビでひんぱんに中継放送されている。

 2、3階が客室。廊下にはゴミが落ち、壁ははげ落ちているが、1泊25ドルという安宿だから、まあ、我慢するか‥‥。

 

 1階のパブでビールを飲む。

 コップ1杯が1ドル35セントという安さだ。昼間から酔っぱらっている人もいる。ビールを飲んでいると、まわりの人たちに話かけられる。

「おーそうか、日本から来たのか。モーター・バイクでオーストラリアを一周しているのか」

 といった具合だ。

 オーストラリアでは、オートバイのことをイギリス風にモーターサイクルともいうが、自転車のプッシュ・バイクに対してモーター・バイクといういい方をよくする。

 

 ビールを2、3杯飲んでいい気分になったところで、電車に乗って、メルボルンの中心街に行く。メルボルン近郊の鉄道網は、オーストラリアの中では、一番発達している。

 ターミナル駅のスペンサー・ストリート駅で降り、プラプラ歩く。

 こうして、オートバイを宿において歩くのもいいもの。メルボルンはシドニーよりも、はるかにヨーロッパ風の都市。碁盤の目のように交差する通りには、トラム(路面電車)が走っている。

 

 半日かけて歩き、日が暮れたところで、夕食にする。

 レストランに入り、Tボーンステーキを食べた。

 さすがに「オージー・ビーフ」の国だけあって、ポテトチップスとサラダのついたTボーンステーキが9ドル85セントと安い。日本円で800円ほどである。

 スペンサー・ストリート駅からふたたび電車に乗ってニューポートの宿に戻った。

 1階のパブでビールを飲みながら、その雰囲気を楽しむのだった。

 

大陸最南端の半島へ

 メルボルンからは、大陸最南端のウイルソン・プロモントリーに行く。

 プロモントリーとは岬とか小半島といった意味だ。

「ニューポート・ファミリーホテル」を出発。

 スズキDJEBEL250XCは今日も快調。

 メルボルンの中心街からR1のプリンセス・ハイウェーをシドニー方向に30キロ走り、ダンデノンの町で州道180号に入る。

 このルート沿いの丘陵地帯には、「コアラに注意」の標識があった。

 州道180号を110キロ走り、ミニヤンという町を過ぎたところで州道181号に入り、40キロ走るとナショナルパークのゲート。そこで2ドルを払う。ウイルソン・プロモントリーは、半島全体がナショナルパークになっている。

 

 大陸最南端のウイルソン・プロモントリーに入っていく。

 標高600メートルとか700メートルといった山々が連なり、けっこう山深い。すぐ近くが海だとは思えないような風景だ。

 ゲートから30キロ走ると、州道181号の終点のタイダル・リバー。駐車場があり、インフォメーションセンターやガソリンスタンドがあり、ここで道は尽きる。

 タイダル・リバーからわずかに戻り、今度はオベロン山に登っていく。

 山頂の直下に駐車場。大陸最南端の地には、ここから山道を歩いていく。灯台のあるサウスイースト岬まで約18キロ、往復で12時間ぐらいかかるという。だが、大陸のほんとうの最南端の地はサウス岬。そこへの道はないのだ。

 オーストラリア人は、最果ての地にあまり興味がないようだ。

 

 タイダル・リバーとオベロン山に来たことで大陸最南端の地に立ったということにし、ウイルソン・プロモンリーを後にし、次にフィリップ・アイランドに行く。

 島とはいっても、橋で渡れる。ここにはオーストラリアで第1のサーキットがある。

 フィリップ・アイランドではペンギン・パレードを見たかった。

 世界最小のペンギンの群れが、夕暮れとともに、海から浜にあがってくるというのだ。

 

 ペンギン・パレードの見られるサマーランド・ビーチはたいへんな観光地。広い駐車場は観光バスで埋めつくされていた。砂浜に上がってくるヨチヨチ歩きのかわいらしいペンギンよりも、はるかに多い見物人の数。韓国人、香港人、中国人が目立って多い。ここでは、団体で世界中を闊歩する日本人観光客も影が薄い。

 とくに目立つのは、韓国人のパワーのすごさ。怖いものなしといったところだ。男も女も、まるで喧嘩でもしているかのような大声を張り上げ、ワーワーいって話している。

 7ドル50セントを払ってのペンギン見物だが、ペンギンよりも、観光客を観察するほうがはるかにおもしろいサマーランドビーチだった。

 

「スピリット・オブ・タスマニア号」

 サウスメルボルンからタスマニア島にフェリーで渡った。

 船旅はいい。胸がときめく。東京から長距離フェリーに乗って九州や四国、北海道に向かうときのような胸のときめきだ。

 タスマニア島へのフェリーは「スピリット・オブ・タスマニア号」。

 まっ白な船体の大型船。総トン数は3万1350トン。

 40台の大型トレーラーと280台の乗用車を積めるという。

 

 週3便で、メルボルン発は月、水、金の18時。バス海峡を越え、タスマニアのデボンポートには翌朝の8時30分に着く。14時間30分の航海だ。

 料金はオートバイが70ドル、人は一番安い船底のKデッキで90ドル。合計すると160ドル、日本円で約1万3600円になる。この料金には、レストランでの夕食と朝食が含まれている。

 食事はバイキング形式で、クラスに関係なく、みんなが同じものを食べる。とくに夕食は、かなりの豪華版。それを考えるとフェリー代の160ドルは、そう高くはない。

 夏の観光シーズンだと、予約をとるのも難しいほどだというタスマニアへのフェリーだが、冬のこの季節はすいていた。

 出航直前に港に行っても、楽にチケットを買えた。オートバイはぼくのDJEBELだけ。冬、タスマニアをツーリングするライダーはほとんどいないのだ。

 

ポートアーサーの銃乱射事件の現場

 デボンポートに上陸。「タスマニア一周」の開始だ。

 州都ホバートへとつづくR1をいく。大陸をグルリと一周するR1の支線といったところか。R1沿いには、広大な牧場がつづく。とても島とは思えないような広さ。ふと、南米のフェゴ島を思い出す。

 地図で見ると、タスマニア島もフェゴ島も、大陸のわきにチョコンとくっついている島ぐらいにしか見えない。だが、オートバイで走ってみるとよくわかるが、ともに大陸と変わりがないような広さなのである。

 

 R1から州道3号、4号経由でポートアーサーへ。

 オーストラリアのみならず世界中を驚かせた、あの1996年4月28日の銃乱射事件のあったところである。

 その入口には料金所があり、13ドルを払う。19世紀の前半、イギリスはタスマニア植民の拠点として、ここに基地を築いた。それが史跡になっているのだ。

 静かな入江の岸には、花束が山のように供えられた木製の十字架が立っていた。それには銃乱射の犠牲となった35人の名前が刻みこまれていた。

 すぐ前の、銃乱射の現場となったカフェは閉められ、中が見えないように、ガラス窓の内側にはスクリーンが貼られてあった。

 

 ポートアーサーは、ほんとうに静かなところ。このようなところで、銃の乱射事件があっただなんて‥‥、信じられない。

 この銃乱射事件のすぐあとにガンコントロール(銃規制)の法案が提出されたが、それに対してのオーストラリア人の反応には驚かされた。あちこちで、銃規制反対のデモがくり広げられ、その写真が新聞の一面を飾った。

「銃なしでは生きていけない」

 というプラカードを持った女性の写真もあった。

 オーストラリアも、アメリカと同じように、銃とともに植民していった国だということを思い知らされた。

 

オーストラリアの最南端へ

 タスマニアの州都ホバートから、州道6号でオーストラリア最南の地へと、南下していく。40キロで、ホーンビルの町に着く。そこからは幅広いホーン川に沿ってさらに南下していく。

 雨が降りだした。冷たい雨。まるでミゾレのような冷たさ。すでに南緯40度を越えている。北半球とは逆なので、南に行けばいくほど寒くなるのだ。

 ホバートから65キロでサウスポート。ここが州道6号の終点。小さな港町だ。オーストラリア最南というと、オーストラリア人はよく、このサウスポートだというが、道はさらに南につづいている。

 ルーンリバーを過ぎると、舗装路が途切れ、ダートに入る。日本の林道風なダートで、森林地帯を貫いている。大規模な森林の伐採地。雨が激しくなる。風も強くなる。嵐の様相‥‥。もう、泣きたくなってくる。

 

 サウスポートから30キロ、コッコルクリークで道が尽きる。

 そこには、サウスウエスト・ナショナルパークのゲート。

「ワールズエンドにようこそ」

 と書かれた看板が掲げられている。

 ワールズエンド、まさに「地の涯」といったところだ。

 サウスウエスト・ナショナルパークはオーストラリアでも一番自然の残っている国立公園ということで知られているが、国立公園内には1本も自動車道はない。移動の手段は徒歩のみなのである。

 

 ところで、オーストラリアの最南端だが、このサウスウエスト・ナショナルパークのゲートからサウス岬までは歩いていける。3時間ほどの距離だという。だが、ほんとうの最南端はその東側にあるサウスイースト岬で、そこへの道はない。

 日本だったら、最南端というだけで、本州最南端の潮岬や日本本土最南端の佐多岬のように、大勢の人たちが押しかける観光地になるのだが‥‥。

 オーストラリアでは観光地どころか、道さえもない。オーストラリア人というのは、最果ての地に興味のない民族なのだと、改めて思い知らされた。というよりも、日本人が岬に対して異常なほどの興味を持つ民族というべきなのかもしれない。

 オートバイで行ける最南の地コッコルクリークを折り返し地点にし、来た道を引き返して夕暮れの州都ホバートに戻った。

 雨は相変わらず降っている…。

 

雪の峠越え

 シーフードレストランで、夕食にする。

 2種類の白身の魚、貝、イカ、エビのフライの盛り合わせを食べ終えたところで、

「クソッ、雨がナンダ!」

 と、気合を入れて、ホバートを出発する。

 R1を北に走り、州道10号に入っていく。ナイトラン、おまけにザーザー降りの雨。

 あんまり気分のいいものではない。

 ホバートから80キロほど行ったハミルトンという町のホテルで泊まる。1泊45ドル。雨にさんざんやられたので、シャワーのお湯がありがたい。

 

 翌朝は7時、出発。ハミルトンは晴れていた。上空には月が残っていた。

 だが、これから向かう北の方角は、まっ黒な雨雲に覆われているではないか。

「どうか、あの中に入りませんように!」

 と、祈るような気持ちだった。

 だがその祈りもむなしく、走りはじめるとじきに、ザーッと雨が降ってくる。

 山地に入り、高度が増すにつれて、強烈な寒さになる。

 ジンジンと突き刺さってくるような指の痛みに我慢できない‥‥。もう凍傷状態だ。このときほど冬用のグローブを欲しいよ!と思ったことはない。

 寒いはずだ。雨はミゾレに変わり、さらに登っていくと雪に変わった。それも吹雪の様相。雪は猛烈な勢いで吹きつけてくる。グローブでぬぐってもぬぐってもゴーグルにこびりつくので、前方はほとんど見えない。

 

 水力発電所のある小さな町のガソリンスタンドに飛び込み、薪ストーブにあたらせてもらう。

 店の主人は薪をガンガンとストーブにくべてくれる。熱いコーヒーも入れてくれる。さらに、毛糸の手袋までくれた。そのおかげで、元気が出た。

 ふたたび吹雪の峠道に挑戦!

 路面は降り積もった雪で真っ白。あまりの寒さに頭も体も凍りついてしまったが、とにかく転倒しないようにと、それだけを考えてDJEBELを走らせた。

 フランクリン・ゴードン・ワイルドリバー・ナショナルパークに入っていく。

 このあたりが寒さのピーク。標高900メートルのビクトリア峠を越える。すると雪はスーッと消えていく。

「助かった!」

 山地を下り海岸に出ると、雪などまるでウソだったかのように、あたたかな日差しがサンサンと降り注いでいた。こうしてタスマニア一周を終え、メルボルンへのフェリーが出るデボンポートに戻ったのだ。

 

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■コラム(1)■カソリのワンポイント・アドバイス

「オーストラリア一周」では、レストランでいろいろのものを食べてみた。

 食を通して、オーストラリアを見てみようという気持ちが強かったのだ。

 オーストラリアは「オージービーフ」の国だけあって、肉、とくに牛肉は安い。

 

 肉屋をのぞいてみると、ステーキ用の牛のフィレが1キロ15ドルから16ドル、Tボーンが12ドルから13ドルといったところだ。

 日本だったら、ふつうグラム単位で肉を買うが、肉食民のオーストラリア人はキロ単位で買っていく。

 肉の安いオーストラリアなので、レストランでもふつうにステーキを食べられる。

 日本にいたら考えられないようなこと。

 

 おもしろいのは、肉の値段に違いはあっても、フィレステーキもTボーンステーキもラムステーキ‥‥も、レストランで食べるステーキの値段には、それほどの違いはない。

 300グラムから400グラムぐらいのステーキにポテトチップスとサラダがついて10ドル前後といったところ。日本と比べたら半分以下の安さ。オーストラリアでは、ステーキはごくあたりまえの食事なのだ。

 ステーキには、必ずといっていいほどポテトチップスをつける。

 オーストラリア人はジャガイモを細長く切って油で揚げたポテトチップスが大好きだ。 フィッシュ&チップスは、手軽に食べられるテイクアウェーの代表選手といったところだが、ポテトチップスに白身の魚のフライをプラスしたもの。4ドルから5ドルぐらい。揚げたての熱いのをフーフーいって食べるのはおいしいものだ。

 ポテトチップスを紙製のカップに入れてもらうカップチップは70セントか80セントぐらい。日本でいえば、コンビニでオニギリ1個、もしくはアンパン1個を買うよりも安い。 ちょっと休憩するときに、これをコカコーラを飲みながら食べるのが楽しみだった。

 オーストラリアでは、中毒になったかのようにコカコーラを飲んだが、ペプシコーラはあまり見かけない。

 

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■コラム(2)■1973年版の「オーストラリア2周」

 大陸縦断ヒッチ

 1973年の「オーストラリア2周」のときは、北部オーストラリアのダーウィンに上陸した。そこから、オートバイでの「オーストラリア一周」のスタート地点のシドニーまでは、大陸縦断のヒッチハイクをしたのだ。

 ダーウィンから南に300キロのカサリンでは、なんと、3日間も車を待った。

 当時は大陸縦断のスチュワート・ハイウェーは、道も悪く、交通量も少なかった。そこをヒッチハイクするのは、至難の技といわれていた。

 そこでカサリンでは、暑さを避けて夜中に走るトラックにねらいをつけ、夜通し車を待った。だが、うまくいかずに、結局、道端で眠ってしまった。

 

 夜が明け、日が高くなると、もう地獄だ。強烈な暑さ。乗せてくれる車を待って、炎天下、立ちつづけた。頭がガンガンと割れるように痛んだ。とうとう乗せてもらえないままに、日が暮れる。翌日も、一日待って、乗せてもらえなかった。

 3日目になると、さすがにぐったりで、

「大陸縦断のヒッチだなんて、もう、不可能だ‥‥」

 と、弱気になり、バスに乗ろうとしたこともあった。それを我慢したかいがあって、ついに大陸中央部のアリススプリングスまで行く車に乗せてもらったのだ。

 

エアーズロックを断念

 ダーウィンからアリススプリングスまでの1500キロは舗装だったが、当時はその南はダート。ここでも苦しいヒッチだったが、うまく大型トラックに乗せてもらい、200キロほど南のエアーズロックとの分岐点で下ろしてもらった。

 今でこそ、世界最大の一枚岩のエアーズロックは大観光地になっているが、当時はそこまで行く車はきわめて少なかった。スチュワート・ハイウェーとエアーズロックへの道との分岐点には、ドラムカンが置いてあるだけだった。

 そこで、ただ、ひたすらに、車を待った。

 信じられないくらいのハエの多さ。目や鼻、口のまわりにまとわりつく。頭にきてたたきつぶすと、1度に10匹もたたき落とした。それほどのハエの多さだった。

 

 怖かったのは、嵐の襲来だ。

 あっというまに空がまっ黒になり、稲妻が大空を駆けめぐる。強風が吹き荒れ、目もあけられないほどで、ドラムカンの影でジッとうずくまっていた。

 結局、エアーズロックには行けずに断念したが、2日間でエアーズロック方向に行った車はわずかに数台でしかない。

 今はその分岐点にはロードハウスがあり、エアーズロックへの道は全線舗装で、一日に何百台という車がエアーズロックに向かっていく。23年間の、あまりにも大きな変化だ。

 

貨物列車を飛び下りる

 スチュワート・ハイウェーとオーストラリア横断鉄道が交差するピンバに着くと、うまい具合に、アデレード方向に行く長い編成の貨物列車が止まっていた。

「しめた!」

 という気分で、それに、飛び乗った。

 貨物列車が発車するときは、ガシャガシャガシャンと、連結器を伝わってくる衝撃音がすごかった。

 日が暮れ、夜になると、いつのまにか眠っていた。

 目がさめたのは、突然、ライトを当てられたからだ。どこか駅に着いたようで、列車の見回りをしていた係員にみつかってしまった。

「ポートオーガスタに着いたらポリスに突き出してやる」

 と、えらい剣幕だ。

 

 貨物列車は走り出す。夜が明ける。白っぽい町並みが遠くに見えてくる。ポートオーガスタだ。ポリスに捕まってはたまらないと、列車が町に近づき、スピードを落としたときに、まずザックを投げ落とし、次に決死の覚悟で列車を飛びおりた。

 幸い、足をすこし痛めた程度ですみ、足を引きずりながらポートオーガスタまでの2、3キロを歩き、そこからシドニーへと2000キロのヒッチハイクをしたのだ。

 当時、25歳のカソリ、怖いものなしだった。