賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「オーストラリア2周」前編:第9回 ダーウィン→ケアンズ

 (『月刊オートバイ』1997年9月号 所収)

 

 大陸縦断ルートの「ダーウィン-アデレード」間の往復7500キロを走破し、また、ダーウィンに戻ってきた。

 オースラリア人は北部地方を“トップエンド(地の果て)”と呼んでいるが、その中心地がダーウィンだ。ここからR1をフォローし、太平洋岸のケアンズに向かっていく。「オーストラリア一周」(第1周目)も後半戦に入る。さー、走るゾと、カソリ、気合十分だ。

 

ダーウィンでの再会

 ダーウィンに到着したのは夕暮れの迫るころ。南緯12度の熱帯圏のこの町は、まだまだ暑く、汗がタラタラ流れ落ちる。

 目抜き通りに面したバックパッカーズの「エルケズ・インターシティー」に行くと、満員で泊まれなかったが、なんとここで、西オーストラリア・ブルームのバックパッカーズ「ローバックベイ」で一緒になったスティーブ&ステフィーのカップルに再会した。

「信じられない、奇跡だ!」

 と3人で抱き合って喜んだ。

 ぼくは前回のダーウィンで2泊したバックパッカーズの「ゲッコーロッジ」に行き、すばやくシャワーを浴び、オートバイのウエアからジーンズとTシャツという格好に着替え、その夜はスティーブ&ステフィーと夕食をともにした。そのあと「ダーウィンホテル」に行き、3人でビールを飲んだ。

 

 この「ダーウィンホテル」は歴史のある建物で、第2次大戦中の日本軍のたび重なる空襲にも、1974年のクリスマスにダーウィンを襲ったサイクロン(このときはダーウィンの町は壊滅的な被害を受け、300人以上が死亡した)にもやられなかったホテルなのである。

 スティーブ&ステフィーとはダーウィン産のビール、「カカドゥービール」をジョッキでグイグイ飲み干し、何杯もおかわりし、そのたびに乾杯をくりかえした。「ダーウィンホテル」を出るころには、飲み過ぎで、足腰がふらつくほどだった。

 

 翌朝、「エルケズ・インターシティー」に行き、スティーブ&ステフィーが用意してくれた朝食を彼らと一緒に食べる。マンゴーの木の下のテーブルで食べる。優雅な朝食だった。すっかりご馳走になったところで、2人に見送られてダーウィンを出発。胸にジーンとくる別れとなった。

 ぼくはこの前半戦の「オーストラリア一周」のあと、いったん日本に帰り、日本国内をまわったあと、第2回目の「オーストラリア一周」に旅立ったのだが、真先に行ったところは、シドニー郊外に住むスティーブ&ステフィーの家だった。

 

廃線の終着駅

「さー、行くゼ!」

 とスズキDJEBEL250XCに、いつものようにひと声かけて走り出し、ダーウィンの町を離れていく。郊外のワニ園を見たあと、カカドゥー・ナショナルパークへ。その途中でアデレード川を渡ったが、ワニの多く生息する水量豊かな川で、川岸に大ワニを見た。

 入園料の12ドルを払ってカカドゥー・ナショナルパークに入る。暑さが厳しい。巨大なアリ塚が林立している。何本か渡った川の橋のたもとには、「ワニに注意!」と書かれていた。

 カカドゥー・ナショナルパークの中心地ジャビルーで昼食にし、オーストラリアの先住民アボリジニの岩壁画を見る。伝説上の人物(神)や動物を描いた岩壁画は心に残るものだった。さらにアボリジニのカルチャーセンターを見学し、マリーリバーゲートを通ってR1に出た。

 

 南へ。キャサリンへ。

「アデレード-ダーウィン」間の大陸往復縦断で、2度泊まっているバックパッカーズの「クックバラロッジ」に今回も泊まった。前回でもふれたようにここは男女同室のバックパッカーズ。前回の“花園天国”ほどでないにしても、今回も若い日本人女性2人と同室になった。

 2人は“バスダー”。バスを乗り継いでオーストラリアを一周している。ここに来る途中では、西オーストラリアの人里遠く離れた真珠の養殖場で、2ヵ月あまりバイトしたという。

 同室となったもう1人は男でスイス人のハインツ。彼はすっかりオーストラリアにはまり込み、スイスで半年働いては資金を貯め、そのお金でもって、半年間、オーストラリアを旅している。今回が3度目で、アデレードで中古車を買い、旅の最後でその車を売り払ってスイスに帰るという。北部地方がすっかり気に入り、また、オーストラリアには戻ってくるという。

 

 キャサリンからさらに南へ。温泉のあるマタランカを通り、ラリマで止まる。ここは、かつての鉄道の終着駅。今は廃線となったダーウィンからの鉄道がここまで来ていた。ホームや線路、列車が残され、入場無料の資料館もある。

 駅前の「ラリマホテル」のパブでビールを飲む。客はぼくだけだった。白髪のマスターが、ラリマの歴史を話してくれた。

 第2次大戦中、このあたりにはアメリカ軍の基地があった。6500人ものアメリカ兵が駐屯していた。日本軍の攻撃に備えたものだった。ここにはオーストラリア軍の基地もあり、ダーウィンへの鉄道は、戦略的な意味を強く持っていたという。

 マスターは日本軍のダーウィン空襲の写真や資料も見せてくれたが、ダーウィン空襲というのは、オーストラリア人にとっては未だに消えない傷痕になっているのだ。

 

ダートのR1を行く

 キャサリンから南に280キロ走ったところに、ロードハウスの「ハイウエイ・イン」がある。ここで大陸縦断ルートのスチュワート・ハイウエイ(ダーウィンからここまでがR1)とカーペンタリア湾に通じるR1のカーペンタリア・ハイウエイに分かれる。

 ロードハウスのレストランでTボーンステーキを食べ、パワーをつけ、カーペンタリア・ハイウエイに入っていく。

 交通量は、ガクッと少なくなる。道は中央の1車線分が舗装で、車がすれ違うときは、お互いに片側の車輪をダートに落として走行しなくてはならない。

 280キロ走って夕方、ケープクラウフォードのロードハウスに着いたが、その間では、わずかに5台の車とすれ違っただけだった。

「オースラリア一周」の出発点シドニーからここまでずっとR1を走ってきたが、この280キロ間が一番交通量が少ない。

 

 ナイトランでアボリジニの町ボロルーラへ。闇夜の平原に、突然、灯が見えてくる。マッカーサーリバー鉱山だ。日本語で鉱山といえば、山地を連想するが、銀や亜鉛を産出するこのマッカーサーリバー鉱山は、大平原のまっただなかにある。

 このマッカーサーリバー鉱山を過ぎると道は2車線の舗装路になる。ケープクラウフォードから120キロ走ったボロルーラには夜の8時過ぎに到着し、キャラバンパークに泊まった。

 翌日、ボロルーラからいったんカーペンタリア湾に出る。その間75キロ。遠浅の海。釣りをしている人の姿を見る。海岸にはマングローブがはえている。ここにはマッカーサーリバー鉱山の鉱石を積み出す港がある。

 ボロルーラに戻ると、アボリジニの町をぐるりとまわった。古い警察の建物が博物館になっている。入口の料金箱に2ドル入れて見学する。本物のアボリジニたちが使ったブーメランが展示されていた。

 昼食を食べ、給油し、出発。R1のウォロンゴラング・ロードでクイーンズランド州へ。その間の260キロはダート。全長1万5000キロ、世界最長のオーストラリア・ナショナルハイウエイ1号線にもダート区間がある。赤土の道を赤い土煙りを巻き上げながら走った。

 

クイーンズランドの温泉めぐり

 ノーザンテリトリーからクイーンズランド州に入るとR1の表示が消えた‥‥。ダートはきついコルゲイション。路面は規則正しい凹凸のくり返し。

「ガタガタガタッ」

 と、DJEBEL250XCは,車体がバラバラになってしまうのではないかと心配になるほどの激しい振動音をたてながら走る。腹わたがよじれそう。ただひたすらに、我慢、我慢の連続で走る。

 その名も恐ろしげなヘルゲート(地獄門)のキャラバンパークで泊まり、ボーダー(州境)から240キロのバークタウンへ。その間は全線がダートだ。

 さらに230キロのダートを走り、ノーマントンの町へ。熱風が渦巻いて吹きすさぶ。暑さが厳しいよぉ。頭がクラクラしてくる。無数のアリ塚。赤い砂塵を巻き上げて走る。何本もの川を渡る。ノーマントンに着くと、すぐさま冷たいコーラを飲み、カソリ、生き返った!

 

 ノーマントンの町から舗装路を10キロ南に走ったところで、ケアンズへの道との分岐点のT字路に出るが、そこでふたたびR1の表示に出会った。

 ボーダーからここまで470キロ、その間のルートがR1なのかどうなのか定かではない。それはともかくとして、大陸をぐるりと一周するR1は、この区間が不明確なのだ。

 R1のガルフ・ディベロップメンタル・ロードを東へ。このままずっと舗装路かと思ったら途中からダート。ダートを45キロ走り、夕方、クロイドンの町に着く。ナイトランで次の町、ジョージタウンへ。その間にも30キロのダートがあった。夜はキャラバンパークで泊まる。すでに大分水嶺山脈の山中に入っているので、夜間はひんやりとし、シュラフのみだと、寒いくらいだった。

 

 翌日、ケアンズへ。ジョージタウンから50キロほど行ったところでR1を左折し、ダートを9キロ走ったところに、タラルー温泉がある。牧場内にわき出る温泉で、ここでは8ドルの入園料を払って温泉見学をする。

 何でもよく知っている博学なオバチャンが案内してくれる。あたたか味のあるオバチャン。メルボルンから来たという車で旅している夫婦と一緒にタラルー温泉を見てまわった。

 ここには40度、54度、65度、70度、74度の5つの源泉があるが、そのうち最大の74度の源泉は1時間の湧出量6000ガロン(約2万7000リッター)と、ぼう大な湯量だ。最後に、ちょうどいい湯温の温泉プール風露天風呂に入るのだった。

 さらにもうひとつ、ケアンズへの途中のR1沿いには、イノット温泉がある。川の中に湧き出る温泉。砂を堀り、湯船をつくり、湯を溜めてつかる。日本の南紀の川湯温泉のような天然露天風呂。“温泉のカソリ”、オーストラリアの温泉に大満足し、ケアンズへと向かった。

 

 ■コラム■オーストラリアの温泉

「ダーウィン→アデレード」編では、ノーザンテリトリーのダグラス温泉、キャサリン温泉、マタランカ温泉と、3湯の温泉を紹介した。

 そして今回の「ダーウィン→ケアンズ」編では、タラルー温泉、イノット温泉の2湯の温泉に入った。

 ということで第1周目の「オーストラリア一周」では、計5湯の温泉に入ったことになる。

 さらに第1周目にひきつづいて走った第2周目の「オーストラリア一周」では、シンプソン砂漠横断ルート入口にあるダルフーシー温泉に入った。

 

 ここはすごい温泉で、大きな池、全体が天然の大露天風呂になっている。ジャスト適温。すべてが桁外れに大きいオーストラリアを象徴するかのような温泉で、もちろん日本には、これだけ大きな露天風呂はない。

 日本だったら、これだけの温泉があれば、たちまち、一大温泉街になり、温泉旅館やホテルが立ち並び、みやげもの屋が建ち並ぶところだが、そこはオーストラリア、駐車場があるくらいで、ほかには人工的なものは一切ない、自然そのまんまの温泉なのだ。温泉観が違うのだ。

 辺境の地にある温泉なのでやってくる人たちも少なく、こういう湯につかると、自分の温泉観まで変わってしまうほどだ。

 ダルフーシーは、大陸縦断のスチュワート・ハイウエイのクルゲラからフィンケ経由で330キロほどの地点にあるので、これからオーストラリアをオートバイで走ろうというみなさんぜひとも行ってみて下さい。

 

 もうひとつ、ダート630キロのウーダナダッタ・トラックから数キロ入った砂漠のまっただ中にある“バブラー”にも行った。ここは残念ながら自然保護ということで入浴禁止になっていたので、湯を手ですくい、顔を洗ったが、直径数メートルというかわいらしい沼の底からブクブク湧き出る温泉を見ていると、何か、すごく自然界の不思議さを感じるのだった。

 以上が、「オーストラリア2周」で出会った7つの温泉だ。

 

■コラム■1973年の「オーストラリア2周」

 1973年の「オーストラリア2周」の第2周目では、シドニーを出発点にして反時計回りで大陸を一周した。オーバイはスズキ・ハスラーTS250だ。

 パースからアデレードへ。今回とは逆方向でR1を走ったがその途中では、TS125で走っていたイギリス人のジョンと出会い、彼と3日間、一緒に走った。夜は野宿だ。

 ジョンはイギリスのロンドンを出発し、アジアを横断し、オーストラリアに渡った。シドニーがゴールだった。夜は焚き火にあたり、酒をのみながら、お互いの旅の話をした。彼と一緒に走った3日間というものは、ほんとうに楽しかった。

 

 ジョンに限らず、パースからアデレード間のR1では、何台ものヨーロッパ人ライダーに出会った。とくにナラボー平原横断の区間では、ロードハウスに着くたびごとに、必ずといっていいほどヨーロッパ人ライダーに会った。

 オートバイにGBマークをつけたイギリス人、Dマークをつけたドイツ人、CHマークをつけたスイス人ライダーがが多かった。GBはイギリス、Dはドイツ、CHはスイスの、それぞれの国別の識別記号である。

 

 彼らはジョンと同じように、ヨーロッパの彼らの家を出発すると、トルコのイスタンブールまで行き、そこからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと西アジアを横断し、インドに入った。たいてい、ネパールのカトマンズに寄り、インドのマドラスから船でマレーシアのペナンに渡り、シンガポールから船でパースの外港、フリーマントルに渡り、シドニーを目指した。1973年当時というのは、「ロンドン→シドニー」はすごい人気のオーバーランドのルートになっていたのだ。

 ところが、今回の1996年の「オーストラリア2周」ではヨーロッパ人ライダーは、それほどみかけなかった。さらに出会ったヨーロッパ人ライダーの大半は、ヨーロッパからオートバイを持ち込んだのではなく、オーストラリアで買ったり、レンタルしてまわっていた。

 

 これが1973年と1996年の大きな違い。というのは、当時はアジア横断は何ら問題なかったが、現在はヨーロッパ人にとってイラン入国が大きな難関になっているし、インドからオーストラリアにオートバイを送るのもそう簡単ではないからだ。海外ツーリングというのはある時期、簡単にできたルートでも、時がたつと難しくなるというケースがけっこう多い。