賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリと走ろう!(6)「キャニング・ストックルート走破」

(『ゴーグル』2004年11月号 所収)

 

 バイクでの北極点、南極点到達という偉業を成しとげた風間深志さんと甲州から信州にかけての林道を走ったのは、今から30年以上も前のことになる。カソリ28歳、カザマ25歳のときのことだった。

 

 当時、風間さんは『月刊オートバイ』誌の編集部員だった。ぼくは『月刊オートバイ』誌では、「峠越え」の連載をさせてもらっていた。

「カソリさんがどんな風に峠越えをしているのか、見てみたいんだよ」

 という風間さんのひと言で同行取材ということになった。

 

 季節は晩秋。甲州から信州に抜ける峰越林道には雪が積もっていた。

 そこではステーン、ステーンと転倒するシーンを風間さんに写真にとられた。

 その夜は甲州の山間の温泉、増富温泉で泊まった。湯上がりのビールを飲みながら、話のボルテージをどんどんと上げ、

「バイクでアフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロに登ろう!」

 ということになった。2人ともバイクに夢中だった。

 

 それから5年後の1980年、我々は甲州の温泉宿での夢物語をついに実現させ、忠さんこと鈴木忠男さんをも巻き込んで「チーム・キリマンジャロ」を結成し、3台のホンダXR200でキリマンジャロに挑戦した。風間さんはキリマンジャロと引き換えに会社を辞めなくてはならなかった。

 風間さんにとってはまさに人生をかけたキリマンジャロになったのだ。

 

「キリマンジャロ挑戦」では残念ながら頂上は極められなかったが、それが引き金になって、カソリ&カザマは今度は「チーム・ホライゾン(地平線)」を結成。

 

 2台のスズキDR500で1982年、第4回「パリ・ダカール・ラリー」に参戦。日本人ライダーとしては、初めての参戦ということになる。ぼくは大会9日目、あともう少しでサハラ砂漠を抜け出るという地点で夜間、4輪と競っているときに100キロ以上の速度のまま、ノーブレーキで立木に激突。レスキューのジェット機でフランスのパリの病院に運ばれた。風間さんはサポートのまったくないまま完走し、堂々、総合で18位という成績を収めた。

 

「パリ・ダカール・ラリー」では九死に一生を得たが、事故から8ヵ月後にまたバイクに乗れるようになったときのうれしさといったらなかった。

 

 そのうれしさをバネにして、さっそく風間さんと「カソリ&カザマ」の第3弾目のアドベンチャー計画をつくりあげた。それが「キャニング・ストックルート走破計画」だ。

 

 オーストラリア西部の「キャニング・ストックルート」は世界最長ダートとして知られている。ぼくは1973年から74年にかけて世界の6大陸を駆けめぐったが、その途中オーストラリアではヒッチハイクとバイクで大陸を2周した。そのときに「キャニング・ストックルート」の存在を知った。

 

 全長1800キロ、その間では全部で1000近い砂丘を越えるという。途中には町も村もないので、水や食料、ガソリンなどすべてを持って走らなくてはならないという。それを聞いたとき、ぼくの心の中にひそむ冒険心がメラメラと燃え上がり、

「いつの日か、きっとやってやる!」

 と思ったものだ。

 

 カソリ&カザマの「キャニング・ストックルート走破計画」は1983年6月の実現を目指した。ところが我々のこの計画にテレビがからむようになってからというもの、話が急におかしくなった。そして、後味の悪さを残して我々の「キャニング・ストックルート計画」はポシャてしまったのだ…。

 

 それから13年後の1996年、ぼくはスズキDJEBEL250XCでオーストラリアを2周した。7万2000キロを走り、その間では20数本、1万3000キロのダートも走破した。このときに「キャニング・ストックルート」も走破したかった…。

 

 ぼくの考えついたのは「ハロー、マイフレンド!」作戦。キャニング・ストックルート南側入口のウィルナに着いたらキャラバンパーク(キャンプ場)に行き、キャニング・ストックルートに入っていく四駆に「ハロー、マイフレンド!」と声をかけ、彼らと親しくなり、彼らの車にガソリン、水、食料を積んでもらって一緒に走ろうという作戦だった。

 

 ところがウィルナに着いたのは10月も中旬のことで、すでに夏が近づき、キャニング・ストックルートに入っていく車など1台もなかった。

 キャラバンパークのおばちゃんには「1ヵ月、遅かったわね」といわれてしまった。

 

 だが、そのくらいのことで諦めないのが、チャレンジャー・カソリ。すぐさまキャニング・ストックルートの詳細な地図を広げ、単独で走破するプランを練った。

 

 DJEBELの17リッタータンクを満タンにし、さらに、2リッター、3リッター、10リッター、20リッターの4つの予備ガソリン用のポリタンを満タンにすると、全部で52リッターになる。燃費を1リッター25キロで計算すると1300キロ走れる。

 

 これでは全コースを走破できないので、コースのほぼ中間点で大鉄鉱山のあるニューマンに抜け、そこで給油する。これだと1200キロ、1200キロの合計2400キロで「キャニング・ルート走破」を成しとげられる。

 

 しかし…、

「もし、失敗したら…」

 という恐怖感が大きなプレッシャーになり、ぼくはウィルナからキャニング・ストックルートに入っていくことができなかった。

 失敗は即、死を意味するからだ。

 

 ぼくにとってはじつに30年にも及ぶ長年の懸案だった「キャニング・ストックルート走破」だが、ついにそれを実現させるときがきた。

「道祖神」のバイクツアー「カソリと走ろう!」シリーズの第6弾目でキャニング・ストックルートを走ることになったのだ。

 

「キャニング軍団」の6人の参加者のみなさんと2001年8月2日、西オーストラリアのパースに飛び、さらにパースの北、1000キロのウィルナに飛んだ。ウィルナの空港には我々をサポートしてくれるブライアンら、キャニング・ストックルートを知り尽くしている現地の面々が出迎えてくれた。

 

 その夜はなつかしのウィルナのキャラバンパークでのキャンプ。夕食はブライアンが焼いてくれたぶ厚いステーキ。

 我ら「キャニング軍団」はステーキにかぶりつきながら「キャニング・ストックルート走破」への期待に胸を弾ませた。

 

 翌8月4日、いよいよ出発。バイクはヤマハTTR250が6台とセローが1台。腕自慢のツワモノぞろいの「キャンニング軍団」なので、誰一人、セローに乗りたくはない。やむなくセローはカソリ用ということになったが、結論から先にいうと、セローは想像以上に連続する砂丘越えをよく走ってくれた。

 

 ウィルナを出ると幅広の高速ダート。我ら「キャニング軍団」はトップスピードで砂塵を巻き上げて走る。先頭をブライアンのバイクが走り、そのあとを我々の7台のバイクがつづき、バイクの後ろには2台のサポート用のランドクルーザーが走った。

 

 その幅広のダートからわずかに入ったところに「WELL1」がある。「WELL」とは井戸のことで、まさにキャニング・ストックルートのキーワード。ルート沿いには全部で51の井戸があり、それぞれに1から51までのナンバーがついている。

 

 幅広の高速ダートから道幅の狭い曲がりくねったダートに入っていく。

 その入口には「キャニング・ストックルート」の案内板。道の両側からは樹木が覆いかぶさってくる。路面はマッドあり、ロックあり、サンドありで、我らオフロード・フリークをおおいに楽しませてくれるが、ときどきカンガルーが飛び出してくるのが要注意。

 

 第1日目は「WELL6」まで走り、そこでキャンプした。

 第2日目になると路面の砂が多くなり、何度となくバランスを崩し、あわや転倒という場面がたびたびだ。そしてキャニング・ストックルート特有の本格的な砂丘越えがはじまった。目の底に強烈に残るほどの真っ赤な砂丘が連続する。

 

 この砂丘越えで辛いのは、砂丘に対して直角に入っていけないこと。轍は砂丘と平行していて、砂丘のてっぺん近くでキューッと曲がっている。そのためスピードをのせにくいのだ。砂丘をひとつ越えるごとに体力を激しく消耗する。

 

 ウィルナを出てから7日目、1029キロを走り、カラワジに到着した。ここにはなんとガソリンスタンドができ、食料品も買えるストアも併設されているではないか。

 全行程、まったくガソリンや食料を補給できないキャニング・ストックルートにとっては大きな変化だ。

 

 我ら「キャニング軍団」はここで大ショックを受ける。

 カラワジの北で塩湖を横切るが、何日か前に降った大雨で塩湖は満々と水をたたえ、四国ぐらいの大きさになっているという。残念無念…。

 もうそれ以上、キャニング・ストックルートを走るのは不可能だとのこと。

 

 我々は「キドソン・トラック」という600キロほどのダート経由で国道1号に出た。 ウィルナから1626キロの連続ダートを走って国道1号のアスファルトに立ったときは感動した。最後は「ギブリバーロード」の約600キロのダートを走り、ウィルナを出てから12日目にオーストラリア北部のクヌヌラにゴールした。

 

「ウィルナ→クヌヌラ」間は2924キロ。そのうちダートは2218キロ。

 ぼくたちはわずか2週間で10年分ぐらいのダート距離を走ったのだった。