賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリと走ろう!(3)「あわや遭難…の、モンゴル周遊」

(『ゴーグル』2004年8月号 所収)

 

「生老病死」は誰もが避けて通れない人間の四大苦だ。

 ぼくは30代の後半になったときにいやというほど「老」を感じた。気力も体力もすっかり衰えてしまった自分を感じ、愕然とした。

「何とかしなくては…」

 

 40歳になるのと同時に、40リッターのビッグタンクを搭載したスズキSX200Rでサハラ砂漠を往復縦断した。自分の全精力を投入し、命を張ってサハラ砂漠を駆けまわったことによって、ぼくは新たな力を得た。

「これで大丈夫、これで40代を乗り切っていけるゾ!」

 という生きる自信を得たのだ。

 

 帰国するとすぐさま50ccバイクでの「日本一周」&「世界一周」を計画し、1989年の8月17日を出発の日と決めた。

 出発直前のことだった。

 市から送られてきた一通の通知を見てまたもや愕然とした。

 

 その1ヵ月ほど前だろうか、「肺ガン検診」を受けたのだ。すっかり忘れていたが、その結果、精密検査を受けるようにとのこと。すぐさま近くの「坂間医院」に行くと、大きく伸ばしたレントゲン写真を見るなり先生は、「東海大学病院に行くように」と紹介状を書いてくれた。

 

 東海大学病院ではCTスキャンで肺の断層写真をとられ、それを見て呼吸器内科の先生は、

「かなり大きな腫瘍ができていますねえ。できるだけ早く手術したほうがいい」

 というではないか…。ぼくはそれを聞いて目の前が真っ暗になった。

「病」に徹底的に打ちのめされたような気分だった。

 

 かろうじて態勢を整えると、

「先生、実はこれからバイクで日本一周に出るのですよ。手術はそれを終えてからということにしてもらえませんか」

 と哀願した。

「いつ発症したのかわからないから、まあ、いいでしょう」

 先生はそういってくれたのだ。

 

 スズキ・ハスラーTS50での「日本一周」の毎日は暗いものだった。

「自分は肺ガンにやられた…。もう、そう長くは生きられない」

 と、勝手に思い込んでしまったからだ。

 

「日本一周」を終えるとすぐに、東海大学病院に行った。すると、うれしいことに肺の腫瘍はそのままの大きさだった。

 それをいいことに、

「先生、じつは来年はバイクで世界一周に出る予定なんです。手術はそれを終えてからでどうでしょうか」

 と恐る恐る聞いた。

 すると先生は、いともあっさり「いいでしょう」といってくれた。

 

 こうして2000年の7月から11月までの5ヵ月でアメリカのロサンゼルスを出発点にインドのカルカッタをゴールにして、同じTS50で「世界一周」の2万5000キロを走った。

 

「世界一周」を終えてすぐに東海大学病院に行くと、肺の腫瘍の大きさは、やはりほとんど変わっていなかった。それを見て先生は、手術はしばらくおいて定期的に経過を見ましょうといってくれた。

 それをいいことに、ぼくは定期的な検診をすっぽかし、逃げまくったのだ。

 

 8年近くも「病」から逃げつづけ、49歳になったとき、東海大学病院の人間ドッグに入った。当然のことだが、肺の腫瘍でひっかかった。

 そのときはすでにかなりの大きさになっていて、ついに逃げ切れられずに、肺の腫瘍の摘出手術を受けた。

 

 すごくラッキーだったのは肺本体の腫瘍ではなく、肺を覆う胸壁の腫瘍で、それが肺の中にめり込んでいた。ゆで玉子ぐらいの大きさの腫瘍だった。

 先生には「よくこれで苦しくなかったねえ」といわれた。

 さらに細胞検査の結果、悪性のものではなく良性の腫瘍だといわれた。これで、「肺ガン」の恐怖も去った。

 

 退院すると1日も早くバイクに乗りたい一心でリハビリに励んだ。思いっきり息を吸って管の中の玉を浮かす器具などは、朝から晩まで1日中、吸っていた。そのおかげで回復が抜群に早く、凹んだ肺もあっというまに元どおりになった。さすが「強運カソリ!」。

 

 バイクに乗れるような体になったところで「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズ第3弾の「モンゴル周遊」に出発。1997年8月2日のことだった。

 

 五体満足な体に戻り、またバイクに乗れるようになったことが、もう目茶苦茶にうれしかった。

 我ら「モンゴル軍団」のメンバー11名が乗るバイクはヤマハのセロー。

 首都のウランバートルを出発するとバイヤン峠を越えた。モンゴル語で峠は「ダワ」という。日本語にすごく似ている。峠には石が積み上げられている。それを「オボウ」という。旅の安全を祈って「オボウ」のまわりを3回、時計回りに回る。

 

 ウランバートルから南へ、大草原の中につづくダートを走る。草原の緑が目にしみる。その中には点々と牧畜民のゲル(テント)を見る。ヒツジやヤギ、ラクダ、馬などの家畜の群れも見る。やがて草原地帯からゴビ砂漠へと入っていった。

 

 ウランバートルを出発してから4日目には、南ゴビの中心地、ダランザドガドに到着。夜はそこから30キロほど走ったツーリスト・キャンプに泊まる。草原のゲルがひと晩の宿になる。南に連なるゆるやかな山並みの向こうは中国の内モンゴル自治区だ。

「あの山の向こうに行ってみたい!」                      

 という強烈な誘惑にかられた。

 

 ぼくは桜田雅幸さん、北川直樹さん、鰐淵渉さんと一緒のゲルに泊まった。

 我々は同じゲルなので、それ以降「ゲル友」になり、日本国内のキャンプでもその関係がつづいている。なにかというと「ゲル友」なのだ。

 

 その夜は「ゲル中宴会」。ほかのゲルのメンバーも呼んでモンゴルの馬乳酒とモンゴリアン・ウオッカの「チンギスハーン」を夜中まで飲みつづけた。翌朝は「ゲル前談義」。ゲルの前にイスを置いて座り、二日酔いの朦朧とする頭で、とりとめもない会話を楽しんだ。ぼくたちはすっかりゲルが気に入った。

 

 この南ゴビのツーリスト・キャンプから南西に向かって行くと、急速に緑は消え、遊牧民の姿も消え、荒涼とした砂漠の風景に変わっていく。

 我々はゴビ砂漠の核心部に入ったのだ。

 

 水の一滴も流れていない涸川を逆上り、岩山地帯の峠を越えると、前方にはうねうねと連なる大砂丘が見えてくる。東西に100キロ以上もつづくホンゴル砂丘だ。峠を下るとぐっと砂丘に近づいた。

 

 そのホンゴル砂丘の真下で昼食。砂の上にシートを広げ、そこでインドのサモサ風の、肉入り揚げパンといったモンゴル料理のホーショールを食べた。

 

 昼食後、高さが300メートル近くある砂丘に登った。ブーツを脱ぎ、裸足になったのだが、砂は焼け、まるで火の中に足を突っ込んでいるようなもの。

「アッチチー」

 早々に砂丘を登るのを断念した。そのかわりに「ゴビ砂漠温泉」だとばかりに裸になって「砂湯」をした。まあまあの気持ちよさ。

 

 ホンゴル砂丘の東端あたりが大きな難所だった。それまでたどってきた轍がプッツンと途切れてしまった…。

 

 我々のサポートカーのパジェロは強引に台地の斜面を下り、道なき道を走る。我々バイク軍団もそのあとをついて走る。フカフカの砂との戦いの連続。まるで「砂地獄」の中を行くようなものだ。砂と大格闘し、グルグルと走りまわり、気がつくと元の場所に戻っているではないか。

 

「ヤバイ!」

 ぼくは心底、不安を感じた。

 これが砂漠で遭難する一番多いパターン。こうしてワンダリングしているうちにガソリンがなくなり、遭難してしまうのだ。

 

 ぼくと同じように遭難の不安を感じたのは「道祖神」の菊地優さん。ぼくと菊地さんは参加者のみなさんに不安を感じさせないように平静を装った。

 我ら「モンゴル軍団」を先導するサポートカーにはモンゴルの旅行社ジュルチンのみなさんが乗っているが、ゴビ砂漠の最奥部といってもいいこのあたりには、誰一人、今までに来たことがない。彼らにといっても未知の世界だった。

 

 さらにこのあともワンダリングを繰り返し、遭難の不安は頂点に達したが、パジェロは一か八かの勝負に出て、今までとは別方向の台地の斜面を一気に駆け登った。すると、けっこうはっきりとした轍に出た。このときは「助かった!」と、思わず声が出た。

 

「一難去ってまた一難」とは、まさにこのことだ。

 今度は湿地帯に入った。最初のうちは湿地の表面が乾き、幾何学模様の亀裂が入ったようなところで、バイクも車もまあまあ走れた。ところが轍が途切れたところでは、サポートカーのパジェロがズボッと泥土の中にもぐってしまった。全員で泥まみれになってネチネチの泥を堀り、車輪の下に枯れ木を何本も突っ込み、かろうじて脱出できた。

 

 ところが我々の後方からは真っ黒な雲が追ってくる。もし、ザーッと雨が降ってきたらもうお終いだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。またしても遭難の危機に見舞われた。

 

 我ら「モンゴル軍団」には2名の女性がいた。そのうちの1人、黒木道世さんは超能力を持っていて、指1本で雨雲を吹き飛ばせる人。ここはもう黒木さんに頼るしか方法はない。

「あの雨雲を吹き飛ばして下さい」

 と、頭を下げて頼んだ。

 この遭難の危機も黒木さんの超能力のおかげで突破できた。黒雲の流れはコースを大きく変えたのだ。

 

 その湿地というのは、我々が「東京23区大・湿地帯」と呼んだくらいの広大なもの。少しでも固そうな地面を探して道なき道を走り、日暮れが迫ったころ、ついに「東京23区大・湿地帯」を突破した。

 

「ここまで来ればもう大丈夫!」

 という台地上で止まり、そこでキャンプすることにした。

 全員で握手、握手の連続。我々は「助かった!」を口々に連発した。

 

 我ら「モンゴル軍団」はこうして2度の遭難の危機を突破し、モンゴル西部のバヤンホンゴルの町に着いた。そこからハンガイ山脈の峠を越え、ユーラシア大陸の広大な地域を支配した元の都のカラコルムを通り、首都のウランバートルに戻った。

 

 帰国するとすぐに、ぼくは50歳の誕生日を迎えた。「病」のせいで暗い40代だったが、もうそれともお別れ。「病」に勝ったぼくは、これからの50代も、ずっとバイクで走りつづけられると、そう確信するのだった。