賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「宮本常一」の故郷を訪ねて

 (『旅』1997年6月号 所収)

 1997年3月28日。東京駅7時07分発の「ひかり33号」博多行きに乗って、広島に向かった。柳田国男をしのぐともいわれるほどの民俗学者であり、また、生涯を通して4000日以上も日本国内を旅された偉大な旅人でもある宮本常一先生の故郷、周防大島を訪ねるのだ。

 ぼくにとっては、いつになく、不安を抱えての旅立ちとなった。というのは、その10日ほど前の3月17日に胸に出来た腫瘍の摘出手術を受け、出発の前々日に傷口の抜糸をしてもらったばかりだったからだ。腫瘍はかなり大きなもので、ゆで卵大ぐらいの大きさがあったという。

 東海大学病院で手術を受けたのは月曜日。

 その夜は集中治療で酸素マスクをかけられ、体には何本もの管がつけられ、自分が生きているのか死んでいるのか、わからないくらいの状態だった。それが火曜日になると酸素マスクが外され、管も次々に外され、一般病棟に移された。水曜日になると食事ができるようになり、それとともに38度あった熱は平熱に下がり、病院内の階段を登り降りできるようになった。

「あなたの体は、いったい、どうなっているの!?」

 と、看護婦さんにいわれたほどの急速な回復ぶりで、信じられないことだったが、なんと木曜日には退院となった。

 それというのも、「(またもとの体に戻たっら)旅に出たい!」という強烈な想いが、回復を早めたのだとぼくは確信している。

 この胸の腫瘍が見つかったのはその8年前。1989年の「50㏄バイク日本一周」に旅立つ直前のことで、そのときは目の前がまっ暗になり、「なんで、なんで自分が‥‥」と、天を恨んでしまったほどだ。

 そのときも東海大学病院で診てもらったのだが、先生はすぐに手術をいたほうがいいといった。だが、ぼくにとっては「日本一周」の方がよっぽど大事で、予定を変えずに旅立った。しかし、旅の間中、チラチラと頭をよぎる黒い死の影に怯えなくてはならなかった。これが何とも辛いことだった。

「50㏄バイク日本一周」を終えたあとも結局、手術は受けなかった。

 1990年には「50㏄バイク世界一周」、1991年には「東京-サハリン」、1992年~93年には「インドシナ一周」、1994年には「タクラマカン砂漠一周」、さらに1996年には「オーストラリア2周7万2000キロ」と、体の中に爆弾をかかえ込みながら世界を駆けめぐった。

 ついに観念して1997年、胸の腫瘍の摘出手術を受けたのだが、腫瘍は良性なもので肺も元どうりの形に戻り、ぼくは“闘病(逃病?)3000日”にピリオドを打つことができたのだ。

 自分の第2の人生がはじまったような晴れやかな気分。その出発点に宮本常一先生の故郷を訪ねるというのは、この上もない喜びを感じるのと同時に、人生の巡り合わせの不思議さをも感じるのだった。

 ぼくがはじめて宮本先生に出会ったのは、1970年のことだった。

 1968年の春に旅立ち、20ヵ月あまりをかけてアフリカ大陸を一周したのだが、帰国すると『旅』(JTB)、『現代の探検』(山と渓谷社)、『世界の秘境』(双葉社)の3誌で書かせてもらった。

 そのうち、『現代の探検』編集長の阿部正恒さん(当時『ポカラ』編集長)が、東京農大探検部OBの向後元彦さんを紹介してくれた。向後さんを訪ねていった先が、宮本先生が所長をされていた日本観光文化研究所(観文研)だった。そこで宮本先生の長男の宮本千晴さん(当時サウジアラビアに在住)に会うのだが、それはぼくにとっては、まさに運命的な出会いといっていい。千晴さんの自由な、悠然とした、幅の広い世界観にすっかり魅せられ、それからというもの、ひんぱんに観文研に足を運び、千晴さんの話を聞くようになった。

 そのような背景があっての宮本先生との出会だった。当時のぼくにとっては千晴さんがすべてだったので、「あ、千晴さんのお父さまですか」と、先生になんとも失礼なあいさつをしたのをはっきり覚えている。宮本常一がどのような人物であるのか、まるで知らず、ぼくにとってはたんに千晴さんのお父さんでしかなかった。

 その後、観文研にのめり込むのと同時に、さらに世界中を駆けまわり、27歳のときに結婚した。とはいっても結婚資金など、まったくない。で、どうしたかというと1万円の結婚式を挙げたのだ。1日1万円で保育園を借り、そこを式場にした。宮本先生御夫妻が仲人をして下さった。さらに所員の神崎宣武さん(現「旅の文化研究所」所長)が神主をし、観文研のメンバーたちが会場の飾りつけをし、料理をつくってくれた。午前中にはじまった結婚式は、延々と夜遅くまでつづいた。忘れることのできない、飲めや歌えの大宴会風結婚式だった。

 結婚すると、妻の洋子とせっせ、せっせとアフリカ行の資金を貯めた。1年が過ぎたところで長女の優子が生まれ、さんざん迷った末に、赤ん坊を連れて旅立つことにした。出発前に、東京・府中の宮本先生のお宅を訪ねると、先生は「子供を連れていくのはいいことだ。いままでのカソリ君の旅とは、きっと違う旅ができるだとう」といわれた。

 先生のその一言は、旅の間中の大きな励みになった。

 9ヵ月あまりの子連れの旅から帰ったころから、ぼくは観文研のプロジェクトで、本格的に日本を旅してまわるようになった。宮本先生の一番弟子といっていい田村善次郎さん(当時武蔵野美術大学教授)や、神崎宣武さん、工藤員功さん、山崎禅雄さん、三輪主彦さんらの諸先輩に教えを請いながら、日本各地を旅しつづけた。残念だったのは、宮本先生と一緒に歩く機会がほとんどないままに、1981年、先生が亡くなられてしまったことだ。それから8年後の1989年に日本観光文化研究所(観文研)は解散した。

◇◇◇

「ひかり33号」の広島到着は12時00分。すぐに山陽本線の下関行き電車に乗換え、大竹、岩国と通り、13時18分、山口県の大畠駅に到着。この大畠駅が、宮本先生の故郷、周防大島への玄関口になっている。大畠駅で下車し、

「さー、歩くゾ!」

 と、気合を入れる。これは“カソリ流”旅の仕方の儀式のようなものだ。

 まずは大畠港に行く。大島大橋が1976年に完成する以前は、ここから連絡船が対岸の周防大島の小松港に出ていた。橋の完成とともに旧国鉄の大島航路は閉航になったが、連絡船の桟橋はしばらくそのままの形で残っていた。だが、今はその跡形もない。

 全長1865メートルの大島大橋を歩いて渡る。前年から無料になったので、交通量が飛躍的に増えている。大島大橋は関門海峡、鳴門海峡とともに“日本三大潮流”のひとつに数えられる大畠瀬戸にかかっているが、その流れは速く、まるで渓流のように白く渦を巻いて流れている。橋の上から潮流を見下ろすと、スーッと吸い込まれそうになる。

 大島大橋を渡りきると、そこは周防大島。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぐ第3の大きさの島。日本全国に何十という大島があるが、周防大島は奄美大島に次ぐ大きさ。伊豆諸島最大の伊豆大島よりも大きい。“日本三大大島”といえば、奄美大島、周防大島、伊豆大島になる。

 大島大橋のたもとに周防大島温泉がある。

「ホテル大観荘」(入浴料1000円)の湯に入る。「えん歌風呂」と名づけられた大浴場には、その名のとおり演歌が流れていた。名づけの親は、周防大島出身の作詩家、星野哲郎氏だという。大畠瀬戸を目の前にするここの露天風呂からの眺めは最高だ。柳井港から四国の松山・三津浜港に向かう防予汽船のフェリーが流れの速い瀬戸を通り過ぎていく。白い帆を立てたタイ釣りの漁船が2、30隻ほど見られた。大畠瀬戸は絶好のタイ釣りの漁場になっている。

 周防大島温泉は、ぼくにとっては1975年に入った広島県の湯来温泉から数えて1222湯目の温泉になるが、“闘病(逃病?)3000日”に決着をつけた直後の温泉なだけに,その感慨はひとしおだ。手術後の体には、温泉の湯がしみ込むように効いていく。これが、温泉効果! 

 湯から上がるころには、「もう、大丈夫」と、自分の体に自信を持つことができた。旅する体に戻ったのだ。

 周防大島温泉の湯で生き返ったところで、大島大橋のたもとの停留所、東瀬戸からJRバスに乗り、宮本先生の故郷の東和町(現周防大島町)長崎へ。穏やかな瀬戸内の海を眺めながら50分ほどバスに乗り、周防下田駅で降りる。あっと驚いたのは、先生の故郷の風景が一変していたことだ。海が埋め立てられ、観客席つきの陸上競技場ができていた。

 その先の堤防上に立ち、宮本先生を育んだ海を眺める。1キロほどの沖合には、椀を伏せたような形の我島が浮かんでいる。先生の長男の千晴さんも三男の光さんも、我島には泳いで渡ったことがある。いかにも“自分たちの島”といった感のある“我島”の名前がいいではないか。

 鬱蒼と樹木のおい茂る下田八幡宮に参拝し、神宮寺の宮本先生の墓前で手を合わせたあと、宮本家を訪問する。現在、この地には、先生の奥様のアサ子さんと光さん一家が住んでいる。

 ぼくは今回の宮本家訪問では、アサ子さんにいろいろとお話を聞かせてもらいたかった。宮本先生があれだけの日数を旅することができたのは、アサ子さんの支えによるところがきわめて大きいと思われるからだ。

 宮本アサ子さんは大正元年(1912年)に大阪市浪速区塩草町で生まれた。旧姓は玉田。今年(1997年当時)で85歳になられるが、すこぶるお元気で、記憶もしっかりとしている。アサ子さんは塩草尋常小学校を卒業したが、10年下の卒業生には、作家の司馬遼太郎さんがいる。宮本先生の著作の大半を読んだという熱烈な“宮本ファン”の司馬さんなだけに、人のつながりの不思議さを感じる。(司馬さんは宮本先生の死後、観文研に来て熱心に話をしてくれたこともある)

 アサ子さんの実家は理髪店で、お父さんは何軒かの店を持っていた。今風にいえばチェーン店だった。昭和8年(1933年)に大阪府立女子専門学校(現大阪女子大)を卒業し、小学校の教師になった。

 その2年後の昭和10年(1935年)4月に、大阪・天王寺駅前のレストランで宮本先生とお見合いをした。そのときの先生は熱をこめて奈良や京都の古寺めぐりの話をされたそうで、アサ子さんはその話にすごく魅せられた。その後、先生は何通もの手紙を送り、ほとんど日曜日ごとに、アサ子さんを連れだしては奈良や京都の古寺めぐりをしたという。

 当時の宮本先生はといえば、大阪に出て胸を病み、2年ほど故郷で療養し、ふたたび大阪に戻り、小学校の教師をしているころだった。アサ子さんとお見合いをしたのは、先生が生涯の師と仰ぐ渋沢敬三氏と初めて出会った直後のこと。先生はこの時期、渋沢敬三、玉田アサ子と、たてつづけにご自身の生涯を大きく左右する2人の人に出会ったことになる。

 この時代、肺病といえば、死を覚悟しなくてはならないほど恐れられた病気だったが、アサ子さんは先生の胸の病はすこしも気にならなかったし、怖くもなかったという。だがいざ結婚という段になると、アサ子さんのお父さんは、先生の家の田畑が少ないという理由で、結婚に反対したという。

 それを乗り越え、お見合いをしてから8ヵ月後の12月に宮本先生はアサ子さんと結婚した。先生が28歳、アサ子さんが23歳のときのことだった。最初は南海高野線の堺東駅に近い借家住まいで、次に阪和線の鳳駅近くに移り住み、昭和12年(1937年)には長男の千晴さんが生まれた。

 昭和14年(1939年)、先生は小学校の教師をやめ、渋沢敬三氏が主宰するアチック・ミューゼアムに入所した。これを機に、日本全国を民俗学的調査で歩かれるようになり、先生の言葉を借りれば、

「33歳になって、一つの視点をもって歩きはじめたのである」(文藝春秋刊『民俗学の旅』より)

 ということになる。そして昭和18年(1943年)には、長女の恵子さんが生まれた。

 昭和20年(1945年)7月のB29の空襲で堺周辺は火の海になり、宮本先生の家は一瞬のうちに焼けた。それとともに、あちこちで聞き取りをした調査用ノート約100冊と原稿1万2000枚、さらに写真などの貴重な資料も一瞬のうちに失った。大きな痛手を負ったのだが、先生はそれにもめげずに、すぐさまレンガやトタンなどを集め、6畳と4畳半、台所の半地下式の家をつくり上げたという。

 翌昭和21年(1946年)、宮本先生夫妻は帰郷し、アサ子さんは姑のマチさんと一緒に住むようになる。マチさんは心の広い、どっしりした人で、働き者。力も強く、何でもできた人だという。

 大阪の町場育ちのアサ子さんをあたたかく迎えてくれ、「慣れないところで大変だね」といっては、なにかと気をつかってくれた。

 マチさんのおかげで、畑仕事にも慣れ、半日がかりの白木山の共有林への薪拾いもできるようになったという。

 白木山というのは、下田や長崎の浜を見下ろすこのあたりの最高峰である。

 周防大島というのは、他所者をあたたかく迎え入れてくれる土地柄なので、アサ子さんは町からやってきた嫁といった白い目でみられることはなかった。それがずいぶんとありがたいことだったという。だが、この年に生まれた次男の三千夫さんを生後50日目で亡くしてしまう。

 昭和27年(1952年)には、三男の光さんが生まれる。

 昭和37年(1962年)にマチさんが亡くなると、アサ子さんはその前年に先生が買われた東京・府中の家に移り住むのだが、それまでの16年間というもの、アサ子さんは先生の故郷を守り通したのだ。

 この間、旅に明け暮れた先生だが、心おきなく旅に出ることができたのは、アサ子さんが姑のマチさんといい関係にあり、家をきちんと守ってくれたことが大きい。さらに、先生のお姉さんのユキさん(小学校の教師をしていた)とも一緒に住んでいたが、とても器用な人で、アサ子さんのために、よく縫い物をしてくれた。そのたびにユキさんは、「常一さんは大事な人だから」といった。

 アサ子さんは先生の弟の市太郎さんにもよくしてもらった。大阪の実家では感じられなかったような家族愛を宮本家では強く感じたとアサ子さんはいう。

 先生の家族を思う心、家族の先生を思う心、この「家族愛」こそ、宮本常一の旅の原動力であったとぼくは思うのだ。旅に出て留守にしていても、いつもアサ子さんのそばにいるような、そんな存在感のある宮本先生だったという。

 アサ子さんが東京に出た翌年に渋沢敬三氏が亡くなり、その翌年には宮本先生は武蔵野美術大学(武蔵美)の教授になり、さらにその翌年の昭和41年(1966年)に日本観光文化研究所(観文研)が誕生した。武蔵美&観文研時代の宮本先生は、それまでの人生とはまた違った強烈な閃光を放ち、多くの若者たちがその光りの影響をまともに受け、民俗学の枠をはるかに越えた“宮本学”への道を歩むようになった。先生の死後10数年がたった今(1997年当時)、若き門下生たちはさまざまな分野の第一線で活躍している。

 宮本家訪問では、先生の奥様のアサ子さんにお会いできたのと同じように、光さん夫妻との再会はうれしいものだった。ぼくは1978年と1989年の2度、50㏄バイクで「日本一周」をしているが、2度とも光さん夫妻にはずいぶんとお世話になった。夫妻は柑橘類とサツマイモの栽培をメインに農業で生計をたてているが、それは偉大な父親が夢みてできなかった生き方なのである。

「私の若いころからの一つの夢は六十歳になったら郷里に帰って百姓をすることであった」(『民俗学の旅』より)

 という先生の夢を息子の光さんがかなえてくれた。

 それはさておき、1978年のときは光さん夫妻のミカンの収穫を手伝った。1989年のときは、山口県の農業祭で光さんは味自慢の宮本農園産サツマイモの石焼きいもを売ったが、ぼくは「さー、いらっしゃい、いらっしゃい!」と、客の呼び込みをした。今回の1997年では、ビニールハウス内のサツマイモの苗挿しを手伝ったが、光さんは「カソリさんはいい手つきをしてますよ。ファーマーの称号を与えましょう!」と、冗談半分にいってくれた。

 宮本家では、2晩、泊めていただいた。最後の日は、光さんに車を借り、アサ子さんをお乗せして東和町内をまわった。そのあと、光さん夫妻と一緒に周防大島温泉「大観荘」の湯に入り、料理屋で瀬戸内の海の幸を存分に味わい、光さんに大畠駅まで送ってもらった。「また、今度、3度目の日本一周のときに来ますからねー!」と、光さん夫妻に別れを告げた。

 周防大島に来たときとは逆に、山陽本線の電車で広島まで行き、新幹線で東京に向かったが、ぼくは車中で宮本先生の『民俗学の旅』の本をあらためて読んだ。今までに何度か読んだが、今回はそれ以上に、夢中になって読んだ。東京に着く前に読み終え、それと同時に、自分自身の胸の中に熱い血が流れるのを感じるのだった。

「よーし、やってやろう!」。

 宮本先生は、生涯をかけて、4000日以上も日本国内を旅された。その足跡は、日本の国のすみずみにまで及ぶ。ぼくは20歳のときにアフリカに旅立って以来、49歳の今日(1997年当時)まで、4500日あまり旅してきた。

 しかし、日本に限っていえば、本格的にまわりはじめたのは27歳以降のことで、その日数は1800日ほどでしかない。あと、2200日、なんとしても、

「旅の日数だけでも宮本常一に追いつくゾ!」

 と、東京駅の新幹線ホームに降り立ったときにそう決心するのだった。