カソリと走ろう!(4)「チベットの聖山カイラスへ」
(『ゴーグル』2004年9月号 所収)
人生、「一寸先は闇」。
何が起きるか、わからない…。
前回の「モンゴル周遊」を終え、帰国してすぐにぼくは50代に突入したが、体力も気力も充実していた。
9月には「東北一周」を走り、10月には九州の「峠越え」で50峠を越え、11月には「東京→富山→京都」間で58もの「日本一」を見てまわった。「日本一めぐり」のツーリング。12月に入ると吹雪の田代山林道を走り、奥会津で雪中キャンプをした。
ということでカソリ、怖いものなし。パワー全開でバイクを走らせ、
「バイクは50になってからがおもしろい!」
と、大口をたたいていた。
ところがその年の暮れ、12月29日の未明に突然、心臓発作に見舞われた。
何の前ぶれもなしに、急に苦しくなった。首を細ひもで締められているかのような息苦しさ。女房の車で我が家に近い東海大学病院の救命救急センターに運ばれた。
心電図をとられると心臓停止の一歩手前だといわれた。脈拍は途切れ途切れで、1分間に30もない…。
幸か不幸か、年末でベッドがとれず、入院できなかった。
半日、待合室で待たされ、具合が大分よくなったとのことで家に帰された。
何とも暗い気分で迎えた正月。もう最悪だ。人間、心臓をやられるとまったく動けなくなってしまう。家の階段を登るのが辛かった。
新年早々、東海大学病院の循環器内科で心臓の検査がはじまった。病名は「発作性心房細動」。いろいろな検査を受けたが、心臓には何ら異常はなかった。2月に入ると、もう通院しなくてもいいといわれた。だが、体は元には戻らなかった。体が動かないのだ。
バイクに乗れるようになったのは4月になってからだった。バイクに乗るようになってからというもの、急速に体が動くようになった。このときぼくは「バイクは最高の健康機器!」だと、確信した。
しかし、心臓発作の後遺症は大きく、ひどい不整脈が残った。
1日に2万回近くもの脈が抜けてしまうのだ。9月になると、再び東海大学病院の循環器内科に行った。すると心臓の動きを抑える薬を飲まされた。これを飲むと気分がすごくブルーになってしまう。それを3ヵ月以上も飲んだが、ちっともよくならない。すると先生は「薬を変えましょうね」といって、心臓の動きを活発にさせる薬に変えた。その薬を飲みはじめてからの恐怖感といったらない。まるで心臓がピョコンピョコン飛び跳ねるよう。
「これはヤバイ!」
と、ぼくは自分の判断で薬を飲むのをやめた。
それからまもなく、スズキDJEBEL250GPSバージョンで、1年遅れになった50代編の「日本一周」に旅立った。東京を出発してから13日目、四国の四万十川沿いを走っているときのことだった。信じられないことに、不整脈はピタリと治っていた。ぼくはますます「バイクは最高の健康機器!」だと確信した。医者でも治せない病気をバイクが治してくれたのだ。
1999年の「日本一周」は「西日本編」と「東日本編」の2分割でまわった。
その間の夏、8月1日に「同祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第4弾目、「聖山カイラス巡礼22日間」に出発した。
カイラスはチベット第一の聖山だ。
ネパールのカトマンズを経由し、チベットの中心、ラサに着いたのは8月3日。
ラサではポタラ宮に隣り合った「航空酒家」に泊まった。チベット人ガイドの女性からは英語で
「今日は絶対にアルコールを飲まないで下さいね」
と、念を押されたのにもかかわらず、ラサまで来た喜びで夕食後、
「もう、トゥデイ(今日)じゃなくてトゥナイト(今夜)だから、さー飲もう!」
と、「チベット軍団」の10名のみなさんと「ラサビール」で乾杯。
さらに次々と「ラサビール」をあけた。
ラサは標高3650メートル。この高度で何本ものビールを飲んだせいで、翌日はすっかり高山病にやられてしまった。
息苦しさや頭痛だけでなく、40度近い高熱まで出た。1回10元(約150円)の酸素を5回も吸ったが、息苦しくてほとんど寝られない。
翌日、中国製125ccのオフロードバイクにまたがり、我ら「チベット軍団」はポタラ宮前の広場を出発し、チベット第2の町、シガツェに向かった。その間は270キロ。ぼくの体調は最悪でウツラウツラ状態。フラフラになって走った。シガツェは標高3836メートルで富士山よりも高くなる。高山病はよけいにひどくなった。
シガツェを出ると際限のないダートがつづく。シガツェを出てからわずか27キロ地点で、先頭を走っていたぼくは道のギャップがまったく目に入らず、ノーブレーキでそれに突っ込んだ。
30メートルほど吹っ飛び、恐怖の顔面着地。しばらくは意識を失った。気がついたとき、最初はバイクでサハラ砂漠を走っているのではないかと思った。
「今、チベットに来ている」
と、わかるまでには相当、時間がかかった。すぐにかけつけてくれたサポートのチベット人スタッフたちは、ぼくがピクリとも動かなかったので、
「カソリさんが死んだ…」と思ったそうだ。
このあたりが、今までに何度も修羅場をくぐり抜けてきたカソリの強み。
起き上がると、自分で自分の体を確かめる。首を強打したので、首はほとんどまわらない状態だったが、骨は折れていないと判断した。顔面血だらけだったが、これも口の中を切ったもので、そうたいしたことではない。顔面着地した瞬間に吹っ飛んだヘルメットのバイザーが絶好のクッションになってくれた。
顔面を地面にたたきつけたとき、無意識に顔を護るために、右手で地面をついていた。そのため右手首がみるみるうちに腫れてきたが、これも骨折はしていないとの判断を下した。
バイクのダメージも大きかった。
チベット人スタッフたちはグニャと曲がったフロントホークを外し、ジャッキを使って直したりして、短時間でなんとかまた乗れるような状態にしてくれた。ほんとうにチベット人スタッフの献身的な努力には感謝感激だ。
ハンドルの曲がったバイクにまたがり、いきなり標高4950メートルのユロン峠を越える。この高度、この空気の薄さの中で、はたしてバイクが走ってくれるだろうか…と、大いに不安だったが、3速、もしくは2速でトコトコ峠を登っていくではないか。
祈願旗のタルチョが舞う峠の頂上に着いたときは、我ら「チベット軍団」、最初の大きな難関を突破した喜びにひたった。
ユロン峠を下ると、標高3951メートルのラチェの町。ラチェを過ぎ、ネパールへの道との分岐点を過ぎ、最後の町サガを過ぎると、最悪の道になる。何度、川渡りをしたことか。いや、川渡りなどというものではなく、大石がゴロゴロしている川の中をずっと走っていくような道だった。
ぼくの右手は野球のグローブのように腫れ上がっているので、アクセルを握るのが苦痛だった。
精も根も尽き果てたところで野宿。夜が恐怖だ。事故で全身を強打しているので、体の芯からズッキン、ズッキンと突き上げてくる猛烈な痛みで一睡もできない。
おまけに首をやられているので寝返りも打てなかった。
そんな体調で標高4000メートルから5000メートルのチベット高原に入っていった。
ラサからはアジアの大河、ガンジス川の一方の流れ、ブラマプトラ川上流のヤルツァンポ川に沿って西へ、西へと走った。そのガンジス川水系の最後が標高5216メートルのマユム峠になる。ユロン峠から数えて16番目の峠だ。
ヤルツァンポ川の流れに別れを告げ、マユム峠を目指して山の斜面の草原を駆け登っていく。曲がりくねった峠道を想像していたが、かなり直線的な峠道。
標高5000メートルをはるかに超えた高地でも、チベット人は家畜のヤクとともに生きている。それは人間の強さをぼくに思い知らせるような感動的な光景だった。
人間は5000メートルの高地でも、平気で生活できるのだ。マユム峠の頂上に着いたときは、「やったゼー!」と、大声で叫んでやった。
マユム峠を下ると、何本かの渓流を渡ったが、なんと川面が真っ黒になるほどの魚影の濃さ。渓流魚がウジャウジャいるのだ。夕食のおかずにしようと、トラックが勢いをつけて往復しただけで、200匹近い魚が川面に浮いた。もう取り放題。信じられないような光景だ。2、3分で楽に2、30匹は取れた。これでは1日かけてイワナ数匹という日本の渓流釣り師は、チベット人に笑われてしまう。
マユム峠から3つ目の峠、標高4660メートルのホルッシュ峠に立ったときも感動だった。まさに「絶景峠」。右手には聖山カイラスを遠望し、正面には神秘の湖、マナサロワール湖を見る。古来より、この湖こそ、アジアのすべての大河の源だと思われてきた。「自分は今、アジア大陸最奥の地にいる!」
ホルッシュ峠ではそんな感動を味わった。
ホルッシュ峠を下り、カイラス巡礼の村、タルチェンに到着。
カイラスは仏教徒、ヒンズー教徒、ジャイナ教徒らにとっての聖山なので、チベット内はもとより、中国各地やネパール、インドなどから多くの巡礼者がこの地にやってくる。ここから南側に目を向けると、標高7694メートルのナムナニ峰や、標高7816メートルのナンダデビ峰といった7000メートル峰がまるでなだらかな丘のように見えた。
我ら「チベット軍団」はタルチェンからさらに20キロほど走り、カイラス山を間近に眺める地点でバイクを停めた。ラサを出発してから8日目、1281キロを走ってのカイラス到着だ。チベッタンブルーの抜けるような青空を背にした標高6656メートルのカイラス山の雪がまぶしいくらいに輝いていた。
その夜、タルチェンに戻ると、参加者の堀内一さん、生田目明美さんに「さー、カソリさん、カイラス到着を祝ってガンガン、飲みましょう!」とビールをすすめられたが、ぼくは一滴も飲めなかった。2人はまったく高山病にはならなかったのだ。タルチェンからラサへの帰路も、相変わらずの高山病と事故の痛みとで、なんとも辛いものだった…。
命からがらラサに戻ってきたときは、きっといつの日か、リベンジの「チベット横断」をしようと、固く心に誓うカソリだった。