賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

本を旅する(3):宮本常一『忘れられた日本人』

賀曽利隆「名倉探訪」(初出:『ジパングツーリング』2001年2月号)

 

我が師、宮本常一先生

「我に師なし、我に弟子なし」

 と言いつづけてきた一匹狼のカソリだが、実は一人、師がいる。それは柳田国男をしのぐとさえいわれる偉大なる民俗学者の宮本常一先生だ。先生はまた生涯を通して4000日以上も旅された偉大なる旅人でもある。その足跡は日本国中に及ぶ。先生は膨大な著作を残されたが、『宮本常一著作集』(未来社)だけでも、全41巻を数えている。

 

 ぼくは宮本先生がつくられ、所長をされていた日本観光文化研究所の所員だった。通称「観文研」。ここはじつにユニークな組織で、宮本先生の教えに興味を持ったり、共感して「所員になりたい!」と思った者は誰でもが自由に所員になれた。

 

 所員といっても、別に給料が出るわけでもなく、拘束されるわけでもなかった。ひとつありがたかったのは、

「君らを食わせてやることはできないが、歩かせてはあげる」

 という宮本先生の方針どおり、様々なテーマで日本各地を旅する旅費をもらえたことだ。観文研のプロジェクトで日本各地を歩くことによってぼくは日本を知るようになった。

 

 観文研とかかわるようになったのは、スズキTC250を走らせての2年あまりに及ぶ「アフリカ一周」から帰った直後のこと。当時、カソリ、22歳。それから観文研が解散するまでの18年間ずっと所員だった。

 

 ぼくは27歳のときに結婚した。1年半の「世界一周」の旅から帰ったばかりで、自慢ではないが結婚資金など一銭もなかった。で、どうしたかというと、全費用1万円の結婚式をあげた。宮本先生ご夫妻が仲人をしてくださったのだ。

 

 1万円で保育園を借り、観文研先輩の神崎宣武さんが神主をしてくれた。観文研の仲間たちが会場の飾りつけをし、豪勢な料理をつくってくれた。本職の神主でもある神崎さんが祝詞をあげてくれている結婚式の一番のハイライトシーンでは、

「石焼きーいも、焼きいもー」

 と、石焼きいも屋さんの軽トラックがスピーカーのボリュームいっぱいに上げて保育園の前を通り過ぎていった。そのときの、一生懸命になって笑いをこらえていらした宮本先生のお姿が、いまだにぼくのまぶたに焼きついて離れない。

 

 ものすごく残念だったのは、宮本先生と一緒に歩く機会がほとんどないままに、1981年1月30日、先生が亡くなられてしまったことだ。それから8年後の1989年3月31日に観文研は解散した。

  

「名倉談義」の舞台へ

 宮本常一先生の代表作のひとつに『忘れられた日本人』がある。著作集の第10巻に収められている。それが先生の死後、岩波文庫の1冊になった。この『忘れられた日本人』の中に出てくる「名倉談義」の舞台、奥三河の旧名倉村に『ジパングツーリング』の若き編集部員、関野温さんと一緒に行くことになった。関野さんは以前から奥三河に興味を持っていたという。

 

 旧名倉村は現在の地名でいうと、愛知県北設楽郡設楽町の東納庫と西納庫を中心とする名倉地区になる。旧名倉村のほぼ中央を国道257号が走っている。

 

 深夜の東名を疾走し、ぼくたちは夜明けに豊川ICに着いた。カソリがスズキDJEBEL250GPS、関野さんがヤマハのレイド。2台のバイクで名倉を探訪するのだ。

 

 設楽町までの途中では、三河の一の宮の砥鹿神社や奥宮のある本宮山、織田・徳川の連合軍と武田軍が激しく戦った長篠の古戦場、仏法僧で知られる鳳来寺山などに寄り、その夜は奥三河の秘湯、設楽町塩津温泉の「芳泉荘」に泊まった。

 

 この温泉宿での夜がよかった。湯につかり、夕食を終えると、さっそく『忘れられた日本人』の文庫本を取り出し「名倉談義」を読む。その舞台に来て読む「名倉談義」はよけいに味わい深いものだった。

 

「名倉談義」というのは、旧名倉村のお年寄りたちに集まってもらって座談会をおこない、その話をまとめたものである。お年寄りたちの話の中からは、じつに見事に村人たちの生活ぶりが浮かび上がってくる。さらに奥三河の風土も浮かびあがってくる。

 

 翌日はさっそく「名倉談義」の舞台へと向かっていく。設楽町の中心の田口から国道257号を北へ。豊川上流の境川にかかる赤い設楽大橋を渡ると、そこからが旧名倉村だ。

 峠道を登っていく。家が2、3戸見える延坂を過ぎると、峠の頂上。地図上では名無しの峠だが、地元の人たちは延坂峠といっている。

 

 この延坂峠の旧道が「名倉談義」に出てくる万歳峠だ。「名倉談義」には、次のように書かれている。

 

「日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳をとなえて別れて来たのであるが、峠の上で手をふって別れると、送られる方はすぐ谷のしげみに姿がかくれてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より五丁(約500m)あまり手前の所にした。そこで、別れの挨拶をして万歳をとなえ、送られる方はそれから振りかえりながら、五丁あまりを歩いて峠の向こうに下っていくのである。こうして万歳峠が峠の頂上から五丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。まことにこまやかな演出ぶりである。こうした事に村共同の意識の反映をつよく見ることができる」(岩波文庫『忘れられた日本人』より)。

 

 あいにくの天気で雨が降っていたが、ぼくは「万歳峠」のパフォーマンスだ!と、国道257号の峠上で雨に打たれながら万歳した。

 

 峠を下ったすぐのところに、その名も「峠」という喫茶&軽食の店があった。そこで食事しながら、さりげなく万歳峠のことを聞くと、客で来ていた地元の人が、

「ほら、国道がゆるく登ったあのあたり、あそこで万歳したんだよ」

 と教えてくれた。それは宮本先生がいうところの、五丁手前の万歳峠のことだった。

 

 万歳峠を越えると、山深い風景から名倉川沿いの開けた風景に変わっていく。最初に出会う集落が大桑。名倉川をはさんだ対岸が大久保の集落。この大久保にある寺で「名倉談義」の座談会がおこなわれた。昭和31年の秋のことだった。

 

 その座談会に参加したのは、大久保の後藤秀吉さん、猪ノ沢の金田茂三郎さん、社脇の金田金平さんと小笠原シウさんの4人のお年寄りだった。さっそく座談会の舞台になった臨済宗妙心寺派の大蔵寺に行ってみる。苔むした石段を登った上からは旧名倉村を一望できた。本堂の前でまた「名倉談義」を読んでみた。

 

「名倉談義」の4人のお年寄りは、もうこの世にはいないが、大久保の集落は歩き、猪沢と社脇の集落にはバイクで行った。

 

 感動的だったのは、社脇だ。ここでは小笠原シウさんのご家族の方々に話を聞くことができた。シウさんの息子さんのお嫁さんにあたる90歳を超えたおばあさん、小笠原三枝さんがご健在だった。

 

 小笠原シウさんは戸籍上では「小笠原志やう」さんで「しょうさん」とか「じょーさん」「おじょねー」と呼ばれていたという。明治16年生まれ。「名倉談義」の座談会で話した翌年の昭和32年に亡くなられたという。

 

 小笠原シウさんは「名倉談義」の中で次のような話をされている。

「わたしは六つのときに子守にいって九つまで子守をした。いまの子供で六つといえばネンネだが、わたしら六つで子供の一人まえにされました。十歳になると草刈にやられるようになりました。そうして十六の年にはもう嫁にいった」

 

 また次のような話もされている。

「わたしの家の菜飯は大根飯が主でありました。大根をたくさんつくり、切干にしたり、氷大根にしたり、またハサにかけてほして漬けたり、飯もおかずも皆大根でありました。それでも切干をアラメ、タケノコと一しょに煮シメにしたものを山でたべるのはうまかった。昼まえになると飯櫃を荷俵に入れておうて、さいは桶に入れて持っていったもんです」

 

 ぼくたちはこのあと、旧名倉村の中心、東納庫を歩いた。「納庫」でやはり「なぐら」と読む。現在の設楽町役場の出張所と、それに隣合った農協の建物のあるところに旧名倉村役場があったという。

 

 さらに国道257号で西納庫を通り、「名倉談義」にも出てくる稲武町の中心、稲橋に行った。ここでは夏焼温泉「岡田屋」の湯に入った。稲武町からは奥三河ときわめてつながりの深い信州の根羽村まで行き、そこから折元峠を越えてまた設楽町に戻ってきた。

 

 このように「名倉」というのは、何も特別なところではない。日本中のどこにでも「名倉」はある。宮本常一先生は「名倉談義」を通して、

「日本中どこに行っても、おもしろいところばかりじゃ」

 と教えてくれているようだった。

 

忘れられた日本人(岩波文庫)