賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの「宮本常一研究」(9)

「日本観光文化研究所」(第1回目)

(『ツーリングマップルマガジン』2008年Vol1 所収)

「我に師なし 我に弟子なし」

 そういいつづけてきた一匹狼のカソリだが、じつは1人、師がいる。それは柳田国男をしのぐとさえいわれている民俗学者の宮本常一先生だ。

 宮本先生は生涯を通して4000日以上も旅された偉大なる旅人でもある。その足跡は日本国中に及ぶ。

 ぼくは宮本先生がつくられ、所長をされていた日本観光文化研究所の所員だった。

 通称「観文研」。

 ここはじつにユニークな組織で、宮本先生の教えに興味を持ったり、共感して「所員になりたい!」と思ったら、誰でも自由に所員になることができた。所員とはいっても、別に給料が出るわけでもなく、拘束されるわけでもなかった。

 何ともありがったのは、

「君らを食わせてあげることはできないが、君らを歩かせてあげる」

 という宮本先生の方針どおり、所員は様々なテーマで日本中を旅する旅費をもらえたことだ。

 観文研の資金は全額、大手旅行社の近畿日本ツーリストから出ていたが、ぼくは観文研のプロジェクトで日本各地を歩くようになり、日本を知るようになった。

 ぼくが観文研とかかわるようになったのは、スズキTC250を走らせ、2年あまりの「アフリカ一周」(1968年~69年)から帰った直後のこと。

 当時カソリ、22歳。

 それから1989年3月、観文研が閉鎖されるまでの18年間、ずっと所員だった。

 日本観光文化研究所では「あるくみるきく」という月刊誌を出していた。まさに観文研のシンボルで、宮本先生はあふれんばかりの情熱をこめて、毎号の「あるくみるきく」の監修をされていた。

 1967年3月に出た「特集国東」が記念すべき第1号。

 それ以降、毎号、特集形式で出していった。

「あるくみるきく」のタイトル名からもわかるように、とにかく自分の足で歩き、自分の目で見、いろいろな人たちに話を聞き、それを文章にまとめたのが「あるくみるきく」。「あるくみるきく」の1冊1冊には宮本先生の熱い思いがこめられていた。

「アフリカ一周」の旅から帰ったあと、観文研に出入りするようになったといったが、宮本先生はきわめつけの貧乏旅行だったぼくの「アフリカ一周」をおもしろがってくださり、「あるくみるきく」に書かせてもらえることになった。とはいっても、なにしろ文章を書く術も知らないカソリだったので、大変なことになった。

 そんなときに、宮本先生のご子息の宮本千晴さんがじつに良いアドバイスをしてくれた。

「なあ、カソリ、そんなに大げさに考えなくってもいい。原稿にまとめなくてもいいから旅の間で強く印象に残ったことをカードに書いてみたらいい」

 宮本千晴さんのアドバイス通り、全部で150枚のカードに思い出のシーン、印象深いシーンを書き込み、それを終えると日本人ライダー初となる「サハラ砂漠縦断」を一番の目的とした「世界一周」(1971年~72年)に旅立った。

 その150枚のカードを編集してくれたのは東京農業大学探検部OBの向後元彦さんと早稲田大学探検部OBの伊藤幸司さんだった。

 2人は当時の日本の探検、冒険の世界をリードするような人。向後さんと伊藤さんはその150枚ものカードをたんねんにつなぎ合わせ、「あるくみるきく」の1冊にしてくれた。書いた本人がいないのだから、向後さんと伊藤さんはさぞかし苦労されたことだろう。

 こうして完成したのが「あるくみるきく」第66号の「アフリカ一周」だった。それを「世界一周」の途中、資金稼ぎのバイトをしていたイギリスのロンドンに送ってもらった。異国の地で、「あるくみるきく」の「アフリカ一周」の号を手にしたときの喜びといったらなかった。

「あるくみるきく」第66号の「アフリカ一周」には、さらに後日談がある。

 それを目に留めてくれた人がいた。作家の坂口安吾や壇一雄らと懇意にしていた編集者の八木岡英治(故人)さん。ぼくが「世界一周」から帰るとまもなく、八木岡さんが訪ねてきた。会うなり、「あるくみるきく」の「アフリカ一周」はおもしろかった、ぜひとも本にしましょうと、そういってくれたのだ。信じられないような話だ。このようないきさつで、ぼくにとっては最初の本となる『アフリカよ』が出来上がった。

 ところでゲラ(校正)が出たとき、八木岡さんは壇一雄さんに読んでもらった。壇さんは一気に読み終え、すごくおもしろがってくれたという。そして、『アフリカよ』の前書きに、「ここに青年の行動の原型があり、純粋な旅の原型がある。何か途方もなく大きな希望があり、夢がある。ぼくが今、二十歳で、この著者と同じことが出来ないのが、唯一、残念なことである」と、書いてくれた。

 壇さんは『アフリカよ』のゲラを読み終えるとすぐに、ぼくに会いたいと言ったという。しかし、残念なことに、ぼくは壇さんに会うことなく、次の「六大陸周遊」(1973年~74年)に旅立った…。