日本食べある記(14)長崎のクジラとカラスミ
(『市政』1995年1月号 所収)
長崎の異国の風
東京から寝台特急「さくら」に乗って行った10月上旬の長崎は、間近に迫った“長崎くんち”(10月7日~9日)の準備であわただしかった。くんち(地元のみなさんは“おくんち”といっている)は諏訪神社の祭り。その間、長崎はくんち一色に塗りつぶされ、市民は熱狂する。
うろこ雲が夕空をうめつくすころ、諏訪神社に行ってみると、くんちに備えて境内では、山車、御座船の練習がおこなわれていた。御座船には子供たちが乗り、鉦や太鼓を鳴らしている。その異国風の音色に合わせ、大人たちが御座船を引きまわす。ときには急回転させたりして激しく引きまわす。
別の町内では、龍踊りの練習で銅鑼が鳴り響いていた。長崎は銅鑼が合う町。腹の底まで響いてくる銅鑼の音を聞きながら、龍踊りを見ていると、
「ここは、ほんとうに日本なのか……」
と、不思議な気持ちにさせられた。
長崎の市街地の東側、風頭山の麓には、全部で13の寺々が並んでいる。どこの寺に行くのにも、石段を登っていく。真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗と宗派はまちまちだが、その中に唐寺が2寺ある。興福寺と崇福寺である。
興福寺は元和6年(1620年)に南京出身の華僑が建立したもので、南京寺と呼ばれている。年輪を重ねた山門が、長崎最古の唐寺を感じさせる。本堂の大雄宝殿は堂々とした建物で、そりかえった大屋根がいかにも唐寺らしい。境内にたたずみ、大伽藍をながめていると、興福寺を建立した当時の華僑の実力が偲ばれた。
崇福寺は寛永6年(1639年)に福建出身の華僑が建立した。龍宮城の入口を思わせるような三門をくぐると、国宝に指定されている第一峰門や本堂の大雄宝殿がある。崇福寺を裏山から見下ろすと、重なり合った甍の波が、なんともいえずに美しい。
唐寺はさらに長崎駅に近い立山の麓にもある。福済寺と聖福寺である。
福済寺は興福寺、崇福寺とともに“長崎の唐三ヵ寺”といわれたが、壮大な伽藍は原爆で破壊されてしまった。現在は亀の背中に観音が乗った形の、巨大な観音堂が建っている。そのなかに、ありし日の福済寺の全景写真が掲げられている。
聖福寺は唐3ヵ寺のあと、広東出身の華僑が延宝5年(1677年)に建立したもので、広東寺と呼ばれている。大屋根は苔むし、瓦と瓦の間には草がはえている。裏山の階段を登ると、大屋根越しに長崎の町並みを一望のもとに見下ろせる。
長崎のこれら4寺の唐寺には、航海安全の女神、天后聖母をまつる媽祖堂がある。媽祖堂は仏殿よりも先に建てられたものだ。
館内町には、かって唐人屋敷があった。その屋敷跡には石碑が建ち、土神堂や観音堂、天后堂が残っている。
元禄2年(1689年)、長崎奉行は唐人の密貿易と切支丹取締りのために唐人屋敷をつくり、唐人5000人を収容した。ここに出入りできたのは役人と遊女だけで、唐人の外出は禁止された。だが寺参りには寛大であったので、唐人たちは、子供たちに菓子などを与えながら興福寺や崇福寺などを参詣してまわった。長崎の町民たちは、唐人を“阿茶さん”と呼び親しんだという。このように長崎は、東シナ海の海を越えた異国の世界と密接に結びついていた町だ。
長崎の鯨肉料理
長崎の異国情緒に触れながらの町歩きで、それ以上に私の心に残ったのは各町々にある市場めぐりだ。いくつもある市場のなかでも、とくに最大の築町市場は印象深い。
築町市場とその界隈を歩いていて目をひいたのは、鯨肉専門の精肉店があることだ。
赤身刺し身 600円
赤身ステーキ 600円
ゆでクジラ 1500円
塩クジラ 800円
ベーコン 1500円
胃袋 1500円
さえずり 1500円
(100グラム当たりの値段)
精肉店の冷凍ショーケースにはこのような鯨肉が、ずらりと並んでいる。商業捕鯨が全面的に禁止された以降、シロナガスクジラはとれなくなったので、これら鯨肉はミンククジラのものである。なお、さえずりとはクジラの舌のことである。
昔から長崎人は、クジラをよく食べた。長崎人の鯨肉を食べる量は、日本一だったといってもいいほどなのである。
長崎に近い大村湾に面した東彼杵は江戸時代、五島列島周辺で捕獲したクジラの集散地としておおいに栄えた。そこから各地に鯨肉は出荷されていった。それとともに、いろいろな鯨料理も広まっていった。鯨肉料理の伝統のあるこの地方なので、鯨肉は正月料理にも欠かせない。
長崎地方特有の鯨肉加工に、百尋と湯かけクジラがある。
百尋はクジラの腸をゆでたものである。冷凍したクジラの腸を氷水の中で徐々に解凍し、それと同時に血抜きを十分におこなう。解凍した腸を塩でもみ、腸内の内容物をきれいに洗い出し、うすく塩味をつけ、もとにもどして切り口や破れ目を縫い合わせる。
それをゆがくのだが、沸騰した釜のなかに入れると、最初は沈むので焦げないようにかきまぜる。煮えてくると浮き上がってくるので、落とし蓋をし、重しをのせてさらに4、5時間煮つづける。このように長時間煮たあと、冷水で冷し、水切りしてできあがる。それを酢味噌や酢醤油をつけて食べるのだ。
湯かけクジラは、塩蔵した尾羽(クジラの尾の部分)をうすく切り、それに熱湯をかけ、水でさらしたもの。フワフワッと、まるで新雪が積もったように広がり、それを百尋と同じように酢味噌や酢醤油につけて食べる。チリチリッとした舌ざわりと、弾力のある歯ごたえがなんともいえない。
長崎では、煮しめにも鯨肉をよく使った。腹側の脂身の部分、畝を使うのだが、塩抜きした畝とジャガイモ、サトイモ、ニンジン、レンコンなどの野菜を一緒に煮、醤油で味つけする。
クジラをとりまく環境が厳しくなっているのにもかかわらず、こうして鯨肉専門店がしっかりあるところが、いかにも長崎らしい。
カラスミの老舗店
築町市場とその界隈を歩いていて、もうひとつ私の目を引いたのは、
「創業延宝三年」
「創業安政六年」
といった看板を掲げたカラスミの老舗である。
カラスミはカズノコやスジコ、イクラ、タラコなどと同じような腹子と呼ばれる魚の卵(卵巣)を原料にしているが、主にボラの腹子をつかっている。それを塩漬けにし、圧搾、乾燥させた食品。その形が唐墨(中国製の墨)に似ているので、その名がある。
長崎のカラスミは、江戸時代には越前のウニ、三河のコノワタとともに“天下の三珍”といわれたほどの珍味なのである。
カラスミの原料になるボラの主な漁場には、長崎に近い野母崎の樺島や五島列島の富江、天草の牛深などがある。そのなかでも樺島産のものが、卵の成熟度が一番カラスミづくりに適しているといわれ、古くから名を成してきた。
ボラは回遊魚である。
樺島では例年、10月下旬から11月中旬にかけてがボラの漁期になる。産卵期のボラをボラ敷網という網漁でとっている。漁獲されたボラは、雌雄に分けられ、卵に傷がつかないように特殊な包丁で雌の腹が裂かれる。
カラスミづくりの工程は、次のようなものである。
取り出した卵をきれいに洗い、その際、軽くしごくように卵を押して血抜きする。水切りしたあとで、卵の全面に手で塩をこすりつけ、4斗樽に150腹前後を漬けこむ。塩はおよそ15キロから20キロほど使い、塩のなかに卵を埋め込むぐらいにする。このようにして、4、5日から1週間ほど塩蔵すると、卵は固くしまってくる。
塩漬けの終わった卵を真水に浸し塩抜きするのだが、この工程が一番難しいとされ、カラスミ業者は昔からこの技術を秘伝としてきた。というのは、指先の感覚によって卵の硬軟の度合いを知り、塩加減しなくてはならないからだ。あまり塩を抜きすぎてしまうと腐ってしまい、塩が強すぎると味が落ちてしまう。
1時間ほど水に浸しておくと、卵はしだいにやわらかくなる。そのあとで、卵膜を破らないように卵を軽くもみほぐし、塩抜きを早める。
塩抜きが終わると、十分に水切りをする。水切りした卵を厚板に並べ、板にはさみこんで形を整え、寒風に吹きさらして乾燥させる。11月から12月にかけての、冷たい風が吹きつける晴天の日が、カラスミ干しには最適の天候。10日あまり日中は外で干し、夜間は室内で乾燥させると、飴色をした半透明のカラスミができあがる。
カラスミは酒の肴には絶好だ。
このように手間ひまをかけてつくるカラスミなので、高級品になると、1本が1万円を越える。カラスミ店をのぞいていると、贈答品として買っていく人が多いようだ。
カラスミはもともとは正月用のものだった。それが今では、原料を冷凍しておけるので、ほぼ1年中つくられている。また、国内産の原料はかぎられており、台湾やオーストラリア、ブラジル産のものが大半を占めるようになっている。いかにも日本的な食品のようなカラスミでさえ、原料を海外に頼っているのである。