賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(15)沖縄本島一周食べ歩き

(『市政』1995年2月号 所収)

バイクで沖縄本島一周

 那覇を起点にし、バイクを走らせ、10月に沖縄本島を一周した。

 最初は国道330号で、那覇市―沖縄市間の20キロあまりを往復する。このルートがすごい。何がすごいかというと、那覇市を出ると浦添市、宜野湾市、沖縄市と市街地が、途切れることなく連続するからだ。

 ちょうど国道1号で東京から多摩川を渡って川崎、横浜を通り抜けるまで、もしくは国道2号で大阪から淀川を渡って尼崎、神戸を通り抜けるまでの、やはり市街地が連続する風景に似ている。

 那覇に戻ったところで、今度は沖縄本島を南北に縦貫する幹線の国道58号を北に行く。アメリカ軍の海外基地の中でも最大級の嘉手納基地のわきを通っていくが、ジェット戦闘機が爆音を轟かせて離着陸する。着陸するときは国道58号スレスレに降りてくるので、パイロットの顔まではっきりと見えた。

 読谷村に入ったところで、いったん国道58号を離れ、サトウキビ畑の中を走り、東シナ海に突き出た残波岬まで行く。石灰岩の断崖が垂直に海に落ち込んでいる岬の先端には、白亜の高い灯台が立っている。岬近くの残波ビーチの砂浜は、照りつける強い日差しに白く輝いている。若い女性たちの、色とりどりの水着姿がまぶしい。10月になっても沖縄は、まだ十分に夏なのである。

 残波岬をあとにし、民俗村の“琉球村”に行く。移築された琉球各地の民家では、伝統的な琉球の生活様式を見ることができる。玄関のない形式の、伝統的な琉球の民家だけに、玄関と、目隠しの機能を合わせ持った石の衝立の“ヒンプン”が目についた。ヒンプンはまた、魔除けにもなっている。

 ここでは怖いもの見たさで、沖縄に生息する毒ヘビのハブと、マングースの決闘ショーを見物した。透明のプラスチックのケースに仕切りを入れて、ハブとマングースを向かい合わせ、係員が棒でハブをつついて怒らせたところで、さっと仕切りを引き上げる。

 ところが勝負はあっけなかった。イタチそっくりなマングースは、すばやくハブの頭にかみつき、振りまわし、ねじりふせ、一方的なマングースの勝利に終わった。もっとも、ハブが勝つこともあるそうだ。

 名護から入った本部半島では、1975年7月から翌年1月までの半年間開かれた「沖縄海洋博覧会」を記念する「国営沖縄記念公園」に行き、海洋文化館、沖縄館、アクアポリスと見てまわる。

 海洋文化館では、南洋諸島の丸木舟に目がいった。沖縄館ではフカを捕るサバニ(伝統的な小舟)や、フカ釣り用の縄のサバナー、フカを舟ベリに寄せるサバカキヤー、釣ったフカをたたき殺すこん棒のティーブイなど、漁船や漁具を興味深く見た。

 サンゴ礁の海という自然条件があるからなのだろう、沖縄では網漁よりも突き漁のほうがはるかに盛んで、イグンやトウジャと呼ばれる銛などの突き漁の漁具の種類が豊富だ。

 名護に戻ると、国道58号をさらに北へ。辺土名を通り、ソテツ並木を走り抜け、沖縄本島最北端の辺戸岬に立つ。岬の先端には「祖国復帰闘争碑」。“記念”ではなく、“闘争”としてあるところに、“祖国復帰”を闘いとったという沖縄の人たちの心情がにじみ出ている。

 辺戸岬の先端に立つと、正面に与論島が見える。中央がわずかに盛り上がっただけの、ひらべったい島だ。与論島までは22キロでしかない。だが、祖国復帰以前の沖縄の人たちにとっては、その22キロが、かぎりなく遠かった。辺戸岬と与論島の間を通る北緯27度線が、“アメリカ領オキナワ”と日本を分ける国境線だったからだ。復帰以前の沖縄の人たちは、どのような思いで日本の与論島をながめたことだろう……。

 辺戸岬は、沖縄の海を太平洋と東シナ海に分けている。岬の断崖にぶち当たる波は砕け散り、波しぶきが断崖の上にまで飛んでくる。

 なお、那覇からずっと走ってきた国道58号だが、沖縄本島北端の集落、奥から奄美大島、種子島を経由し、鹿児島まで通じている。国道58号は日本最長の“海国道”だ。

 辺戸岬から沖縄本島東側の太平洋岸を南下していく。だが東シナ海側の中南部とはうってかわって、北部の太平洋側は集落も人も少なく車も少ない。

「ここはほんとうに、那覇と同じ沖縄本島なのだろうか」

 沖縄本島の南部には、与那原から国道331号で入っていった。一面のサトウキビ畑の中に、集落が点在しているようなところだ。

 神々の住む久高島を目の前にする知念崎の近くには、沖縄一番の霊場の斉場御嶽がある。歴代の琉球王たちが欠かさずに参拝したという、本土でいえば伊勢神宮のようなもの。

 ただ、斉場御嶽が伊勢神宮と違うのは、拝殿や神殿がないことだ。タブやシイ、クス、アカギなどの樹木がうっそうと茂り、昼なお暗い世界になっている。いかにも神々が宿っていそうな、そそり立つ石灰岩の巨岩の下には拝所があって、黒い線香と米粒、菊の葉、赤い饅頭が、白い紙にのせられて供えられていた。

“日本三大鍾乳洞”のひとつに数えられている玉泉洞を見、摩文仁の丘やひめゆりの塔などの南部戦跡をまわり、沖縄本島最南端の喜屋武岬に立った。

「辺戸岬から喜屋武岬まで」

 と、沖縄の人たちはよくいう。つまり、沖縄本島の全土という意味だ。

 喜屋武岬には、白い灯台と平和の塔が建っている。東シナ海に突き出た岬の先端から海を望むと、さらに南に突き出ている岬があるではないか……。それは荒崎だった。さっそく、行ってみる。ガタガタ道を走り、行き止まり地点にバイクを止め、岬の岩場に出る。

「もう、これ以上、沖縄本島に南はないのだ」という地点まで歩き、東シナ海の水平線に近づいた夕日を眺めた。

沖縄本島食べ歩き

 那覇から那覇まで、沖縄本島一周の全行程は640キロになった。全部で5日もかかった。距離のわりに日数がかかったのは、あっちにひっかかり、こっちにひっかかりしたからである。

 その間の食事は、ふつうの食堂に入り、毎食、違うものを食べるようにした。本土から沖縄に渡ると、食べ物が違ってくるので、まるで海外ツーリングにでも出たような、異国を食べ歩くような楽しさ、興味深さがある。

 最初に食べたのは、沖縄に行ったときはいつもそうするのだが、ゴーヤチャンプルだ。

 沖縄料理というと、油脂をたっぷり使った炒めものが多い。それらをチャンプルといっている。ゴーヤチャンプルというのは、にがうりの“ゴーヤ”をふんだんに使ったチャンプルのこと。ゴーヤと豚肉、豆腐などの入ったゴーヤチャンプルを食べていると、「今、沖縄にいるんだ!」という旅の実感を味わえる。

 ゴーヤの苦みというのは、最初のうちこそとまどいをおぼえたが、いったんこの味に慣れてしまうと、やみつきになるほど。ゴーヤチャンプルは私の一番好きな沖縄料理になっている。

 興味深いのは汁である。

 食堂のメニューには、いろいろな汁がある。たとえば、味噌汁。といっても、本土のような、小さな椀に入ったものではない。それだけで、おかずになるような汁なのである。豚肉や豆腐、青菜などの具がどっさり入って、大きな器に入って出てくる。飯と汁で十分なほど。まさに一飯一汁の食事で、日本のより古い食事の形態を見るような思いがする。

 さらに汁でいえば、中味汁には豚の腸を輪切りにしたものが入っている。ソーキ汁には、豚のあばら肉が入っている。テビチ汁には、豚の骨つきのモモ肉が入っている。このように豚は、あますところなく食べつくされる。沖縄では肉といえば豚肉を指すほどで、豚の角煮のラフティーや豚の耳皮のミミガー、顔皮のチラガーなど、豚肉料理が見事なほどに発達している。

 沖縄の豚は現在でこそ白豚だが、戦前までは黒豚(島豚)が一般的であった。その当時の養豚は、サツマイモ栽培と密接に結びついていた。ひと昔前までの沖縄の主食といえばサツマイモだったが、その皮が費用のかからない格好の飼料になっていた。

 汁には魚汁も多い。どんな魚なのだろうと興味があって、アバサー汁を食べた。アバサーは骨っぽく、若干、くせのある味だが、身には弾力があり、歯ごたえ十分。よく“アバサー汁”の看板を見かけるので、沖縄の人たちの好きな魚汁なのだろう。

 沖縄ソバも何度か食べた。ソバといっても、小麦粉からつくる幅広の、中華風の麺で、黄味を帯びている。しこしことした独特の歯ごたえがある。ソバ汁は豚肉や豚骨でダシをとったもので、こってりとした濃厚な味わい。上にソーキがのればソーキソバ、テビチがのればテビチソバになる。

 沖縄の味で忘れられないものに、豆腐を発酵させたトーフヨーがある。植物性の食品を、動物性食品であるチーズそっくりに変えてしまう知恵に驚かされてしまうが、これと同じものを中国で何度も食べたことがある。紅豆腐と呼ばれているもので、朝粥の絶好のおかずになっている。沖縄の食文化はこのように、中国と結びつきが強い。