賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「伝説の賀曽利隆オンライン」(31)

(2002年4月12日)

 今日、これから1年がかりの「島編・日本一周」の最後となる「沖縄編」の第2弾目に出発します。いったん東京・日本橋に立ったあと、スズキの90㏄バイク、バーディー90で中山道経由で名古屋まで走り、明日の午前11時名古屋港発の有村産業の「クルーズフェリー飛龍」にバイクともども乗り込み、沖縄に向かいます。

 ほんとうは今回は最初に宮古諸島の島々をめぐり、次に八重山諸島と思っていたのですが、宮古→石垣間のフェリーの便の悪さもあって宮古諸島を落とすことにしました。また次の機会に宮古諸島の島々をまわろうと考えています。

 ここまでの「島編・日本一周」をふりかえってみると、180の島々をめぐりましたが、今回の宮古のように、残念ながら行くのを諦めた島々も数多くあります。あらためて日本は島国だと思うし、日本の島の数の多さにも驚かされます。

 このように行った島、行けなかった島はありますが、行けなかった島でも、たとえば瀬戸内海の島々のようにその島を自分の目で見たり、または自分の頭の中に、しっかりとインンプットすることができました。これが今回の「島編・日本一周」の大きな収穫だと思っています。

 ところで今日、4月12日というのは、ぼくにとっては特別な日なのです。今から34年前の1968年4月12日、「アフリカ大陸縦断」を目指して横浜港からオランダ船の「ルイス号」で旅立った日なのです。そのときカソリ、20歳。その日に「島編・日本一周」の最後の行程に旅立つというのも何か、縁を感じます。

 名古屋港から乗る有村産業の「クルーズフェリー飛龍」は那覇港から宮古島石垣島へ、さらには台湾の基隆港、高雄港まで行きますが、ぼくはいつの日か、沖縄から台湾へ、さらに南のフィリピンの島々、ボルネオ島インドネシアの島々へと「海上の道」を南下してみたいと思っています。

(2002年4月28日)

 昨夜、「島編・日本一周」の全行程を走り終えて帰ってきました。足掛け14ヵ月、全部で12回に分けてまわったので、正味154日、2万5000キロを走っての「島編・日本一周」でした。その間では、188島の島々をめぐりました。これで、1999年の「本土編・日本一周」と合わせ、我が「50代編・日本一周」の終了ということになります。

 今回の「沖縄・八重山諸島編」は名古屋港から有村産業の「クルーズフェリー飛龍」で石垣島の石垣港に向かいました。名古屋からは「サハリン軍団」の高地洋子さんと竹澤裕介さんの2人、釣り師の村ちゃんこと村瀬和紀さん、20歳の旅立ちとなった青年こと田中俊哉さんの4人のライダーと一緒に石垣港に向かいました。

 我ら「石垣組」は最高のノリのよさを発揮して、第1夜目から沖縄のビール、「オリオン」と沖縄の泡盛「久米仙」、「残波」で宴会。それ以降、「石垣組」の宴会は1夜も欠かさずにおこなわれ、71時間の船旅で石垣港に着いたときは、正直、カソリ、なかばグロッキ-状態でした。

 そんな「石垣組」の面々と別れがたく、石垣島ではキャンプ場を転々とし、そのたびに「石垣組」と落ち合い、連夜の宴会を繰り広げるのでした。

 さらに石垣島から西表島に場所を移し、最後の宴会は「星砂の浜キャンプ場」に近い星砂の浜で夜明け近くまでつづきました。

 この西表島をもってぼくの「島編・日本一周」は終了。

 西表島・大原の仲間港からフェリー「かりゆし」で自分一人、石垣島に戻ったのですが、「石垣組」の面々は港まで駆けつけて見送ってくれました。そこで最後の乾杯! 

 フェリーが岸壁を離れ、ちぎれんばかりに手を振ってくれている「石垣組」の面々の姿が小さくなり、見えなくなったとき、ぼくはポロポロと流れ落ちる涙を止めることができませんでした。「石垣組」の面々との別れ、「八重山諸島」との別れ、そしてなによりも「あー、(島編・日本一周が)終わってしまった‥」という寂しさに耐えられなかったのでしょう。

 旅の終わりで涙を流すだなんて…、1987年~88年の「サハラ砂漠往復縦断」でチュニジアチュニス港から船でイタリアのシチリア島に渡ったあのとき以来のことです。「島編・日本一周」、終了! 

 さー、「生涯旅人・カソリ」、モードを切り換えなくては。