日本食べある記(8)有明海の魚介料理
(『市政』1991年8月号 所収)
九州の水郷・柳川へ、福岡から西鉄の特急電車に乗って行った。
“筑紫二郎”の異名をとる筑後川の鉄橋を渡ると、広々とした筑紫平野の水田が、どこまでもはてしなくつづいている。
九州北部地方は、梅雨明け間近の大雨に襲われ、柳川に近づくと、水田は一面に水をかぶっていた。その中から、収穫期に入った、この地方の特産イグサが顔をのぞかせていた。そんな風景は、私に雨期の東南アジアのモンスーン地帯を思い起こさせ、よけいに“水郷・柳川”を実感させるのであった。
柳川は、筑後川、矢部川のデルタ地帯にある城下町。町の中を縦横に堀が走っている。昔の柳河城をぐるりと囲む内堀、中堀、外堀と、柳川名物の川下り舟はこの堀を流れ下っていく。
柳川に来る前から楽しみにしていた川下りなので、私はさっそく水上の人となった。
12、3人乗りの、底の平らなどんこ舟に乗った。舟にはゴザが敷かれ、靴を脱いで、あぐらをかいて座る。大分県日田市から来たという団体のみなさんと一緒になった。
舟がゆるゆると船着場を離れた。船頭さんは棹一本で、たくみに舟をあやつる。堀の両側の柳並木が、水面に色濃く影を落としている。アジサイやほのかな香りのネムの花が、旅情をいっそうかきたててくれた。
堀に落ち込む家々の石垣は、長い歴史を偲ばせ、苔むしている。どの家にも水辺まで降りる石段があり、洗い物をしている光景も見られる。舟に乗って嫁入りする習慣も、今でもすたれずに残っているという。堀と柳川の人々の生活は切り離せない。
「堀の水は、毎日の生活に欠かせないものでした。昔は“くんば”と呼ぶ水汲み場で、水が一番きれいな朝早いうちに、一日に使う分の水を汲んだものです。それをハンドウ(水ガメ)に入れておいたのです。飲み水を汲んだあと、米や野菜を洗ったり、風呂の水汲みをしたり、洗濯をしたり…。それだから、みんなが堀の水を大事にしたものです。水をいつもきれいにしていました。水を汚す者がいないかどうか、巡査が見まわりをしていたくらいなのです」
船頭さんは、そんな思い出話を聞かせてくれた。
日田市からやってきた人たちが、
「お酒を買いたいんだけど…」
と頼むと、船頭さんは気軽に酒屋の傍で舟を止めてくれた。そのあとは、ゆるやかな流れに乗りながら、どんこ舟での酒宴になった。私も相伴にあずかった。
「日田も柳川と同じような水郷ですけどね、筑後川の流れは柳川とは比べものにならないくらいきれいなのよ。鵜飼いも見られるし、アユもおいしいし、兄さん、今度は日田にいらっしゃいな」
ホロ酔い加減の年配の女性にいい寄られたが、まさに旅は道連れといった風情の川下り。
「アーエー 月のでごろも 二十日の闇も エー 舟で通たがよん 水の泡よ…」
船頭さんが歌ってくれる“柳川舟唄”の渋い声が、ぐっと胸の中にしみ込んでくる。
水郷・柳川には、郷土料理が多い。
川舟に乗ったあとは、それら郷土料理を食べ歩いた。
西鉄柳川駅から町の中心に向かって歩いていくと、「うなぎめし」と大書きされた看板が、何度となく目の中に飛び込んでくる。
ウナギは柳川の名物。
昔から、天然のウナギの産地として知られていた。柳川は有明海の潟と、沖端川の川の境目にあたり、ここでとれるウナギには泥くささがなく、そのなかでも青ウナギの“星青”は天下の逸品として珍重されているほどである。
そのような背景を持った柳川のウナギ料理なのである。
柳川のウナギの老舗には「本吉屋」や「若松屋」などがあるが、とくに「本吉屋」のウナギは有名。わざわざやってくる遠来の客も多い。茅葺屋根の「本吉屋」に入ると、ウナギを焼く煙とにおいが店内に漂い、おおいに食欲を刺激される。
この「本吉屋」が、ウナギの蒸篭蒸しの元祖。創業が江戸時代の中期といわれている。それ以来、二百数十年間、ウナギ一筋の老舗である。
食べる前に、つくるところを見せてもらった。
柳川でのウナギのさばき方は背開き。中骨と頭をとったウナギをまず素焼きにし、たれを両面につけて3、4回、焼く。その際に、串は使わない。たれは醤油、味醂、砂糖を合わせ、その中に中骨を入れ、火にかけて煮つめたもの。
このたれのつくり方が、「本吉屋」の門外不出の秘伝なのだという。
ご飯はかために炊き、さきほどのたれを混ぜる。器にはめ込んだ四角い蒸籠(18センチ×14センチ。木の枠に簀子を敷いたもの)にそのたれを混ぜたご飯を盛り、上にウナギを乗せ、錦糸卵を散らし、そして蒸籠を入れた器ごと蒸すのである。
ウナギ料理のなかでも、この蒸籠蒸しはことさら美味。こげめのつくほどよく焼かれたウナギはボリューム満点。ウナギにも、ご飯一粒一粒にも、たれが十分にしみこんでいる。その秘訣はもちろん蒸籠で蒸しているからである。
次に「六騎」という郷土料理店で、これも柳川名物のドジョウ鍋の柳川鍋を食べた。
柳川鍋のつくり方は、次のようなものだ。
まず、ドジョウを開いてくさみをとり除き、それを醤油、味醂、砂糖を合わせたたれの中にいれ、さっと煮たてる。
そのあとで、浅底の土鍋にあく抜きをしたささがきゴボウを敷き、その上にドジョウをきれいに並べ、煮汁を加える。それをひと煮したあとで卵をといて流し、ミツバを散らし、半熟卵の状態で火を止め余熱で仕上げたものである。好みによって、粉サンショウをふりかける。
柳川鍋の起源については、いくつかの説があって定かではない。
しかし柳川周辺は“水郷・柳川”といわれるほどなので、ウナギばかりではなく、ドジョウもたくさんとれる。そのような土地柄なので、柳川鍋の名前通りに、柳川で起こった郷土料理であることも十分に考えられる。
柳川起源説のひとつには、次のようなものがある。
文政年間(1818年~1830年)に、柳川藩江戸屋敷は、柳川の窯元で焼いた土鍋でドジョウ料理をつくり、それを幕府に献上した。柳川藩としては下魚とされるドジョウでさえ、柳川ではこうして食べているのだといって柳川藩の窮状を訴えようとしたのだ。ところが、そのドジョウ料理がことのほか好評で、それがのちの柳川鍋になったというのである。
それはさておき、ドジョウは早い時代から庶民の食べ物として重要視され、丸煮の味噌汁や鍋物として食べられてきた。
ドジョウを食べると精がつくというので、とくに、夏の食べ物として好まれてきた。
そのような丸煮で食べられてきたドジョウが、蒲焼きや柳川鍋のように卵とじにされるようになったのは江戸時代からのことのようである。
柳川を食べ歩いて、なんとも柳川らしいと感じたのは、有明海の魚介料理を食べた時である。
柳川は詩人・北原白秋の郷里としても知られているが、白秋の生家の並びにある「浜の家」という郷土料理店で、有明海の魚介類を賞味した。それはフルコースをいってもいいくらいのもので、時間をかけて一皿ずつの料理が出てきた。
まずはイガニとシャコをゆでたものが出た。次にスズキとウミタケの刺身。ウミタケは二枚貝の一種で、シコシコとした歯ざわりがなんともいえない。酢味噌につけて食べる。 3番目にメカジャという、ちょっと見た目には気持ち悪そうな貝と、煮つけたクチゾコが出た。クチゾコは白身の魚で、シタビラメのこと。ほどよい脂がのっていた。
4番目には、ゆでた二枚貝のアゲマキ。酢味噌につけて食べる。
最後が甘辛く煮つけたムツゴローとメカジャの味噌汁。ムツゴローの皮はかたいので、手間をかけて何度も煮るという。
有明海の海の幸に満腹になったところで、沖端川河口の有明海の堤防の上に立った。
すると目の前には“泥土の地平線”としかいいようのない光景が広がっていた。
まさしく、“海の地平線”なのである。
遠浅で干潮と満潮の差の激しい有明海は、干潮の時間帯になると、海水は見えなくなるほどに遠くへと引いてしまう。正面には雲仙岳を望み、右で太良岳を望むその間が“泥土の地平線”となり、干潟がはてしなく広がっていた。
左手の干潟の中には、沖端川が流れて出ていく。海に入ったというのに、沖端川はいつまでも川のままなのである。
干潟を掘って、アゲマキをとっている。だが、有明海ならではのムツゴロー漁が見られないのが気になって、港で漁師さんをつかまえて話を聞いた。
すると……。
「もう、ムツゴローは、有明海にはほとんどいないんだよ。とりすぎたのかもしれないし、ムツゴローのすめない海になってしまったのかもしれない」
なんということ。
きわめて柳川的、いや日本的だとばかり思っていた有明海のムツゴロー料理も、今では韓国産のムツゴローを輸入して使っているというのだ。