賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの峠越え(24) 中国編(7):山口の峠(パート1) (Ridges in Chuugoku Region)

 (『月刊オートバイ』1996年3月号 所収)

 

「冬がなんだー!」

 と、カソリ、気合を入れて、本州西端の山口県に向かった。

 冬の峠越えだ。

 県都、山口を出発点にし西へ、西へと峠を越えていき、山口の峠を総ナメにしてやった。

 

 今回はその第1回目。山口盆地の峠だ。

 日本の県庁所在地の中でも、一番小さいといわれる山口は、盆地の町。周囲をゆるやかな山並みに囲まれている。

 その、山口盆地をとり囲む峠をひとつ、またひとつと越えていったのだ。

 

湯田温泉で生き返る

 山口の峠越えに向かったのは1995年の12月上旬。寒さが厳しい…。

 夜明け前に、神奈川県伊勢原市の自宅を出発。峠越えの相棒は、スズキDJEBEL200だ。

 DJEBELのシートにうっすらと下りた霜を振り払い、セルスターターを押してエンジンをかける。ギアを入れ、クラッチをつなぎ、走り出す。その瞬間の寒さといったらない…。思わず、泣きが入る。

「さー、やるゾー!」

 と、気負いたっていた気分はシュンとなえ、

「ほんとうに、山口まで、走っていけるのかなあ…」

 と、弱気になってしまう。

 そんな自分自身にムチを打ち、

「おい、がんばれよ」

 と、叱咤激励するのだ。

 

 秦野中井ICで東名高速に入り、山口を目指し、西へ西へと走る。

 夜明けの富士山がすばらしい。DJEBELに乗りながら、しばらく寒さも忘れて、雪化粧した富士山を眺めた。

 東名から名神、中国道と高速道をただひたすらに走りつづる。天気はいいのだが、昼になっても気温は上がらず、寒い思いをする。

 

 日暮れに山口ICに到着。伊勢原から930キロの山口の市街地に入り、湯田温泉の民営国民宿舎の「小てる」に泊まる。

 山口の中心街に隣りあった湯田温泉は、その昔、白狐が湯につかって傷をなおしたことから発見されたという伝説の伝わる温泉で、800年もの歴史を持っている。源泉の温度は66度と高く、山陽路では随一といわれる温泉。山口は鹿児島や鳥取、甲府などと同じように、温泉のある県庁所在地になっている。

 

「小てる」の、公衆温泉浴場にもなっている温泉の湯につかったときは、

「ふー、助かった!」

 と、思わず安堵の声が出てしまう。温泉のよさ、ありがたさが、とってもよくわかる‥‥。

 生き返るような気分というのは、こういうときのことをいうのだ!

 湯田温泉の湯は、無色透明無味無臭。湯の感触がやわらかで、体にふわっとまとわりつくような感じだ。

 湯から上がると、食堂で夕食。湯上がりのビールがうまい。最高の幸福感を感じる瞬間で、

「やっぱり、旅立って、よかったなあ」

 と、心底、そう思うのだった。

 

山口探訪

 翌朝は、目をさますのと同時に、朝風呂に入る。

「うわー、気持ちいい!」

 ぼくはこの寝起きの朝風呂が大好きなのだ。寝ている間に、体内に溜まった毒素を全部、はきだすかのような気持ちのよさなのだ。日本人には、やっぱり温泉だ。

 

 朝食を食べ、8時に「小てる」を出発。まずは、山口の市内を見てまわる。

 山口は人口10万人ほど。日本の県庁所在地の中では最小の町だが、戦国時代には、大内氏の城下町としておおいに栄えた。

「東の小田原、西の山口」

 といわれたほどの繁栄を謳歌したのだ。その当時、京都はうちつづく戦乱で焼け野原になり、東京や大阪は、まだ、町にもなっていなかった。

 

 最初に行ったのは、山口駅だ。幹線の山陽本線から外れた山口線なので、県庁所在地の駅とはいっても、どことなくのんびりとしたローカル線の雰囲気が漂っている。

 次に、ザビエル記念聖堂に行った。天文19年(1550)、宣教師のフランシスコ・ザビエルがこの地にやってきて、キリスト教を布教した。

 そんな、歴史の教科書にもかならず出てくるザビエルゆかりの記念聖堂だが、なんと、無残な姿をさらしていた。5年前の1991年9月5日に焼失し、焼け落ちたままの姿をさらしていたのだ。ザビエル記念聖堂といえば、山口のシンボルだったのに‥‥。

 

 最後に、瑠璃光寺に行った。室町時代に建立された名刹で、国宝の五重塔がある。見事な塔で、じっと眺めていると、不思議なほどに気持ちが落ちつく。仏塔には、そんな魅力が隠されている。

 しっとりとした落ち着きのある山口は、印象深い町だった。

 

荷卸峠で考える

 さー、峠越えの開始だ。山口を出発し、R376の荷卸峠に向かう。R9を右折するとすぐにゆるやかな上り坂を登っていくが、それは仁保峠。JR山口線の線路を陸橋でまたぐが、そのあたりが峠。陸橋の下には仁保駅がある。仁保峠を越えた仁保川の流域が仁保郷になる。

 仁保から山中に入り、峠道を登っていく。山口市と徳地町の境の荷卸峠に到着する。国道のすぐわきを中国道が走り、そこには、荷卸峠PAがある。

 

 この荷卸峠の名前の由来は知らないが、“荷卸”というのは、いかにも峠らしい。

 昔は、峠には市がよく立った。峠のこちら側の産物と、向こう側の産物を、峠に立つ市で売り買いしたのだ。

 峠に市がたつのは、なにも日本に限ったことではない。南米一周したときは、アンデスの3000メートル級、4000メートル級の峠をいくつも越えたが、何度となく、峠に立つインディオの市を見た。

 荷卸峠にも、同じように昔は市が立ったのではないか‥‥と、“荷卸”という峠名から、そう想像するのだった。

 

シシ垣の峠

 荷卸峠を下った徳地町の中心、堀からは、R489を北上し、“船路”の交差点を左折。県道20号に入っていく。荷卸峠の北側の峠を越えるのだ。

 峠下が“夏焼”の集落。この地名は、焼き畑にちなんだもの。焼き畑は現在の日本からは消えてしまったが、つい4、50年前までは、日本各地の山村でおこなわれていた。

 

 焼き畑というのは、山野を切り払って焼き、その跡を畑にしたものである。

 日本には、焼き畑にちなんだ地名が数多くある。荒所、荒巻、狩野、加納、刈谷、神野、桐山、木場、小出、佐須、双里、草連、薙畑、焼野‥‥と。

 焼き畑がらみの地名は、まだまだたくさんある。これだけ焼き畑にちなんだ地名があるということは、日本人の生活と焼き畑が、切り離せないほど、盛んにおかなわれていたことの証明なのだ。

 

 荷卸峠の北側の峠は、松柄峠。峠の周辺は、けつこう平坦で、民家があり、田畑もある。

「おや!?」

 と、目をひくのは、田畑をぐるりと取り囲むトタンの囲いだ。それは、イノシシを防ぐ“シシ垣”。シシ垣は中国山地の山村でよく見られるが、これがないと田畑は一夜にしてイノシシに荒らされてしまう。人間とイノシシのはてしない戦いをシシ垣に見ることができる。

 松柄峠には、苔むした道路改修記念碑が建ち、小さな石の祠には、木像の仏像がまつられていた。

 徳地町と山口市の境の松柄峠を越え、山口盆地に下っていく。下りは急勾配。道幅の狭い峠道。峠を下りきると、R376の仁保に出た。

 

山口の峠は“たお”

 R376の“井開田”の交差点を右折し、県道123号で仁保川沿いに上流へと走り、峠を越える。野谷峠だ。樹林の中の、うす暗い峠で、切り通しになっている。中国自然歩道の経路にもなっている。

 野谷峠を越え、下っていくと、さきほどのR489に出る。そのあたりが、野谷の集落。峠名は、この野谷の集落からきているのだろう。つまり、山口側からみると、野谷に通じる峠という意味だ。

 

 ところで、同じ中国地方でも岡山県あたりだと、峠のことを“たわ”といっているが、広島県や山口県になると、“たお”といっている。野谷峠も、“のだにたお”という。

 さらにもうひとつ、野谷峠の南側の峠を越える。そこは、広々とした開けた風景。峠を越え、下ったところの店で、パンと牛乳の昼飯。店のオバサンに、今、越えてきた峠の名前を聞くと、“たおの”といっているとのこと。きっと、野原のように広い峠なので“峠(たお)野(の)”なのだろう。

 これら2つの峠も、ともに山口市と徳地町の境の峠になる。

 

“陰陽”を分ける峠

 野谷峠と、もうひとつの峠を越えて仁保に戻ると、そこから峠越えのルートで阿東町に向かう。交通量のほとんどない峠道。道幅も狭い。

 峠が山口市と阿東町の境になっているが、この峠には、名前がないようだ。

 山口市と阿東町の境の、この名無し峠は、“陰陽”を分ける中央分水嶺の峠。

“陰陽”とは、日本海側の山陰と、瀬戸内海側の山陽のこと。峠をはさんで北側の阿東町を流れる川は、日本海に流れ出る。阿東町は山陰側になる。南側の山口市を流れる川は、瀬戸内海に流れ出る。山口市は山陽側になるのだ。

 

 峠を下ると、JR山口線の篠目駅近くで、R9に出る。R9で山口へ。

 阿東町と山口市の境の木戸を越える。木戸山(542m)のすぐ北側の峠で、さきほどの名無し峠と同じように、陰陽を分ける中央分水嶺の峠である。

 木戸峠を全長823メートルの木戸山トンネルで抜け、山口盆地へと下っていく。曲がりくねった、急勾配の峠道。R9の難所だ。短いトンネルが連続する。峠道を下りきったところが仁保峠、荷卸峠を越えるR376との分岐点だ。

 

 そこから、R9を木戸峠まで引き返す。もう一度、木戸山トンネルを抜けたところで右折し、ダートに入っていく。車1台がやっと通れるくらいの道幅。

 DJEBEL200は、ダートに入ると、活き活きとした走りをみせる。さすがにオフ車だけのことはある。林道の左側の谷は、ゾッとするほど深い。ガードレールんもないので、転落しないように走る。そんなスリルを味わいながら、5キロのダートを楽しみ、R376の仁保峠に出た。

 

日本の歴史を変えた峠

 ふたたびR9で、木戸峠に向かう。今度は、峠の木戸山トンネルの手前を左に折れ、R262に入っていく。じきに、峠。だが、この峠には、名前がついていないようだ。

「国道262号最高地点・423m」の表示がある。

 このR262の名無し峠も、陰陽を分ける中央分水嶺の峠。峠をわずかに下ったところが、山口市と旭村の境になっている。旭村に入ったところには、カートのコースがあった。

 

 R262の名無し峠を下ったところで、国道を左折し、県道62号に入り、坂堂峠に向かう。峠下の長瀬という集落を過ぎると、まもなく、旭村と山口市の境の坂堂峠だ。峠の周辺は、山口県の森林公園、21世紀の森になっている。

 標高511メートルの坂堂峠は、萩往還の越える峠で、歴史が古い。萩往還というのは、長州藩の城があった萩から山口を通り、山陽道の三田尻(防府)に通じる街道だ。

 坂堂峠には、峠の歴史の古さを感じさせるかのように、高さ2メートルくらいの花崗岩でできた国境の碑が建っている。それには、

 

  南 周防国吉敷郡

  北 長門国阿武郡

 

 と、彫り刻まれている。

 現在の山口県は、昔の周防、長門の2国から成っているが、坂堂峠はその国境なのだ。 幕末から明治維新にかけて、この坂堂峠は、歴史の表舞台だった。

 

 中国地方の10国を支配していた毛利氏は、関ヶ原の戦いで徳川軍に敗れ、それまで中国地方の10国を支配していたものが、防長(周防・長門)の2国に領地を減らされ、日本海側の萩に城を構えた。

 そのため、毛利の徳川への怨念は消えず、毎年元旦には、家老が藩主の前に出て、「幕府追討の儀、いかがいたしましょう」と、うかがいをたてた。藩主は、

「いまだ時期尚早である」

 と、答えた。それを二百数十年もつづけた。そんな毛利の徳川への怨念が、幕府を倒したともいえる。

 

 長州の維新の志士たちは萩からこの坂堂峠を越えて山口へ、さらには江戸へと倒幕を目指して旅立った。長州藩の城も、幕末になると、萩からやはり坂堂峠を越えて、山口に移された。

 江戸から明治へと、激動の日本史の表舞台となった坂堂峠を越え、山口へと、下っていくのだった。