「オーストラリア2周」前編:第5回 パース→ポートヘッドランド
(『月刊オートバイ』1997年5月号 所収)
ウエスタン・オーストラリアの州都パースは、いかにもオーストラリアらしいのびやかな、明るい都市だ。そんなパースから北へと向かって行く。
シドニーからパースまでの大陸横断は寒さとの戦いの連続のようなもので、
「寒いよ、寒いよ」
と、毎日、泣きが入った。
オーストラリアの冬の寒さを甘くみていたからだ。
パースから北に向かうにつれて、やっとその寒さから解放される。心ウキウキといった気分になってくる。
「オブリガトウ!?」
パースでは、バックパッカーズの「RBP」に泊まった。1泊13ドルだ。ここは、アデレードの「ラックサッカーズ」と同じように、日本人ライダーの溜まり場になっているのだが、残念ながらその日は日本人ライダーは1人もいなかった。
シャワーを浴び、ジーンズに着替え、スニーカーにはき替えてパースの町を歩く。夕暮れの風が気持ちいい。
パースの銀座通りといっていい、モールのハイストリートを歩いていると、なんと、回転ずしの店があるではないか。まるで磁石で吸い寄せられたかのように、その店に入った。マグロやタコ、イクラもどきなど6皿を食べる。それとサラダボールとワカメの味噌汁で17ドル。日本円で1500円ほど。ひさしぶりの日本の味は、腹わたにしみ込むようだった。
パース中央駅に行き、電車でフリーマントルまで行く。フリーマントルは港町。電車の中ではインド人に声をかけられた。40前後のサラリーマン風の人。その人はインド系モーリシャス人で、オーストラリアに移り住んでから、すでに10数年になるという。モーリシャスはインド洋の島で独立国になっている。
彼は言葉の天才のような人で英語のほかにドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語を話せた。今、日本語を勉強中だとのことで、図書館で借りたという日本語会話のビデオを何本も持っていた。
“言葉の天才的インド人”は、うまいことをいった。
「オーストラリア人はレイジーピープル(あまり働かない)、日本人はビジーピープル(働きすぎる)だ」
電車の中で即席の日本語講座を開き、“言葉の天才的インド人”に日本語の会話を教えた。彼は別れぎわに、ポルトガル語と日本語をミックスさせ、
「オブリガトウ!」
といって、電車を降りていったのだ。
ポルトガル語で「ありがとう」は「オブリガード」。それと日本語の「アリガトウ」を組み合わせての「オブリガトウ」なのだが、なんともユーモアのある人ではないか。
フリーマントルはパースよりも、はるかに歴史を感じさせる町。夜の町を歩いているだけで楽しくなってくる。
アイリッシュ・パブに入る。ビールを飲みながら、アイルランド人の歌うアイルランド民謡を聞く。そのあと、カフェでうまいコーヒーを飲み、ふたたび電車に乗り、パースのバックパッカーズに戻るのだった。
「RBP」には、日本人ライダーはいなかったが、チャリダー3人とバスダーの女の子2人が泊まっていた。
彼ら、彼女らと、深夜の大宴会がはじまる。おおいに飲み、おおいに語り合った。カンビール1ダースとワインを6本カラにし、夜明け近くに大宴会はお開きになった。
飴色のアリの大群
翌日、パース郊外のオズボーンパークにある「スズキ・ノース」でタイヤ、チェーン、スプロケットの交換をしてもらう。そして、きれいに洗車してもらう。ピッカピカになったスズキDJEBEL250XCに乗って、午前11時、出発だー!
R1のブランド・ハイウエーを北へ。R94のグレート・イースタン・ハイウエー、R95のグレート・ノーザン・ハイウエーと、2本の幹線と分岐し、R1で、インド洋にほど近い海岸地帯を北へと走る。
いかにもオーストラリアらしい広大な風景を写真にとろうとして、DJEBELをR1の路肩に止めたときのことだ。
あっというまに飴色をしたアリの大群にたかられ、体の中まで入ってきて食いつかれた。
「イテテテ‥‥」
と、思わず絶叫だ。この獰猛極悪なアリに食いつかれたとたんに、1973年の「オーストラリア2周」のシーンが、鮮やかによみがえってくる。
真夜中まで走り、さー、野宿だとバイクを止め、シュラフにもぐり込んでまもなくのこと。やけに体がチクチクするので目をさまし、シュラフの中を見てみると、なんとアリだらけではないか。ゾッとする光景‥‥。
だがそれだけではなかった。体のあちこちに食らいついたアリがブランブラン、ぶらさがっていた。そのアリを1匹づつたたき落とし、シュラフをパタパタやってアリを追い出した。
もう、それ以上、そこで寝る気もしない‥‥。素早くシュラフを丸め、逃げるようにして、真夜中の道を走り出したのだ。それは、1973年の「オーストラリア2周」の中でも、一番辛かった思い出のひとつだ。
18時、パースから400キロのジェラルドトン着。
ここを過ぎると、R1は、ノースウエスト・コスタル・ハイウエーと名前を変える。
ナイトラン。ノーザンプトンの町を過ぎる。ほとんど交通量のなくなった夜間のR1を走りつづけ、23時、パースから700キロのビラボング着。ここにはロードハウスがあるが、その近くでシュラフのみの野宿。幸いアリにはやられなかったが夜中に雨‥‥。ロードハウスの屋根つき駐車場に下に逃げ、そこで夜明けまで眠るのだった。
大陸最西端のスティープポイント
翌朝、ロードハウスで、2ドル払ってシャワーを浴び、ロードハウスのレストランで朝食にする。モーニングコーヒーを飲みながら、ベーコン&エッグを食べる。カソリ好物の朝食メニュウ。ゴソッという感じでベーコンが出た。ボリュームたっぷりで、食べきれないほどだ。
ビラボングからR1を50キロ行くと、次のロードハウス、オーバーランド・ロードハウスに着く。そこで給油し、いったんR1を離れ、オーストラリアの大陸最西端の地、スティープポイント(ポイントは岬に意味)に向かっていく。
イルカの餌づけで有名なモンキーマイヤに通じる舗装路を走る。前方に黒雲。やがてその中に入り、ザバーッと、盛大に雨が降る。40キロほどで左折。ユースレスループに通じるダートに入っていったが、雨に濡れたダートはツルツル滑る。リアが流れ、転倒しかかったときは、冷や汗ものだ。雨が上がり、青空が広がってきたときは、
「助かったゼ!」
と、ホッとした気分。路面はみるみるうちに乾き、走りやすくなった。
第1セクションのユースレスループに通じるダートを85キロ走り、左折する。すると、路面の荒れたダートになる。大きな水溜まりが点々とできている。この第2セクションのダートを20キロ走り、今度は右折。第3セクションの15キロのダートはきつかった。強烈なコルゲーション。ダダダダダダダダダダーと、激しい振動。DJEBELがバラバラになってしまうのではないか‥‥と、心配になってしまったほどだ。
最後の第4セクションは40キロのダート。ここが最大の難関だ。砂が深く、道幅が狭く、おまけに急坂の登り。アクセルをガンガン吹かすのでエンジンは焼け気味。何度かDJEBELを止め、エンジンをさました。
それだけに、大陸最西端のスティープポイントに着いたときは、思いっきり「万歳!」を叫んでやった。
オーストラリア大陸最西端の地といっても、スティープポイントには、人一人いない。タスマニア島のオーストラリア最南に地のところでも書いたことだが、オーストラリア人というのは、最端の地には、あまり興味がないようだ。
スティープポイントには、
「ウエスタンモースト・ポイント・オブ・オーストラリア(オーストラリア最西端)」
と、そう書かれた木標が立っている。目の前のインド洋の青さがひときわ色鮮やかだった。
幻聴、幻覚のナイトラン
日暮れにオーバーランド・ロードハウスに戻ってきた。ここで給油し、夕食にする。ホームメイドのパンつきスープとチキン&ハム入りのサラダだ。コカコーラを飲みながら食べる。
「さー、行くゾ!」
と気合を入れ、19時、出発。ナイトランの開始だ。
R1でポートヘッドランドを目指す。南回帰線近くまで北上しているので、昼間の気温はかなり上がっているが、夜間はグーッと冷え込む。寒さに震えながらのナイトランになる。
夜間の交通量はきわめて少ない。ときたま、ロードトレインにすれ違う。ナラボー平原横断のR1では、2連だったが、このあたりになると3連の大型トレーラーを引っ張るロードトレインになる。全長50メートル。すれ違うときの風圧がすさまじい。ふっ飛ばされそうになる。
オーストラリア人ドライバーのマナーは全般的に良好だが、ロードトレインのドライバーも同様だ。すれ違うかなり手前でライトをハイビームからロービームに切り換える。ハイビームのままで走ってくるロードトレインは、まずない。
ナイトランではDJEBELの大口径、大光量のビッグライトが、その威力をおおいに発揮してくれた。ライトの照射範囲がきわめて広いので、カンガルーも、飛び込んでくる寸前の路肩で、その姿をとらえられる。
20時30分、ウーラメルのロードハウスに到着。オーバーランドのロードハウスから170キロ。その間には何もない。
22時、カーナボンに到着。パース・ポートヘッドランド間では、ジェラルドトンと並ぶ大きな町だ。
カーナボンからさらにナイトランをつづける。眠い‥‥。睡魔との戦いになる。闇夜がゴーッとうなっているかのような幻聴が聞こえてくる。
DJEBELのライトで照らし出す道の両側の木々が、カンガルーに見えたり、オーストラリアにはいるはずのないキリンに見えたり、とてつもない巨人に見えたりする。前方の暗い地平線が、大山脈や大密林に見えたりもする。それを振り払うかのように、
「ウォー!」
と、わけもなく大声を張り上げた。
24時、ミニリアのロードハウス到着。ビラボングから760キロだ。地面にシートを広げ、その上に、シュラフを敷いて寝る。寒さに震えてのナイトランだったのにもかかわらず、
「プーン、プーン」
と、うるさい蚊の襲撃だ。布製の袋を頭からすっぽりかぶり眠る。昼はハエ、夜は蚊、これがオーストラリアのアウトバックなのだ。
我が黄金の40代!
ミニリアでいったんR1を離れ、エクセマスの町へ。そこからオーストラリア大陸最北西端のノースウエスト・ケープまで行き、“ミルドゥラ号”という難破船を目の前にする岬の先端に立った。帰路では、観光地になっているコーラルベイに立ち寄り、ミニリアのロードハウスに戻った。そして、R1をポートヘッドランドへ。
南緯23度26分30秒の南回帰線(トロピック・カプリコン)を越える。オーストラリアも、温帯圏から亜熱帯、熱帯圏に入ったのだ。こころなしか、太陽光線がグッと強くなったような気がする。
一望千里の大平原を行く。土の色が強烈だ。まっ赤な大地。目の中まで、赤く染まりそう。赤い大地の荒野には無数のアリ塚が墓標のように立っている。
平原から台地へと風景が変わる。テーブル状の岩山。夕暮れが迫る。きれいな夕焼け。透き通るような水色の夕空。やがて地平線を赤々と染めて日が落ちる。みるみるうちに変わっていく満天の星空‥‥。
ナヌトゥラのロードハウスで給油&夕食。そして星空を見上げながらのナイトラン。少し早めに、9時前に走行を切上げ、パーキング・エリアの屋根つき休憩所を1晩の宿にした。ベンチにシュラフを敷く。欲をいえば、もうすこしベンチの幅が広いと、もっと寝やすいのだが、などと勝手なことをいう。
降るような星空。シュラフにもぐり込み、天の川を見上げていると、なぜか、無性に自分の40代が思い返されてならなかった‥‥。
1987年から88年にかけては、スズキSX200Rでの、「サハラ砂漠往復縦断」。カソリ、40歳のときのことだった。これから迎えようという厄年を力でねじ伏せてやろうとした。
1989年には、50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50での「日本一周」。カソリ、41歳から42歳にかけてのことだ。
1990年には「日本一周」で使ったTS50での、「世界一周」。カソリ、42歳から43歳にかけてのことだ。
1991年には、スズキDR250SHでの「東京→稚内→サハリン」。
東京をオートバイで走り出し、海外ツーリングをするという長年の夢を果たしたのだ。カソリ、43歳。
1992年から93年にかけては、スズキRMX250Sでの「インドシナ一周」。タイ→ラオス→ベトナム→カンボジア→タイと、陸路でのインドシナ一周は世界初。カソリ、44歳から45歳にかけてのことだ。
1993年にはスズキDR350での「オーストラリア・エアーズロック」。カソリ45歳。
1994年には、ホンダCR250での「中国タクラマカン砂漠一周」。タクラマカン砂漠は小学校時代からの夢で、46歳になって、ついにその夢を果たしたのだ。
1995年には、スズキDR350での「オーストラリア・大分水嶺山脈」。カソリ47歳。
そして、48歳になって、今回の「オーストラリア一周」なのである。自分の歩んできた道を振り返ってみると、まさに“我が黄金の40代!”。
こういうことを考えられるのも、旅の日々のおかげ。旅している毎日は、自由自在に、いろいろなことに思いを馳せることができる。それがオートバイツーリングのよさなのだ。
パーキングエリアの屋根つき休憩所での気持ちよい目覚め。蚊にはやられなかったし、屋根のおかげでそれほど寒くなかったし、雨の心配もなかったし、ロードトレインもそれほど走っていなかったし、よく眠れた。
その日の昼過ぎ、日本人チャリダー阿久澤忠邦さんに会う。弁慶号で半年がかりでオーストラリアをまわっている。阿久澤さんの1日の走行距離は5、60キロから150キロぐらい。ブッシュキャンプの連続だとのことで、虫にやられた跡がすさまじい。そんな阿久根澤さんと別れ、夕方、インド洋の港町ポートヘッドランドに到着した。
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■コラム■ワンポイント・アドバイス
本文でたびたび出てきたロードハウスというのは、街道沿いにあるレストランやミニショップつきのガソリン・スタンドのことだが、さらには、モーテルやキャラバンパークパブつきのロードハウスもある。
オートバイやクルマでオーストラリアを旅するときは、ロードハウスで、すべての用が足りてしまうほどで、砂漠を旅してたどり着くオアシスのようなものだ。夜、遅くまで開いているし、24時間営業のロードハウスもある。
猛烈に暑い炎天下を走り、ロードハウスの“コールド・ビアー(冷えたビール)の看板を見たときは、クーッと飲みほす冷たいビールを想像しながら走るのだ。あと、何キロかの、ロードハウスに着くまでが、待ち遠しくて仕方がない。
腹をすかせて走りつづけ、やっとロードハウスにたどり着いたときは、うれしいものだ。よーし、すこし豪勢にTボーンステーキでも食べようと、たっぷりと時間をかけてロードハウスのレストランで食事する。それはなんともいえない満ち足りた幸せな時間だ。
ナイトランをしていて、まっ暗な地平線の向こうに、ポツンとロードハウスの明かりが見えてきたときは「助かった」と叫んでしまう。眠気も吹き飛び、元気が出る。よーし、もう、ひと頑張りだという気になる。
ロードハウスでは、食事ができるだけではない。給油&休憩で止まったときは、ミニショップでポテトチップスとコカコーラを買い、ポテトチップスをパリパリ食べながら、コカコーラを飲むのが楽しみなのだ。
ロードハウスのトイレには、たいてい有料のシャワー(なかには無料のところもある)がついている。汗まみれ、埃まみれになって走り、ロードハウスに着いたときは、まずシャワー。熱い湯を浴びると、生き返ったような気分になる。
オーストラリアにあって日本にないもののひとつに、このロードハウスがある。日本の街道沿いにも、オーストラリア風ロードハウスがあればいいのに。