賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本列島岬めぐり:第11回 立待岬(たちまちみさき・北海道)

 (共同通信配信 1990年)

 北海道の第一歩は函館だ。

 函館駅近くの朝市を見てまわり、早朝からやっている谷地頭温泉の湯に入り立待岬へ。 海岸に出る前から、住宅街の道路わきでは、コンブを干している。その光景はいかにも北海道らしい。幅広の、飛び切り長いコンブ。コンブを干している婦人は、

「このイタコブは縁起物として使われるんですよ」

 と話してくれた。

 海沿いの狭い小道を行く。右手には市街地を見下ろすように、函館山がそびえている。 一方通行の小道の両側は墓地になっている。

 道端の一角には、石川啄木一族の墓があった。啄木夫妻と両親、3人の子供たちが葬られている。墓には花が供えられ、ろうそくの灯が風に揺れていた。

「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

 立待岬で歌ったとされる啄木の代表作が墓碑の前面に刻まれている。

 また、後面には、

「おれは死ぬ時は函館に行って死ぬ…」

 と、函館在住の歌人、宮崎郁雨にあてた書簡の一部が刻まれている。

 啄木は明治40年5月から9月まで函館に住んだということだが、わずか27年という短い生涯の中でも、その期間が一番幸せな時期であったらしい。

 函館山が断崖となって海に落ちる立待岬に立つと、津軽海峡をはさんで正面には下北半島が、右手には津軽半島が見える。目を函館の市街地の方に移すと、弓なりに湾曲した海岸線が汐首岬へと延びている。

 岬の名前はアイヌ語の「ピウシ」(岩の上で魚を待ち、ヤスで捕る場所の意味)に由来するという。

 岬付近には寛政年間(1789年~1801年)に台場が築かれ、明治になると要塞地帯になり、第2次大戦の終了後まで一般人の立ち入りは禁止されていた。立待岬は北方警備の要衝の地であった。

 立待岬のキャッチフレーズは「ハマナスの咲く岬」。海峡を吹き渡る風はさらさらと音をたてるかのようにさわやかだった。