賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『忘れられた日本人』再び:第6回目

 (『ゴーグル』2007年3月号 所収)

「300日3000湯」計画

 ぼくは今、「温泉めぐりの日本一周」の真最中。2006年11月1日午前6時30分、東京・日本橋を出発した。バイクはスズキGSR400。「ツーリングマップル」でおなじみの昭文社の桑原和浩さんが、スズキバンディット1200Sで同行してくれる。

 みなさんの見送りを受け、「さー、行くぞ!」といった気分で走り出す。国道17号(中山道)から国道254号(川越街道)に入っていく。東京都から埼玉県に入ったところで、国道沿いの「ガスト」で朝食。「和風ハンバーガー」の朝食を食べながら、桑原さんとおおいに話がはずむ。

 日本を8分割にしての「温泉めぐりの日本一周」。300日間で3000湯の温泉をめぐろうという計画。その第1弾の「関東編」に旅立ったのだ。

 記念すべき第1湯目は、関越道の鶴ヶ島IC近くのふるさとの湯温泉の日帰り湯「ふるさとの湯」(入浴料600円)。はやる気持ちをおさえきれずに大浴場と露天風呂の湯に入った。露天風呂には壺湯もあるが、それにもどっぷりと体をひたした。ザーッと勢いよく湯が壺湯から流れ出る。黄緑色がかった湯の色で、ナトリウム・塩化物泉。さらっとした肌ざわりの湯。温泉から上がったときの気持ちよさといったらない。「温泉パワー」をもらったとでもいおうか、「これで3000湯をめぐれる!」といった自信を得た。

 ぼく自身にとっては5度目の「日本一周」となる今回の「300日3000湯」では、峠にこだわっている。カソリといえば「峠越え」。いままでに日本中の1600余の峠を越えているが、今回は「峠越え」ではなく「峠返し」なのだ。どういうことかというと、峠を越えて、峠の向こうの世界に行くのではなく、峠で折り返して峠へのルート沿いの温泉をめぐろうとしているのだ。そうすることが温泉をひとつもらさず入るのには、すごくいい方法だと、計画段階で気づいたからだった。

 で、奥武蔵の「絶景峠」、顔振峠に立った。峠からは奥武蔵の山々を一望。峠の茶屋「平九郎茶屋」では「しし鍋」(1000円)を食べた。地元の猟師さんが獲った地元産の猪肉もうまかったが、自家製のニンニク、ショウガ、トウガラシ入りの味噌もうまかった。「300日3000湯」では温泉のみならず、それぞれの土地に根づいた郷土料理を1食でも多く食べてみたいのだ。

 顔振峠で折り返し、来た道を引き返す。そして峠を下ったところで第2湯目、黒山温泉「東上閣」(入浴料1000円)の湯に入り、湯から上がると、すぐ近くの天狗滝、男滝、女滝の「黒山三滝」を見た。

 第3湯目は鎌北湖温泉「鎌北湖レイクビューホステル」(入浴料800円)の湯。このあと越生の日帰り湯「ゆうパークおごせ」に行ったが、残念ながら月1度の休館日。次の都幾川温泉「ゆずの湯」は入浴のみは不可。このように休館、休業だったり、長期間の休業だったり、すでに廃業していたり、入浴のみは不可だったり、時間が早すぎたり、遅すぎたり…で、温泉というのは行けば入れるというものではない。それが「温泉めぐり」をきわめて難しいものにしている。

 第4湯目は玉川温泉の日帰り湯「湯郷玉川」。ここの入浴料は700円だが、19時を過ぎていたので、夜間割引の500円。200円分、得した気分。湯から上がると食堂で「玉川御膳」(1500円)の夕食を食べた。このあと第5湯目、小川温泉の日帰り湯「花和楽の湯」(入浴料1050円)に入ったあと、国道254号に近い百穴温泉(吉見町)の「春奈」に泊まった。夕方、公衆電話の電話帳を見て電話した宿。

 到着は21時30分を過ぎていたが、女将さんはそれでも部屋に快く案内してくれた。

 まずは温泉だ。ひと晩、泊まる宿で入る湯(これを「宿湯」と呼んでいる)がこれまたいい。広々とした浴室はジャングル風呂の様相。浴室内にはバナナが青々と茂っていた。「東京のすぐ近くに、こんな温泉があるなんて!」と、桑原さんと2人して驚いた。

 湯から上がると、コンビニで買い込んだ缶ビールで乾杯!

「うまい!」

 500ml缶を次々と開け、こうして「300日3000湯」の第1日目の夜はふけていった。

「温泉を通して日本を見てみたい!」

 ぼくが「温泉めぐり」をはじめたのは1975年2月。今から30年以上も前のことになる。

 第1湯目は広島県の湯来温泉だった。「峠越え」をはじめたのもそのころで、「温泉めぐり」をはじめた翌月の3月には、奥武蔵の峠を越えた。第1番目の峠は国道299号の高麗峠だった。「温泉めぐり」をしながら、「峠越え」をしながら、日本という国を見てみたかったのだ。そのときカソリ、27歳だった。

 20歳のときに「アフリカ一周」に旅立ち、20代の大半を費やして世界を駆けめぐったが、「六大陸周遊」の旅から帰ったとき、ぼくは大きな壁にぶち当たった。それまで自分の命を張って世界を駆けめぐってきたことが無意味なことのように思え、なんとも虚しい気持ちに襲われた。「もっと、もっと世界を駆けめぐりたい!」という、あの焼けつくような気持ちも萎えていた。そんなぼくを救ってくれたのが日本であり、宮本常一先生だったのだ。

 宮本先生が所長をされていた日本観光文化研究所(通称観文研)に出入りするようになったのは「アフリカ一周」後の22歳のことだが、そのころのぼくは日本よりも世界だった。とくに「アフリカ」にしか目がいかなかった。「アフリカ一周」にひきつづいて、「サハラ砂漠縦断」を一番の目的にした「世界一周」、さらに「アフリカ大陸」を一番の目的にした「六大陸周遊」と世界をまわった。ぼくが大きな壁にぶつかったのは、「もう、世界中をまわってしまった…」といった気分があったのかもしれない。そのときぼくは無性に日本をまわりたくなった。

 観文研にはより足繁く通うようになり、宮本先生のお話を聞く機会も多くなった。研究所のあった秋葉原から新宿までの電車の中でも、何度となく先生のお話を聞かせてもらった。「観文研を足場にして日本をまわろう!」という気持ちが次第に強くなり、当時、観文研を取り仕切っていた宮本先生のご長男、宮本千晴さんに「宮本先生と一緒に日本を歩かせて下さい」といって頼み込んだ。すると千晴さんは即座に、「親父よりも神崎君と熊ちゃんがいい」といって、先生の一番弟子といっていい神崎宣武さん(現・旅の文化研究所所長)と熊ちゃんこと工藤員功さん(現・武蔵野美術大学民俗資料室長)と一緒に日本を歩けるようにしてくれたのだ。日本に目を向けたことによってぼくは生き返った。心の中に「旅をしたい!」という新たな気持ちがふつふつとわき上がってくるのだった。

 1975年2月21日、ぼくは工藤さんと一緒に広島に行った。広島駅からバスで湯来温泉へ。雪のぼそぼそ降る日だった。そこからは中国山地の山村、戸河内町(現安芸太田町)の那須という集落に向かった。大雪で1メートルを超える雪が積もっていた。那須への交通は途絶え、我々は雪をかき分けて歩いた。途中で出会った那須の人たちはユキワ(カンジキ)をはき、手には杖をもっていた。「よくもまあ、そんな恰好でここまで登ってこれたものだ」と地元のみなさんを驚かせたが、我々はかろうじて那須に着くことができた。ここではみなさんにあたたかく迎えられ、昼食を出してもらい、酒をふるまわれた。

「すごいなあ!」

 と感心してしまうのは工藤さん。つがれるままにかなりの量の酒を飲んでいるのだが、キチンと村人たちの話を聞いている。那須はかつては木地師の村。木は栃を使い、漆は中国製を使っていたこと。終戦後、しばらくして木地は止んだこと。栃の木地のみならず、ブナでは高下駄の歯をつくっていたこと。杉、檜では板箕(いたみ)をつくっていたこと…などなど、おもしろいように話を聞いていく。

 その間、工藤さんはほとんど口をはさむことなく、ただひたすらに聞いている。ぼくはそのとき、「おー、これが宮本流か」と、心底、感動した。ぼくはそのとき宮本先生から工藤さんへと、確実に伝わっていった宮本流の聞き取りの神髄を見た。日本をほとんどまわったことのないぼくにとっては、工藤さんと歩いた中国山地はまるで異国の世界だった。それだけに新鮮な目で見られ、深く自分の心の中にしみていった。まさに感動の旅だったのだが、このときぼくは「温泉めぐり」の第1湯目を湯来温泉にしようと決心した。

 ぼくが「温泉」に目をむけたのは、もちろん世界に冠たる「温泉大国」の日本だからという理由が大きい。だが、宮本先生の空白の世界を埋めてやろうという大それた気持ちも若干はあった。人生の大半をかけて日本をくまなく歩かれた宮本先生だが、温泉だけはスポッと抜けている。日本観光文化研究所は大手旅行社の「近畿日本ツーリスト」が研究所運営の資金の全額を出してくれていた。そんな近畿日本ツーリストと近畿日本ツーリストの協定旅館連盟の後援で、宮本先生は何冊かの本を出している。「伊勢参宮」「大名の旅」「庶民の旅」「旅の民俗」「海の道」「川の道」「山の道」「海と日本人」といった一連のシリーズものなのだが、その中に「温泉」本はない。

 宮本先生は著作集の第18巻目(未来社刊)、「旅と観光」の中で次のようにいっておられる。

「若いときから貧乏旅行をつづけて来た私はいわゆる観光を目的とした旅はほとんどしたことがない。旅の途中で人から招待されて温泉へとまわったり風光の美しいところをあるいたことはある。しかし自身ですすんでそういうところはあるかない。理由ははっきりしている。貧乏旅行して来た者には観光旅行ははれがましいし、また、貧しい人びとと生活をともにするような旅をしている者が、その人たちの群からはなれたとき、そっと一人で豪華な宿や奢侈の中にいることをゆるされない気持ちからであった。この気持ちはいまでもつづいている。」

 先生のそのようなお気持ちは痛いほどにわかるし、観文研内では温泉をテーマにしたプロジェクトはなかったし、「温泉めぐり」の話をすることもほとんどなかった。

 1975年にはじめた「温泉めぐり」だが、最初のころは意気込みだけはあったのだが、なかなか実績がともなわかった。温泉の入浴数が増えなかった。1975年は7湯どまり。 翌年の1976年はわずかに3湯。1977年は赤ん坊連れで「サハラ砂漠縦断」の旅に出たので0湯だ。

 1978年の「50㏄バイク日本一周」で何湯かの温泉に入ったが、それでもわずか8湯でしかない。

 1982年も「パリ・ダカール・ラリー」で大怪我をし、半年以上もバイクに乗れなかったので、ほとんど温泉には入れなかった。結局、1984年までの10年間で入った温泉は57湯でしかなかった。

 1987年2月12日は画期的な1日。観文研の山崎禅雄さんや西山昭宣さん、三輪主彦さんらと箱根の温泉のハシゴ湯をした。箱根湯本温泉から姥子温泉まで、1日で12湯の温泉をめぐった。このときも宮本先生に話はおよび、

「そういえば先生はあんまり温泉には入っていないよなあ」

 といった話になった。

 箱根ハシゴ湯の1ヵ月後、そのときに入り損ねた底倉温泉に入ったが、それが第100湯目。12年かかっての100湯達成。この100湯達成あたりをきっかけにして、カソリの温泉入浴数は一気に増えていった。1989年の「50㏄バイク日本一周」では、全部で78湯の温泉に入ったが、北海道の十勝川温泉で200湯目を達成。1991年以降は年間100湯前後の温泉に入っている。

 このころから共同浴場の入りまくりもしている。「共同浴場めぐり」というのはカソリの定番。ところでぼくの温泉入浴数の数え方は「温泉地」なので、たとえば下諏訪温泉(長野)や飯坂温泉(福島)などの何湯もの共同浴場をハシゴ湯しても、温泉の入浴数は増えない。ということで、実際に入っている温泉は入浴数の倍になっている。

 300湯目は1991年4月で菊池温泉(熊本)。

 400湯目は1992年11月で幕川温泉(福島)。

 500湯目は1993年10月で日景温泉(秋田)。

 600湯目は1994年6月で権現温泉(愛媛)。

 700湯目は1994年11月で木津ノ湯温泉(新潟)。

 800湯目は1ヵ月後の1994年12月で湯ノ平温泉(群馬)。

 900湯目は1995年5月で地元、伊勢原温泉(神奈川)だった。

 そして1995年6月24日、大間温泉(青森)で1000湯を達成した。このころが一番過激に温泉に入っていた。

 1100湯目は1996年3月で新居浜温泉(静岡)。

 1200湯目は1996年12月で般若寺温泉(鹿児島)。

 1300湯目は1997年10月で水沼駅温泉。

 1400湯目は1999年9月で三陸山田温泉(岩手)。

 1500湯目は2001年6月でサロマ湖温泉(北海道)。

 1600湯目は2002年9月で嶋田温泉(岩手)。

 1700湯目は2005年5月で海尻温泉(長野)ということで、2006年11月1日の「300日3000湯」の出発前までに1721湯の温泉に入っている。

 だが、ここ数年はなかなか数は増えない…。新しい温泉地に行けないからだ。

 2000年には169湯入ったが初めての温泉は33湯。

 2001年には199湯入ったが初めての温泉は96湯。

 2002年には148湯入ったが初めての温泉は63湯…といった具合だ。

 このような背景があっての今回の「300日3000湯」。ここで3000湯の温泉をめぐれば、ほぼ日本の「全湯制覇」になるだろうと考えた。なにしろ日本中の温泉に入るのはぼくの長年の悲願なのだ。さらに300日間という限られた期間で日本中の温泉をめぐることによって、今の日本の温泉の現状をリアルに知ることができると思っている。さらに日本人の生活と深くかかわっている「温泉文化」にも迫っていけるのではないかと期待している。地域による温泉の違いにも目を向けたい。

 2006年11月1日に出発した「300日3000湯」の「温泉めぐり日本一周」だが、8分割したエリアのうち、「関東編」と「甲信編」を終えた。49日間で8305キロを走り、419湯の温泉に入った。このあと「本州西部編」「四国編」「九州編」「本州東部編」「北海道編」とつづき、「伊豆初島編」を最後にし、2007年11月1日に東京・日本橋にゴールして終える予定だ。

「目指せ、3000湯!」