賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(16)

■2013年3月12日(火)晴「四倉舞子温泉→蒲庭温泉」260キロ

 6時前に起き、四倉舞子温泉「よこ川荘」の朝湯に入り、早朝の海岸を歩いた。穏やかな海。やがて太平洋の水平線上に朝日が昇る。

「よこ川荘」に戻ると、渡辺哲さん、古山里美さんと一緒に朝食を食べ、7時に出発。渡辺さんはここからいわき市内の会社に出社し、古山さんは宮城県東松島市に向かっていく。カソリは「浜通り」を北上する。

「よこ川荘」のおかみさんは手を振って我々を見送ってくれた。

「また来ますよ~!」

 おかみさんにひと声かけて走り出す。海沿いの県道382号から国道6号の四倉の交差点に出たところで渡辺さん、古山さんと別れた。

 カソリは国道6号を北へ。スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせる。トンネルを抜け出ると波立海岸。国道の脇にある波立薬師を参拝。ここも大津波に襲われた所だが、波立薬師は残った。目の前の弁天島の赤い鳥居も残った。

 波立海岸から久之浜へ。ここは大地震、大津波の後、さらに津波火災の大火に見舞われ、海岸一帯の町並みは全滅した。その中でポツンと秋葉神社の祠だけが残った。

 国道6号をさらに北上し、広野町から楢葉町に入る。今は楢葉町の全域に行けるようになっているが、住民はまだ戻っていない。住めるような状態ではないのだ。ここが渡辺さんの住む町。いわき市内からわずかな距離でしかないのに自宅に戻れず、さぞかし悔しい思いをしていることであろう。

 楢葉町を北上し、富岡町との境まで行く。そこが一般車両の通行止地点。警察車両が出て、警官が車を1台1台止めている。そこから先は許可証を持った車だけが入っていける。

 楢葉・富岡の町境で折り返し、国道6号の1本東側の県道244号を行く。県道244号の楢葉・富岡の町境は無人のゲートだ。

 国道6号、県道244号という2本のルートで楢葉・富岡の町境まで行ったところで、波倉の集落を抜け、太平洋岸に出る。大津波で破壊された堤防の向こうに東京電力福島第2原子力発電所がある。福島第2は楢葉町富岡町の2つの町にまたがっている。堤防がメチャクチャになっていることからもわかるように、福島第2も大きな被害を受けるところだった。

 もし福島第2が福島第1と同じような規模の事故を起こしていたら、「浜通り」は、というよりも日本はさらに大変なことになっていたのは間違いない。紙一重の差で残った「福島第2」もやはり「奇跡のポイント」といっていい。

 楢葉町富岡町の町境一帯にはおびただしい数の工事車両が出動し、各所で除染作業をしていた。道路沿いには刈り取られた草木などを詰めた黒い袋が無数、置かれていた。それらの除染用袋の集積場には大型のクレーン車が出て、黒い袋を山のように積み上げていた。その光景を見て、「これをどうやって処理するのだろう」と、素朴な疑問にとらわれてしまうのだった。

 楢葉町の海岸地帯を離れ、阿武隈山地の山裾を走る県道35号に出る。この道は国道6号のバイパス的なルートで、震災以前はかなりの交通量があった。それが今では無人の荒野を行くかのようで、すれ違う車はほどんどない。

 県道35号の楢葉町富岡町の境は開閉式のゲート。そこには警察官が出ていた。ここではバイクを止められ、免許証を調べられた。その場での警察官のチェックだけではなく、パトカーの無線を使って警察本部に免許証を照合している。このように「浜通り」の被災地でパトカーに止められると、必ずといっていいほど免許証を無線で照合して調べられる。これがわずらわしい…。

 県道35号から乙次郎林道経由で川内村に向かう。楢葉町に入れるようになったので、乙次郎林道も走れるようになった。林道入口から0・9キロ地点でダートに突入。舗装化の進む乙次郎林道だが、それでもまだ3区間のダートの合計は11・0キロと10キロを超えている。それが何ともうれしい。「林道の狼カソリ」は、10・0キロのダート距離をロングダートの目安にしているからだ。

 川内村に入ると滝谷林道が分岐するが、滝谷林道は通行止になっていた。また乙次郎林道に接続する小田代林道は全線が舗装路になっていた。

 川内村には村民が戻ってきている。人の生活のにおいがする。建設中の新しい家を見る。居酒屋もオープンしている。道路沿いの線量計の数値も「0・505マイクロシーベルト」と小数点以下まで下がっている。桃源郷のような山間の村、川内村が震災以前のような姿に戻ることを願うばかりだ。

 川内村からは国道399号を北上。田村市葛尾村と通って浪江町に入る。川内村田村市の境は名無し峠。田村市葛尾村の境は掛札峠、葛尾村浪江町の境は登館峠で、峠が市町村境になっている。

 浪江町の次は飯舘村だが、長泥地区が封鎖されているので、大きく迂回しなくてはならない。国道114号で水境峠を越えて川俣町に入り、川俣町の山木屋から飯舘村に入った。飯舘村は大半の村民が避難しているので人影はない。

 村役場に立ち寄り、線量計を見る。「0・59マイクロシーベルト」という数値で震災直後に来たときと比べると、大幅に下がっている。

 飯舘村からは県道12号で八木沢峠を越えて南相馬市に入った。

 国道6号に出たところにある道の駅「南相馬」でビッグボーイを止めた。長い長い迂回路だった。楢葉町から国道6号で来れば、南相馬までは1時間ほどなのに、それをを4時間以上もかけてやってきた。分断された国道6号の影響はあまりにも大きい。「浜通り」はひとつなのに、それが北と南に分断されてしまったのである。

 道の駅「南相馬」のレストラン「さくら亭」で昼食の「たんめん」を食べたところで、国道6号を南下し、浪江町との境まで行ってみる。南相馬と浪江の市町境が通行止地点で警察が1台1台の車を止めている。次に海沿いの県道255号で浪江町との境まで行ってみる。そこには無人のゲート。小高神社のある小高まで戻ると、海沿いの県道260号を行く。この道は大津波の影響で何ヵ所かで通行止になっている。

 道の駅「南相馬」に戻ると、今度は北へ。海沿いの県道74号で南相馬市から相馬市に入り、蒲庭温泉の一軒宿、「蒲庭館」に泊まった。この一帯の磯部地区では250人もの犠牲者を出したが、「蒲庭館」は残った。

 蒲庭温泉の湯につかり、湯上りのビールを飲み干したところで夕食。宿のおかみさんは震災当日の話をしてくれた。

「あの日は午後5時から、中学校の卒業式のあとのお別れ会がウチでおこなわれる予定になってました。PTAの会長さんら50人ほどが集まっての宴会になるはずでした。それがあのような大津波に襲われてしまって…。PTAの会長さん一家は6人全員が亡くなりました。お別れ会を夕方の5時ではなくて午後の3時ぐらいから始めていたら、みなさん、助かったのに…」といっておかみさんは嘆くのだった。