賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(17)

■2013年3月13日(水)晴「蒲庭温泉→宮戸島」191キロ(木)(その1)

 蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、朝食を食べ、8時出発。相馬から松川浦へ。松川浦では海苔の養殖が始まっていた。漁船は岸壁に停泊したままで、まだ本格的な漁の再開とはいかないようだ。鵜の尾岬に渡る松川浦大橋は通行止がつづいていた。

 松川浦からは海沿いの県道30号を行く。新地の石炭火力の発電所前を通り、大津波で壊滅した新地の町跡をビッグボーイで走り抜けていく。瓦礫はきれいに撤去されているが、その中に家々の土台だけが残っている。県道30号の宮城県境近くの橋は落ちたままだ。

 JR常磐線新地駅に行ってみる。大津波に襲われてグニャッと折れ曲がった跨線橋は撤去され、線路も撤去されていた。駅前の瓦礫の山は消え去り、新しい土地の造成工事が始まっていた。見上げるような、かなりの高さの造成地。その上に復興住宅の建ち並ぶ日が待ち遠しい。

 国道6号で福島県の新地町から宮城県の山元町に入る。ここでもJR常磐線の坂元駅まで行ってみる。坂元駅は一段高くなっているので、ホームは残った。ホームが防波堤の役目をしたからなのだろう、駅前の案内板も残っていた。

 この一帯では「国交省 海岸工事」のゼッケンをつけたおびただしい数のダンプカーが走りまわっていた。福島県よりも宮城県の方が、はるかに海岸線の復興工事が進んでいるように見える。福島県では東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故が大きな足かせになっているようだ。

 坂元駅につづいて次の山下駅にも行ってみる。山元町は山下村と坂元村が昭和30年(1955年)に合併してできた町。山下駅が旧山下村の駅、坂元駅が旧坂元村の駅ということになる。山下駅の周辺のかさ上げした宅地造成はかなり進み、すでに新しい家が建ち始めている。それは目に見える東北太平洋岸の復興の姿だった。

 山下駅前から国道6号に戻り、北へとビッグボーイを走らせる。

 山元ICを通る。常磐道の延伸は進み、仙台方面からだと山元ICまで完成している。この山元ICは国道6号のすぐ脇なので簡単に出入りできるのがすごくいい。

 福島県内の常磐道は相馬ICと南相馬ICの間が完成している。相馬ICと山元ICの間が1日も早くつながって欲しい。そうすることによって、相馬地方の復興にはきっと大きな弾みがつくことであろう。

 国道6号で亘理町に入っていく。ここからは太平洋沿岸ルートの県道10号を行く。この県道10号は三陸海岸への絶好の抜け道になっている。

 亘理でも亘理駅に立ち寄った。常磐線は仙台から亘理までは開通している。鉄道が復旧すると、町には活気が蘇る。

 伊達支藩の城下町の亘理だけあって、駅舎の隣りには亘理城を模した造りの郷土資料館がある。伊達成実以来、亘理伊達家は15代つづいた。明治維新を迎えると、城下の士族たちは北海道に渡り、伊達紋別の新地を開拓した。郷土資料館ではそんな城下町としての亘理の歴史を見ることができる。

 亘理駅前から阿武隈川河口の荒浜へ。ここは阿武隈川船運の拠点としておおいに繁栄した港町。伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜が大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。震災直後は荒浜中学校の広いを敷地を自衛隊の災害復旧支援の大型車両が埋め尽くしていたが、それがまるで幻だったかのように今は何もない。校舎も取り壊されて広々とした更地になっていた。

 荒浜漁港に行くと港はずいぶんと整備され、漁も再開されていた。荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、河口南側の潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の「鳥の海」がある。大改装して4階建にして間もなく大津波に襲われた。建物は残っているが、再開の見込みはまったくないという。「鳥の海」の前にあった巨大な瓦礫の山はきれいに撤去されていた。

 県道10号で阿武隈川を渡り、名取市に入る。県道10号沿いの「KUMA食堂」で「カレーライス」(500円)を食べた。安くてボリュームがあってうまいカレーライス。「KUMA食堂」は県道10号のおすすめ食堂だ。

 昼食のカレーライスでパワーアップしたところで、県道10号をさらに北へ。仙台空港の滑走路の下をトンネルで抜けていく。震災直後はこの区間は通行止になっていた。周辺はすさまじいほどの惨状だった。大津波によって破壊された軽飛行機が何基も折り重なり、沼のような水溜りには何台もの車が沈んでいた。それもまるで幻だったかのように、今では痕跡すら見ることもできない。

 名取川河口の閖上へ。震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていた。 高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が焼き払われた跡のようだ。ここだけで1000人近い犠牲者を出している。そんな閖上だが、瓦礫はきれいに撤去され、今ではきれいさっぱりと何も残っていない。港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望した。

 日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、酒田や石巻日和山はよく知られている。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを証明している。

 江戸時代の閖上は、伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を通して、阿武隈川河口の荒浜と七北田河口の蒲生の中継地として栄えた。ちなみに蒲生にも標高6メートルの日和山があった。「元祖・日本で一番低い山」として知られていたが、今回の大津波で蒲生の日和山は根こそぎ流され、山が消えた。

 ところで閖上(ゆりあげ)の地名だが、伊達政宗豊臣秀吉から贈られた門を船で運び、ここで陸揚げしたことに由来しているという。閖上日和山には高さ2・5メートルの木柱が2本、立っている。1本には富主姫神社、もう1本には閖上湊神社と書かれている。これは2つの神社の、神が宿るための神籬だ。

 もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には、日和山富士主姫神社がまつられていた。大津波日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流された。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流された。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで、日和山両神社の仮設の社ということで2本の神籬が立てられたのだ。閖上の貞山堀にかかる橋にはカーネーションの白い花が並べられていた。

 貞山堀の橋を渡ったところには、

「ふるさと閖上 大好き」

 と大きく書かれた看板が立っていた。

 閖上漁港に行くと、仮設の魚市場が完成していた。漁港の岸壁は工事中。対岸では瓦礫処理の焼却場が大きな音をたてて稼動していた。その音は「閖上復興」への音のようにも聞こえた。