賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(9) 韓国往復縦断(1)

「東アジア走破行」の第7弾目は2005年10月の「韓国往復縦断」。この年の5月1日、韓国へのバイク持込が解禁になった。「道祖神」はそれを記念して「賀曽利隆と走る!」シリーズの第11弾目として「韓国往復縦断」を企画した。

こうしてぼくは2005年10月8日、大きな期待を抱いて自宅前からスズキDR-Z400Sで走り出し、「韓国往復縦断」へと出発した。

「さー、釜山へ!」

 旅立ちで、これほど高揚した気分になることもそうはない。

 胸がいっぱいに膨れ上がり、秦野中井ICで東名に入っても、「釜山へ、釜山へ!」と何度も「釜山」を口にした。まわりを走っている車、1台1台に、「ぼくはこれから、釜山まで行くんですよー!」と、いいたくなるような気分だった。

 東名→名神と走りつないで大阪へ。大阪では鶴橋のコリアンタウンの食堂で冷麺を食べたが、「東アジア走破行」第2弾目の「韓国一周」(2000年)を思い出し、韓国ツーリングへの期待がいやがうえにも高まった。大阪南港19時10分発の名門大洋フェリー「ふくおか2」で新門司港へ。翌朝の8時には新門司港に着いた。

 まずは九州最北端の部崎に立ち、午前中は北九州をまわった。そして関門海峡を渡り、昼過ぎに関釜フェリーの出る下関港国際ターミナルに到着した。

 2005年5月1日に韓国へのバイクの持ち込みが解禁されたといったが、これは歴史的な出来事といっていい。韓国は「近くて遠い国」といわれてきたが、我らツーリングライダーにとっては「近くてとてつもなく遠い国」だった。韓国にバイクを持ち込むのは至難の技だったからだ。それがこの歴史的な解禁によってパスポートと国際免許証、バイクの国際登録証があれば日本のナンバープレートのままで、下関港から関釜フェリーに乗り、バイクともども韓国の釜山港に渡れるようになった。新たな海外ツーリングの幕開けといっていい。

 集合場所の下関港国際ターミナルには、参加者のみなさんが日本各地から次々にやって来た。最年長は73歳の松浦善三さん。山形県東根市からGL1500のサイドカーで1400キロ走っての到着だ。

「一生に一度は自分の家から海外にバイクで行くのが私の夢だったんですよ」

 と、松浦さんは熱く語った。

 マジェスティーの島田利嗣さんは62歳。一緒に「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を走った仲間。東京から日本海ルートで、2泊3日のツーリングを楽しみながら下関までやってきた。

 旧車バハの新保一晃さんとは「ユーラシア横断」、「アラスカ縦断」、「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を一緒に走っている。通称「新ちゃん」。バイク大好き人間だ。

 XRバハの伴在哲さんとは「サハリン縦断」、「ユーラシア横断」、「南部アフリカ」を一緒に走った。通称「伴ちゃん」。やさしい性格をしている。

 セローの椋原眞理さんは母親だとは思えないほど若く見える。

 児玉真喜子さんはタンデムでの参加。

 こうして全部で11台のバイクと「道祖神」の菊地優さん、女性通訳の国定富さんの総勢13名で「韓国往復縦断」を走るのだ。

 下関港での出国手続きはスムーズに終わった。関釜フェリーの職員が我々につきっきりで案内してくれたおかげだ。

 イミグレーションではパスポートに「KANMON(関門)」の出国印が押され、カスタム(税関)ではバイクの一時輸出入申告書に下関税関の輸出許可印が押された。

 いよいよ関釜フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)に乗船。「はまゆう」は定刻の19時に下関港のフェリー埠頭を離れていく。さっそく自販機の500㏄の缶ビールで参加者のみなさんと乾杯。下関港を出ると缶ビールは無税になるので1本220円。そのあと船内のレストランでみなさんと一緒に夕食。ぼくは「豚カルビー定食」(1000円)を食べた。

「はまゆう」は釜山港を目指し、玄界灘を北西へと進む。冷たい風に吹かれながら甲板に立っていると、暗い波間に漁火が点々と見えた。「おー、何だ何だ、あれは」と声が出るくらいの異様な明るさ。波の荒い玄界灘なので船はけっこう揺れた。

 まったく船酔いしない「船旅大好き」のカソリ、その揺れはなんとも心地のよいものだった。船の揺れがおさまったころ目がさめた。時間は午前2時。まばゆいばかりの釜山の町明かりが見えていた。「はまゆう」は釜山港の港外に停船。すぐ近くには五六島の灯台の灯が見える。関釜フェリーの下関から釜山までの正味の航行時間は8時間ほどでしかない。

 2005年10月10日8時、関釜フェリーの「はまゆう」は釜山港のフェリー埠頭に接岸。岸壁にDR-Z400Sで降り立ったときは「やった、ついに釜山に着いた!」

という気分。釜山港でもそれほど時間がかからずに入国手続きを終えた。

 税関を出て、釜山港の国際フェリーターミナル前に11台のバイクをズラズラッと並べたときは、何ともいえず晴れがましい気分になった。

道祖神」の菊地さんと通訳兼ガイドの国定さんの乗った車の先導で、我々は釜山の町を走り始めた。バイクに乗りながら、大通りのハングルの看板やヒュンダイ、デーウ、キアなどの韓国車を見ていると、海を渡って韓国にやってきたという実感がする。

 釜山名物の渋滞にはまると、手を振ってくれたり、

「イルボン(日本)か?」

 と、声をかけてくれる人もいるほど11台のバイクの車列は目立った。

 韓国第2の都市、釜山を走り抜け、国道14号に入ったところでぼくが先頭を走り、車が最後尾についた。バックミラーに映る10台のバイクの長いラインには胸がジーンとしてしまう。

 国道沿いの食堂で昼食。記念すべき「韓国往復縦断」の第1食目だ。ここでは「ソモリ・クッパ」を食べた。牛の頭でダシをとったという白っぽい色のスープ。その中にご飯が入っている。辛味はまったくない。濃厚な牛のエキスが舌に残る。日本でもおなじみのクッパだが、これはまさに韓国食。韓国ならではのクッパにうれしくなってしまう。金属器の箸と匙。これもまさしく韓国の食文化だ。

 釜山から国道14号で韓国の大財閥、「現代」の企業城下町蔚山へ。バイクで走りながら「現代」の工場群を見る。その中でも、急成長をとげている現代自動車の工場が目立った。工場の近くには完成車がズラーッと並んでいた。壮観な眺めだ。

 蔚山からは国道7号を北上し、慶尚南道から慶尚北道に入り、「新羅千年の都」慶州に到着。新羅の歴史は次のようなものだ。

 660年に百済を滅ぼした新羅は、668年には高句麗を滅ぼし、「三国時代」にピリオドを打って朝鮮半島統一を成しとげた。しかし8世紀の後半になると、王位継承争いや農民の反乱などで国が乱れてしまう。9世紀末には西部に後百済が、北部には後高句麗が建国され、朝鮮半島は混乱の「後三国時代」に突入する。918年になると開城の豪族だった王建が後高句麗を倒し、国号を高麗と改めた。935年に新羅はその高麗に倒されてしまう。伝承によれば新羅の建国は紀元前57年なので、高麗に滅ぼされるまでの1000年間、慶州は新羅の都だったことになる。なお高麗は翌936年に後百済を倒して朝鮮半島を統一。高麗時代はその後、1392年に李朝の祖、李成桂に滅ぼされるまでつづく。ちなみに英語の「KOREA」は高麗に由来している。

「さー、慶州めぐりの開始だ!」

 まずは慶州郊外の吐含山中腹にある世界遺産の仏国寺に行く。

 新羅時代の751年に創建された古刹だが、1593年の壬辰倭乱でほとんどの木造の建造物が燃えてしまった。その後、何度か再建された。1970年から73年にかけては大規模な修復工事がおこなわれ、その直後の1995年に世界遺産に登録された。

 入口の一柱門で拝観料の4000ウォンを払い、大伽藍の寺の境内に入っていく。四天王像が立つ天王門をくぐり抜け、まっすぐ歩いていくと正面には石垣の上に建つ紫霞門が見えてくる。その左手には安養門。城壁を思わせるような堂々とした石垣。寺全体が要塞のようにも見える。

 紫霞門の奥に大雄殿、安養門の奥には極楽殿。本殿のそり上がった屋根の大雄殿には、本尊の釈迦牟尼像がまつられ、その左右には弥勒菩薩像と羯羅菩薩像が並んでいる。

 紫雲門と大雄殿の間には、石造りの相塔、釈迦塔と多宝塔が立っている。大雄殿に向かって左側に3層の石塔の釈迦塔、右側には手のこんだ造りの多宝塔。さすがに新羅仏教美術の極致といわれる国宝の多宝塔と釈迦塔だけのことはあって、この双塔には目を吸い寄せられてしまう。何人もの人たちが双塔の下で記念撮影している。

 仏国寺から慶州の市内に入っていく。慶州は回りを山々に囲まれた盆地の町。東に吐含山、北に玉女峰、南には南山があり、兄山江が西側を流れている。慶州は四方を天然の砦に囲まれた要害の地だ。古墳公園を歩く。新羅王朝の王族の古墳群で、7基の王陵をはじめとして全部で23基の古墳が復元保存され、地下にはなお250基もの古墳が眠っているという。宮崎県の西都原古墳群とよく似た風景の古墳公園だ。

 次に640年前後に建てられたという東洋最古の天文台で知られる石造りの瞻星台を見る。高さ9メートル。上部がすぼんだ円筒形をした瞻星台は、まさに慶州のシンボルといっていい。土台となっている礎石は4方向に3つずつ計12個が置かれ、これが4季と12ヵ月を表し、361個の花崗岩を28段に積み上げたその数は太陰暦の1年の日数を意味している。新羅時代の占星学者は塔中央部の窓から入る光の長さや、塔内側の底部の水鏡に映る星の動きなどから天体観測をしていたという。「新羅千年の都」だけあって慶州は心に残った。

 そんな慶州に別れを告げ、釜山から150キロの浦項へ。町中の「ラマダ・アンコールホテル」に泊まった。ホテル近くの「太白山」という店で焼肉パーティー。韓国ビールで乾杯。そのあとは焼酎を飲みながら焼肉を腹いっぱい食べた。さすが韓国、メチャクチャうまい焼肉だ。飲みながら、食べながらのみなさんとの話はおおいにはずんだ。

 翌朝はホテル6階の部屋からすばらしい日の出を見た。浦項は製鉄の町。世界でも最大級の製鉄所(POSCO)の高炉を赤々と染めて朝日が昇った。

 浦項からは国道7号を北上。平海の町の手前で、釜山を出発して以来、初めて日本海を見た。我々は海岸にバイクを停め、「おー、日本海だ!」と、喜びの声を上げた。

 国道7号で東海岸を行く。山々が海まで迫る東海岸は、平野の広がる西海岸に比べると、国道の交通量が全然、違う。ガクンと少なくなり、通り過ぎていく町々の数も少なくなる。地図を広げてみればすぐにわかることだが、韓国の背骨となる太白山脈の山々は、東海岸のすぐ近くを南北に連なっている。半島の脊梁山脈があまりにも東海岸にかたよりすぎているのだ。その太白山脈に北から金剛山、雪岳山、王台山、太白山といった高峰群がそびえている。この太白山脈の東側は急傾斜で流れ出る川は距離も短く、平野をつくる間もなく、すぐに日本海に流れ出る。ところが西側はゆるやかな傾斜で、そこから流れ出る韓国の三大河川、漢江、錦江、洛東江は流域には幾つもの盆地をつくり、下流には穀倉地帯の平野をつくって黄海朝鮮海峡の海に流れ出る。国道7号の交通量が少なく、国道沿いに町や村が少ないのは、このような地形的な理由によるところがきわめて大きい。

 蔚珍を過ぎたところで慶尚北道から江原道に入った。国道沿いの食堂で昼食。ビビンバを食べた。日本と違うところは具の入った器とご飯の入った器が別々に出てくることで、自分でご飯を入れ、かきまぜて食べる。器も箸も匙もすべて金属。先にもふれたことだが、この金属製3点セットが韓国の食文化を象徴している。

 国道7号をさらに北上し、東海岸を行く。海岸線には途切れることなく鉄条網のフェンスが張られている。ところどころには監視所があり、銃を構えた兵士が監視している。国道7号には突然、滑走路に変わる区間もあった。

 三陟、東海と通り、江陵と通り過ぎた海岸には北朝鮮の潜水艦が展示されていた。1996年9月18日、この地で座礁した北朝鮮の潜水艦だ。武装スパイや乗組員ら39名が上陸したとみられ、11月7日に大規模な捜索を終了するまで、北朝鮮人民軍上尉1人を逮捕、その他は全員が射殺、または死体で発見された。韓国軍に射殺されたり、仲間内での射殺だという。韓国側も反撃を受けたり、誤射などで兵士、民間人合わせて16人が犠牲になった。北朝鮮は9月22日に「訓練中に機関故障で漂流」と発表して以降、潜水艦と乗務員、遺体の無条件返還を求め、報復を示唆する声明なども出して南北関係は険悪化した。この地は韓国現代史の舞台なのだ。

 ほぼそっくりそのまま残った北朝鮮の潜水艦は見学できる。艦内には日本製の機器も使われている。はたしてどの程度のレベルの潜水艦なのか。潜水艦のあとは朝鮮戦争の資料館を見学した。

 江陵から襄陽に向かっていく途中の大明で、38度線を通過。そこには「北緯38度線碑」が建っている。「大明38度線休憩所」の「38度線レストラン」で「38度線の日本海」を見ながらコーヒーを飲んだ。38度線というと朝鮮半島軍事境界線だが、西海岸の板門店あたりでは38度でも、東海岸では38度30分あたりが軍事境界線になっている。それはおいて「38度線越え」はハラハラドキドキするものだ。第2次大戦後、ベトナムの北緯17度線、ベルリンの壁朝鮮半島の38度線と、戦争の遺物のような境界線が残ったが、最後まで残り、いつ解決するのかわからないのが朝鮮半島の38度線。朝鮮民族の悲劇を象徴している38度線を越え、襄陽の町を通り過ぎ、釜山から450キロの束草に到着。海辺の「シップホテル」に泊まった。

 夕食は海鮮料理店で。ワカメスープ、アサリスープ、煮魚、刺身の盛合わと海鮮三昧の食事。最後はチゲ鍋。食後はメンバーのみなさんと漁港近くの露店を歩き、イカやエビのフライを肴に焼酎を飲んだ。

 翌朝は夜明けとともに海岸を歩き、日本海の水平線に昇る朝日を見た。

 朝食はホテルの近くの食堂で。ご飯と干しダラ入りの味噌汁のほかに、キムチやメンタイコ、塩辛、ノリなど全部で9品のおかずが出た。これらは食べ放題。何度でもおかわりできる。最高にうまい白菜のキムチを腹いっぱい食べられるのが韓流だ。

 午前中は束草をめぐる。漁港に行き、手動の渡し舟で対岸に渡り、市場を歩いた。熟柿や栗が韓国の秋を感じさせる。キムチを漬ける甕が山積みにされて売られている。もうじき、キムチを漬ける「キムジャン」の季節がやってくる。韓国ではキムチを漬け込む季節をキムジャンと呼んでいるが、その季節になると市場には白菜や大根が山積みにされ、このようにキムチを漬ける甕が売られる。この甕をオンギといっている。

「キムジャンのキムチでないと、ほんとうの味がでないのよ」

 といって、韓国の主婦たちはこの季節にこぞってキムチを漬ける。

 キムジャンになると、日本で冬のボーナスが支給されるのと同じように、韓国ではキムジャン・ボーナスが支給される。それこそ一家総出でキムチを漬けるので、学校や会社ではキムジャン休暇があるという。韓国人にとってのキムチの漬け込みは早春のジャン(味噌と醤油)の仕込みとともに、「人家二大行事」といわれるほど重要なことなのだ。

 束草の「シップホテル」に戻ると、韓国最北の地、高城の統一展望台を目指して出発。杆城を通り、韓国最北の町、巨津へ。この間の海岸地帯には白鳥、金剛山、三浦、松池湖、巨津といった海水浴場があるが、38度線以北の海岸ということで、国道7号沿いや海岸線には2重、3重の有刺鉄線が張られている。厳重な警備網とそのなかにある海水浴場のアンバランスさが軍事境界線に近い韓国北部の日本海岸をよく表してしている。

 巨津からさらに北へ。最後の海水浴場の花津浦に立ち寄る。海水浴の季節はとっくに終わっているので、砂浜に人影はない。北朝鮮国境近くの村の食堂で昼食。この地方独特の細麺の冷麺を食べる。ソバ粉の素麺といったところ。それにゴマ油と酢、砂糖をふりかけて食べるのだ。

 束草から70キロ、釜山から520キロ走り、ついに韓国最北端の高城統一展望台に到着した。すばらしい天気で展望台からは朝鮮半島第一の名山、金剛山の峰々が一望できた。澄みきった秋空を背に、主峰群がくっきりと見えた。金剛山分水嶺を境にして西側は外金剛、東側は内金剛といわれ、その山並みが海に落ちたところが朝鮮半島随一の海岸美を誇る海金剛になる。これらはすべて北朝鮮領内になるが、「東アジア走破行」の第3弾目、2001年の「ソウル→北朝鮮」で見た海金剛の海岸美や金剛山の山岳美が目に浮かんでくるのだった。