賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(14)台湾一周

「東アジア走破行」の第11弾目は2010年の「台湾一周」。6月17日、成田空港から9時40分発のチャイナエアラインCL107便の台北行きに乗り込んだ。成田を飛びたってから3時間後、台湾が見えてきた。長年の夢だったバイクでの「台湾一周」がいよいよ始まるのだ。

「台湾一周」に初めて想いを馳せたのは1968年のこと。「アフリカ大陸縦断」を目指して4月12日、横浜港でオランダ船の「ルイス号」に乗り込み、南部アフリカ・モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)港に向かった。友人の前野幹夫君と一緒だ。2台のバイク、スズTC250も乗っている。カソリ、20歳の旅立ちだ。

 横浜港を出港した「ルイス号」の乗客は、約100人のブラジルに移民する台湾人と、日本で農業実習を受けて帰国する4人の日系ブラジル人、南米を一人旅しようとしている日本人青年が5人、それとアフリカ南部のモザンビークで下船するぼくたち2人だった。 台湾人は誰もが感じがよかった。年配の人たちは、ほとんどの人たちが日本語を話し、若い世代の人たちの中にも、日本語を勉強している人が何人もいた。そんな台湾人の中でぼくは同世代の女性の素琴と仲良くなった。彼女は甲板で台湾の歌を聞かせてくれたが、澄んだ歌声と抑揚のあるもの悲しいリズムが胸にしみた。

 素琴は話も上手だ。

「さー、みんな、お話をしてあげるから来なさい」

 と声をかけると、何人もの子供たちが集まってくる。目を輝かせて素琴の話を聞く子供たちの姿が印象に残った。

「ルイス号」は横浜港を出たあと、名古屋港に寄港し、神戸港に入港した。神戸では日本に里帰りした5人の日系ブラジル人と、ボリビアに移民する約20人の沖縄人が乗り込んだ。当時の沖縄といえば、まだ日本に復帰する以前のことなので、とうとう日本人移民は1人も乗らなかった。

「ルイス号」はこの航海が最後になった。日本から南米への移民がほとんどなくなったからだ。すでに太平洋からパナマ運河経由の日本船の移民船もなくなっていた。「ルイス号」は日本から出た最後の南米移民船ということになる。

 1960年代の後半というのは、日本が高度経済成長の道をまっしぐらに突っ走り、まさに絶頂期にさしかかろうかという時代であった。

「ルイス号」は韓国の釜山港に寄港し、そこで100人ほどの韓国人移民が乗り込んだ。釜山港を出ると、香港、シンガポール、ポートセッテンハムと寄港し、インド洋を南下。モーリシャス島に寄港し、南回帰線を越えると、水平線上にマダガスカル島が霞んで見えた。ぼくたちの目的地のアフリカがもうすぐそこだ。

 モザンビークのロレンソマルケス港に着く前夜、大勢の人たちが甲板に集まり、ぼくと前野のために、お別れパーティーを開いてくれた。素琴は台湾の歌を歌ってくれた。なにかというと「コリアン・ナンバーワン(韓国は世界一!)」をくり返していた韓国人青年は、しんみりとした韓国の歌を歌ってくれた。歌の上手な前野はお礼だといって声をふりしぼり、暗い海に向かって歌った。いつになく寂しげな前野の歌声だった。

 沖縄の16歳の少女、幸枝ちゃんはぼくのほほにキスしてくれた。

「がんばってね。アフリカで病気になったり、怪我したりしないでね」

 と、目に涙をいっぱい浮かべて別れの言葉をかけてくれた。

 ぼくはこのとき、いたたまれないほどの別れの辛さを味わった。

 1ヵ月以上の船旅で、家族同様に親しくなった多くの人たちとの別れ。それまでは人との別れが辛いものだとは思ってもみなかったし、そのような別れを知らなかったこともある。

 横浜港を旅立つときも、見送りに来てくれた家族や親戚、友人たちとの別れの辛さは微塵もなく、

「これで日本を飛び出していけるゾ!」

 と、雲の上をフワフワ歩くような気分だった。

 横浜港を出港してから37日目の5月18日、「ルイス号」はモザンビークのロレンソマルケス港に到着した。モザンビークは当時はポルトガル領で、ポルトガル人のイミグレーションの係官が乗船し、入国手続きは船内でおこなわれた。モザンビークへの入国手続きは簡単に終わり、ぼくたちはあっけないくらいにアフリカの大地に降り立った。バイクの通関には日数がかかるといわれ、「ルイス号」の出港の日までそのまま船内で宿泊させてもらい、1日3度の食事も船内の食堂で食べさせてもらった。

 5月21日、「ルイス号」のみなさんとのほんとうの別れになった。

 日が落ち、暗くなったところでぼくたちは下船する。「ルイス号」は2度、3度と汽笛を鳴らし岸壁を離れていく。甲板ではみんなが懐中電灯を振ってくれている。

 ぼくたちは声のつづくかぎり叫びつづけた。

「さよーならー、さよーならー!」

「ルイス号」は暗い海に出ていく。懐中電灯のいくつもの明かりがだんだん小さく、遠くなっていく。やがて「ルイス号」はポツンと見える点のような明かりになり、暗い波間の向こうに消えていった。

 このときぼくは決心したのだ。

「アフリカ大陸縦断」を終えたら「南米を一周しよう!」、さらに「台湾も韓国も一周しよう!」と。

「南米一周」を成しとげたのはそれから16年後の1984年。

「韓国一周」はそれから31年後の2000年。

 そしてついに42年後の2010年、「台湾一周」を実現させたのだ。

(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載、「台湾一周」をご覧ください)